鴨川日記

本の紹介を中心に活動しています。

TVアニメ『絶園のテンペスト』について

 

                                All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
Shakespeare, As You Like It, II. vii. 139-40

 

1.シェイクスピアと世界劇場 

TVアニメ『絶園のテンペスト』にはシェイクスピアからの引用、シェイクスピアへのアリュージョンが多い。作中のセリフには『ハムレット』のほか、タイトルにもある『テンペストからしばしば引用されるし、また直接の引用でなくとも、孤島の魔法使いをはじめ、作中の様々なモチーフも上記の二冊に負うているものが数多くある。いわゆる「御柱」が消失した際、空に舞う多くのアゲハ蝶を見た吉野の言う

胡蝶の夢とも言うね。この世は夢かうつつかわからない。これまで俺たちがみてきた世界は都合のいい偽物だって言っているのかもしれない」

という東洋的な趣のセリフでさえ、シェイクスピアの『テンペスト』の有名なセリフを下敷きにしているようである。

                                    These our actors,
As I foretold you, were all spirits and
Are melted into air, into air;
And like the baseless fabric of this vision,
The solemn temples, the great globe itself,
Yea, all which it inherit, shall dissolve
And, like this insubstantial pageant faded,
Leave not a rack behind. We are such stuff
As dreams are made on, and our little life
Is rounded with a sleep.
Shakespeare, Tempest, IV. i. 150-9

真広と吉野が、彼らのいた「始まりの木」に支配されていた世界が造られたニセモノかもしれないと言うように、『テンペスト』における上のプロスペローのセリフも、彼のいる世界が劇というニセモノである事を舞台の観客に意識させる。さて、このメタシアターの効果とは観客に「劇中劇というニセモノを見ている劇の世界もニセモノなら、劇というニセモノを見ている自分たちもニセモノなのかもしれない」と思わせるところにもあるだろう。つまり、私たちが生きている世界は劇場で、私たち自身役者であるかもしれないのだ。この考えはラテン語でtheatrum mundi(世界劇場)というもので、シェイクスピアが生きたエリザベス朝における世界観であった。

 

そしてこの作品『絶園のテンペスト』は、メタシアターの手法を効果的に用いたという意味でシェイクスピアの末裔であるといえる。「始まりの木」に支配されていた世界は、二人が「都合のいい偽物」かもしれない世界だったという通り、一種の劇中劇的世界となっているからだ。このこと詳しく見てみよう。絶園の魔法使いであった愛花は、「倒されるために存在する神」である「始まりの木」の司る「理」のために死を選んだ。彼女は言う、

「私は始まりの木を倒すのが使命の絶園の魔法使い。倒す道を選ぶために私の死が必要なら、自ら死を選ぶことは理屈に合っている」

彼女の行動原理はまさに、「始まりの木」を倒すための「理」という台本の通りに絶園の魔法使いを生きて(そして死んで)いくことであった。だからこそ、最期に残したビデオレターで、

「舞台上の役者は、シナリオを無視して勝手に動くわけにはいきません。美しく退場してこそ、役目を果たせたといえます」

と言うのである。この言葉に対して愛花の墓を前にしたとき、真広は語りかける。

「お前にとって人生は誰かに決められたシナリオ通り演じ、その通り終わらせるもの。だから、シェイクスピアのセリフをやたら口にしてたんだな。. . . 誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ」

しかし、かく言う真広のあり方もアニメーターが絵を描き、そして台本の通り声優が演じている劇にすぎないのは明白だ。視聴者の私たちは、劇中劇構造をもつアニメの視聴者なのだ。分かりやすいように括弧を用いて包摂関係を表すと、【≪[劇中劇]を観ているアニメ≫を観る視聴者】という構造である。そしてもちろん、劇中劇というニセモノを見ているアニメの世界もニセモノなら、アニメというニセモノの世界を見ている自分たちの世界もニセモノなのかもしれない、と思わせる。つまり、シェイクスピア同様、私たち視聴者に対し、あなたたちの人生も演劇なのではないか、と問いかける構造になっているのだ。

 

2.運命、そして愛とは?

絶園のテンペスト』ではこの世界劇場の構造を用いて、運命(とその対極にある自由意志)というテーマを扱っているが、鍵となるのは愛花である。それは彼女が単に劇中劇にきれいに収まる人物ではなく、むしろ『絶園のテンペスト』において最もメタな視点を持ち合わせた、世界劇場における運命を最も意識していた人物であるからだ。彼女は葉風に向かって、自分たちをプロスペローに言葉や知識を教わった奴隷のキャリバンになぞらえて言う。

「わたしたちも同じです。二つの木を送り込んだ連中に、少しばかり特別な知識や力を与えられはしても、結局はその奴隷にすぎません。. . . 彼らの望むようにすれば、とりあえず幸せに終わるんですから」

すなわち彼女は、彼女ら登場人物の「始まりの木」を倒すための行為は、アニメ制作者という「二つの木を送り込んだ連中」が作り上げたシナリオに支配された物語のなかの自由意志を持たない「奴隷」の行為であると仄めかしているのである。そして、物語の中の登場人物がシナリオという運命に縛られ、その意味で自由意志を持たないという事実は、救いようもなく正しい。ゆえに真広が愛花に、

「誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ。俺は誰かの舞台劇をなぞるみたいな結末はつけねえ」

というとき、彼はアニメ登場人物としては持っているはずのありえない自由意志を信じていることになる。もちろんそれを視聴者が見ているのであるが、この劇中劇の構造を先ほどのように括弧を用いて示すと【≪[自由意志を持たぬと悟っている愛花]を見ている、実は自由意志を持っていないのに持っていると信じている真広≫を見ている視聴者】という風にあらわされる。そしてもちろん、自由意志を持たないにもかかわらず持つと信じている真広の姿は、視聴者も自らを重ねることになるであろう。私たちは普段自由意志を無根拠に信じているが、果たして私たちはそれを持ちえるのか、と。

 

このように『絶園のテンペスト』では運命(と自由意志)が大きなテーマであり、一方恋愛ものでもあるから、それに愛というテーマとが絡み合って物語は進んでいく。以下の葉風と順一郎の会話に、それが端的に表れている。

葉風「まさか吉野に恋するなど、こんなの予定にないぞ」

順一郎「予定して恋するのもどうかと思うけどね」

彼らが言っている通り、恋はその当事者が自らの意思に基づいた予定にかかわりなく落ちてしまうものなのだ。恋に落ちる瞬間というものは往々にして運命的な力によるものと感じられる。このことを強調するために、劇中ではシェイクスピアの『ハムレット』からの引用がされている。(ただし、もともとの文脈とは少し違った意味で使われていることに留意。)

「愛が運命を導くか、それとも運命が愛を導くか、
それはわれらの人生がめいめい試さねばならぬ問題だ。」
シェイクスピアハムレット』野島秀勝訳

For ‘tis a question left us yet to prove,
Whether love lead fortune, or else fortune love.
Shakespeare, Hamlet, III. ii. 190-1

この引用は視聴者である私たちめいめいにも語りかけるようにも行われており、ゆえに私たちのとある思考に投資している。すなわち愛と運命について考えることへと誘っているのだ。あなたたちの人生では、愛が運命を導きましたか、それとも運命が愛を導びきましたか、と。『絶園のテンペスト』はかくして、劇中劇構造や愛という主題を通して、視聴者に運命というテーマから作品を観させるのと同時に、メタプレーヤーたる視聴者自らを支配する運命(もちろんあるとも、ないとも言い切れない)というものについて考えさせるように仕向けてあるのである。

 

3.「ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

そして、この運命という問題に対して『絶園のテンペスト』は、終わるということをもって一つの結論を出しているように思われる。物語を描くこと、それが愛花の言うように作者が登場人物をシナリオという運命の「奴隷」として縛ることであるのならば、物語を終えることは彼らを解放することになる。実際このアニメの下敷きになっている、シェイクスピアの『テンペスト』においても、プロスペローは拍手でもって劇を終えることで彼を「解放」するように観客に頼んでいる。それと同じように、終わることで初めて『絶園のテンペスト』の中の登場人物も自由な意思を手に入れると言える。真広と吉野の両者は、シナリオという運命に導かれて愛花への愛に縛られていたが、物語の終末にはそれぞれが新しい愛へと歩き出している。吉野は葉風と結ばれ、真広は彼が助けたどこぞの女の子と結ばれそうである。アニメの放送が終わり、彼らの愛がこれからの白紙の運命を、つまりアニメのシナリオでは描かれていない運命を導いていく。いわば「運命が愛を導く」から「愛が運命を導く」への転換がなされているのだ。この物語は、シナリオに支配された愛花の避けられない死、という悲劇の通奏低音を響かせながらも、その結末は(シェイクスピアの喜劇しかり結婚で終わる喜劇のコンベンションを受け継いで)、登場人物らが新しい愛とともに歩んで行くことを予感させる喜劇である。愛花が葉風に、物語は「とりあえず幸せに終わる」と予言した、その伏線の通りに。さらにアニメの結末に聞こえて来る、

「始まりは終わり、終わりは始まり。ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

という愛花のナレーションは、他の登場人物が聞いていないところでの、いわば独白である。そのため、確かに愛花のナレーションは、物語が終わった後に登場人物らが新たな愛を手に自ら運命を切り拓いていくことを言っていると解釈しうるだけでなく、それよりもメタプレーヤーたる私たち視聴者に直接語り掛けているものに思われるのだ。「あなたたちは運命に支配されているかもしれない。それでも、これからは物語を観終えたあなたたちが、あなたたち自身の物語を、彼らのようにひたむきに描いていきなさい。そうしたら、いつか愛があなたの元に訪れて、あなたも愛を手に運命を切り開いて行けるでしょう」と。

(tonguetied_muse) 

『クラウド9』について語るわよ

 

Cloud 9

Cloud 9

 

この『クラウド9』という演劇、なかなかけったいなものなの。男が女を演じ、白人が黒人を演じる。およそ<リアル>とは程遠いわ。みんながリアルよりも<リアル>なリアリティーを追いかけまわしている(とわたしには思われる)今日、ウケル作品かと言えばちょっと違うかもしれない? じゃあどうして、作者は作品のリアリティーを傷ものにするようなことをしたのかしら? そうそう、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)先生はこんなことをおっしゃっていたわ。

too much heightening of the illusion … that gives the spectator the illusion of being present at a … ‘real’ event, create such an impression of naturalness that one can no longer interpose one’s judgement … and must simply conform by sharing in the experience and becoming one of ‘nature’s objects’. The illusion created by the theatre must be a partial one, in order that it may always be recognised as an illusion.(219)

言い換えると、あまりにも<リアル>な演劇をしてしまうと、観客はリアルに居合わせているつもりになって何も考えずに満足しちゃうから、観客に何かを問いかけたいときには<リアル>にするのもほどほどにね、ということよね。つまり、リアリティーがほつれているところに、観客は解釈と価値判断の手がかりを見出すということ。逆に、観客にとっての当たり前を、その通りに描いても、彼らが当たり前だと思っている制度を相対化することはできない。では実際、どのように作者のチャーチルさんがこの作品のリアリティーをズタズタにしているのかを、冒頭の場面で見てみましょう・・・。舞台はヴィクトリア朝南アフリカ。ここではClive(夫)とBetty(妻)が夫婦で、両人とも男性俳優が演じているわ。

CLIVE This is my family. Though far from home
We serve the Queen wherever we may roam.
I am a father to the natives here,
And father to my family so dear.

He presents BETTY. She is played by a man.

My wife is all I dreamt a wife should be,
And everything she is she owes to me.
BETTY  I live for Clive. The whole aim of my life
Is to be what he looks for in a wife.
I am a man’s creation as you see,
And what men want is what I want to be. (1)

なんとなくこの演劇の雰囲気がつかめたかな? ここではすべてセリフが英雄詩体二行連句(heroic couplet)というたいそう仰々しい詩形で書かれていて、弱強×5のリズムに加え、二行一組できれいに韻を踏んでいるの。日本で言うなら五七五のリズムに加え、掛詞・縁語なりを駆使しながらお話ししているようなもの。現実でこんなしゃべり方をする人たちがいる確率は、たぶんタイプライターをサルに与えたらハムレットを書く確率並みに低いでしょうから、セリフを聞いている観客は、「あ、リアルじゃないな」と思うわけ。その文脈の中で男が演じる妻Bettyとか、(上の引用部にはないけれど)白人が演じる黒人奴隷のJoshuaとかが紹介されているの。こうした俳優の身体性と役の<ズレ>というのは、英雄詩体二行連句通奏低音の上で強調され、否が応でも観客は意識させられてしまう。これは<リアル>が欲しい観客にとってたいそうおさまりが悪いから、彼らはその<ズレ>に意味づけを与えようと考えることが必要になってくるわね。だからあえて作者がリアリティーを損ねていたのは、観客が欲しがっている<リアル>について、<ズレ>に立ち止まって考えることで、もう一度その本当の価値を判断させよう、っていう意図あってのことなのね。そうしてみると、Bettyが父権的な価値観を内在化させている様子が透けて見えてこないかな? そうBettyは言うの。「私はご覧の通り男が作ったもの」。この戯曲を読み解くカギは、こうして提示されているわけ。

多くの人がフェミニズムを思い浮かべただろうけど、実はこの戯曲はフェミニズムのワークショップから誕生したもので、観客に父権的な社会や価値観について考え直してもらいましょう、というのを目的にしているのよね。だからこの戯曲がわざと”下手に”描こうとしている<リアル>は父権制社会。「リアルじゃないから、くだらない」って頭ごなしに否定するのは、女性蔑視と散々たたかれても反省しないドナルド・トランプ大統領くらいじゃないかしら? それにそう読んでしまうと、この戯曲は何も面白くなくなっちゃうのよね。だって、始めっからリアルじゃない方向を志向しているのだから。彼みたいに金儲けにばっかり精を出していると、たぶん物語は読めなくなるんでしょうね。リアルでない世界の意味を考えるのが楽しい戯曲なのに・・・。

さあ無駄話は切り上げて、リアルでない世界を志向するわたしたちは、先ほどの<ズレ>とやらに与える意味づけを一つ考えましょうか。それはつまり、男が女を演じることは、女が<女>を演じてきたことのメタファーだという事。ピンと来た人もいるんじゃないかな。長ーーーい名前のシモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908-1986)の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉もあるけど、つまりこの<ズレ>は、女性が<女性らしさ>を演ずることで<女性>になってきた、という命題を提出していると思わない? 具体例を示しましょう。

CLIVE Don’t squeamish, Betty, let me have my joke.
And what has my little dove done today?
BETTY  I’ve read a little.
CLIVE Good. Is it good?
BETTY  It’s poetry.
CLIVE You are so delicate and sensitive.
BETTY  And I played the piano. Shall I send for the children? (3)

さっきのp.1の引用と合わせてみてみると、このBettyという人が夫Cliveのために「詩を読む」とか「ピアノを弾く」とか、<女性らしい>繊細さを一生懸命手にしようとしているけなげな姿が見て取れるよね。(実は彼女には他の個所で大胆さを求める葛藤があったりもするけど、それを押し殺してもいるんだ。)そうした行為を通して、彼女は一人の<女性>を作りあげていっているの。そしてこの<女>というジェンダーが<女らしい>行為のもとになるのではなく、逆である、つまり行為を通してジェンダーが形成される、という主張は構築主義フェミニズムの泰斗、ジュディス・バトラー(Judith P. Butler, 1956-)の理論そのものでもあるの。Gender Troubleという本からの長い引用になるけど、根気のある人は読んでみてね。

Gender ought not to be construed as a stable identity or locus of agency from which various acts follow; rather, gender is an identity tenuously constituted in time, instituted in an exterior space through a stylized repetition of acts. The effect of gender is produced through the stylization of the body and, hence, must be understood as the mundane way in which bodily gestures, movements, and styles of various kinds constitute the illusion of an abiding gendered self. (191)

さて、ここまで見てきた<ズレ>は、女が<女>を演じることのメタファーになっているというのは了解してもらえたと思うけれど、これは今流行り(?)の「女子力」にも通じるところがあるのよね。その意味で1981年に初演されたこの演劇は四半世紀と半分くらい過ぎた今も全然古びていない。それはともかく、この戯曲には不倫もあるし、ゲイ・レズビアンの問題も含まれているし、それに植民地支配の問題もあるし、まだまだ突っ込みどころがたくさん。それに男性の皆さん、<リアル>な世界では決して意識化されない、あなたたちの”いやらしい”視線さえも意識化される仕掛けがあるのよ(疲れたから書かないけど)。ただ残念なのは、翻訳書が絶版になっていること。それに日本での上演はそうそうないでしょうね。まあ、英語自体は簡単なので暇でもあれば。それではまた、ご機嫌よう。

 

参考

 引用文献
Brecht, Bertolt. Brecht on Theatre. Ed. Marc Siberman, et. al. London: Bloomsbury,
      2014.
Butler, Judith. Gender Trouble: Feminism and theSubversion of Identity. New York and
      London: Routledge, 1990.
Churchill, Caryl. Cloud 9. London: Nick Hern Books, 1994.
 (tonguetied_muse)

なぜ『それ町』は<廻っている>のか?

  漫画『それでも町は廻っている』を読み終わった者は、誰しもあの最終話に違和感を持つだろう。129話「少女A」は主人公・嵐山歩鳥が「よいオチが思いつかない」と叫ぶシーンで終わっている。このセリフをメタ言及、つまり作者が『それ町』のオチが思いつかなかったことを主人公の口を借りて告白しているのだと解釈すると、綿密に積み重ねられてきた本編を締めくくるのには少し物足りない気がする。一体どのように受け止めればよいのだろうか。

 単行本の読者ならすぐに気が付くことだが、この作品にはきちんとオチがついている。単行本に収録されているエピローグ「それから…」を読む限り、作者はこの作品のオチを思いついている。従来通りの関係性が変わらず続いていくことを強く望んでいた歩鳥だが、エピローグでは亀井堂静との関係を積極的に変えていく。歩鳥の言葉に対する亀井堂の反応にも胸が熱くなる素敵なオチだ。このことから、最終話の歩鳥のセリフをメタ言及と捉える解釈は妥当だと言い難い。
 それではなぜ、「少女A」が最終話なのだろう。勿論あのセリフがメタ言及でないからといって最終話として全く機能していないわけではない。128話「嵐とともに去りぬ」とこれ以上繋がりのよい話は他に見当たらない。しかし、この大作を締めくくるのによりふさわしいエピソードが他にあったのではないか……この想いに駆られた者は誰しも、この作品では時系列がシャッフルされていることに思い至る。129話「少女A」はたまたま時系列シャッフルで一番最後に来ているだけであり、本当の<最終回>はどこか別の場所に配置されてしまったというわけだ。それでは、どのエピソードが本当の<最終回>なのか。
 真っ先に確認したくなるのは、時系列を整理したときに最後に来るエピソードである。丁寧に読み返せば、111話「夢幻小説」がそれにあたることが分かる。歩鳥が自分が生まれなかった世界を訪れた<夢>を思い出そうとするエピソードで、タッツンこと辰野トシ子が冷え性で受験勉強を中断していることとシーサイドがメイド喫茶ではないことから高校3年生の冬が舞台だと判断できるからだ。このエピソードが<最終回>でもおかしくないと私は思う。歩鳥の話から回想パートが128話「嵐とともに去りぬ」の後日談であることが示唆されており、歩鳥の3年間の物語は少なくともバッドエンドではなかったことが分かるからだ。また、回想パートで亀井堂と歩鳥の関係性が重要な役割を果たしており、エピローグとの繋がりも良い。
 しかし、111話が<最終回>だとここで決めるのは聊か短絡的ではないか。それは次の二つの理由からである。一点目は先ほど129話を<最終回>にふさわしくないとしたのと同じ理由だ。例えば127話「至福の店フォーエバー」こそ<最終回>にふさわしいのではないか。『それ町』は歩鳥とタッツンがメイド喫茶シーサイドで働き始めることで幕を開ける。タッツンがバイトを辞める「至福の店フォーエバー」ならば、1話と対応することができる。また、127話は『それ町』屈指の名エピソードである。『それ町』全編通して唯一の見開きページには二人の思い出が散りばめられている。「楽しかったね」と手を取りあう二人。誰もが認める感動回であろう。この127話と比べた時、111話にどれだけ分があるだろうか。しかし、一点目に勝って重要なのは、二点目である。つまり、ここで111話を<最終回>としてしまっては、時系列シャッフルに関して疑問が残るのだ。時系列順にエピソードを並び替えた時に最も後にくるものが自動的に<最終回>なのであれば、時系列シャッフルは111話を読者に探すように促すために存在していたことになる。勿論時系列シャッフルがこれ以上何か別の意味を持たなければならないということはない。また、歩鳥が推理小説を愛読し探偵を目指していることを踏まえれば、このようなパズルが仕掛けられていたとしても驚くに値しない。しかし、本当にそれだけのために、10年間以上時系列シャッフルという足枷を自らはめてきたのだろうか。本当に時系列シャッフルについてこれ以上の解釈ができないものか。
 作品をどのような形で読めばよいかという問題を読者の裁量にゆだねる目的があったのではないか。これがこの問題に対する私の仮説だ。本作をどのように読み進めればよいかという問いに対して、我々は時系列や作者の決めた順番という正解を持たない。本作を読み進める際に時系列に沿って読む必要はない。何しろ作者がそう強いてくるのだ。作者が行った作品の並べ方もあくまで一例に過ぎない。たまたま129話が最終話だったように、時系列順で最も後にくるエピソードがたまたま111番目に描かれたように、目の前に並んでいる『それ町』のエピソードはたまたまその場所に収まっているにすぎない。つまり、我々は本作をどのように読み進めても、あるいはどのように読み返してもよいことになる。裏返せば、我々は本作をどのように読み進め、あるいはどのように読み返すか自分で考えなければならない。『それ町』は読者ひとりひとりのその時々の読み方によってシャッフルされ続ける不思議な構造を持った作品なのだ。
 この構造を踏まえれば、読者が<最終回>を自由に選んでよいことは明らかだろう。読者が自分なりの読み方を大事にしながら<最終回>を選び、それを<最終回>にふさわしいと思う位置に置きながら自分だけの『それ町』を作っていくことができる。編集作業を行うにあたって、111話や127話を<最終回>にしたいのであればそれを最終話にすればいい。紺先輩との関係を主軸に読むなら、11話「猫少年」を冒頭に125話「紺先輩スペシャル」を最終話に持ってきていい。同じく紺先輩との関係を主軸に置いていても、<最終回>は76話「歩く鳥」という人もいよう。さらに言えば、<最終回>が最終話である必要はない。<最終回>である76話の後ろに後日談として125話をつけても構わない。
 ここで足を止めても構わない。しかし、私はせっかくここまで来たのだから、もう一歩踏み出してみたい誘惑にかられる。読者がそう思うならそれが<最終回>であるのであれば、どのエピソードが<最終回>でも構わないだろう。1話から129話まで全て<最終回>といえない回はなくなる(これまで散々けなしてきた129話がどうして<最終回>でないといえようか。本稿の冒頭で129話が最終回であることをどう受け止めればよいのかと問いを立てたがこれがその答えである)。本当の<最終回>はどれかという問いに対して、すべてのエピソードが等しく正解ということだ。ここに至れば、このような疑問が頭を過るはずだ。果たして本当にその問いに取り組まなければならないのか。
 驚いたことに、この問いに否と答えることは作品と向き合う上で消極的な意味を持つわけではない。むしろそう答えたくなることこそがこの作品の肝だと私は考える。ここまで歩いてきた我々はもう<最終回>など選ばなくてよいのだ。全てのエピソードが<最終回>になり得る。もっといえば、1コマ1コマが<最終回>に等しい輝きをもって作品の中に組み込まれている。時系列シャッフルは、このような読み方を読者に提案する仕掛けなのではないか。
 この読み方は、すべての瞬間が平等に尊いという人生観を想起させる。感動に胸をいっぱいにさせている時も、トラブルに巻き込まれて葛藤している時も、親しい人と一緒に過ごす大切な時間も、一人で漫然と過ごしている時でさえ、<最終回>と呼ぶにふさわしい重さを持っている。我々は日常的に時間に重みづけを行い、人生を解釈している(だからこそあの場所で足を止めても構わない)が、その作業の果てで、すべてが光って見える瞬間がやってくるというわけだ。本作の描こうとしているものに辿り着くためには、この人生観まで考慮に入れるのが適当だろう。『それ町』は単なる日常系ギャグ漫画ではない。嵐山歩鳥が歩んだ3年間なのである。(HRK)

ソクラテスとホメロスのあいだで

藤澤令夫「プラトン的対話形式の意味とその必然性 - 文学と哲学」『藤澤令夫著作集Ⅱ イデアと世界』(岩波書店)所収
藤澤令夫著作集〈2〉イデアと世界

藤澤令夫著作集〈2〉イデアと世界

 

 言葉のもつ危うさを批判しながら、それでもなお言葉で綴る。プラトンはそうした形であの膨大な著作群を書き残した。誰の頭にも当然のことのように、なぜプラトンがそれらを書いたのかという問いが浮かぶ。その正確なところを探ることは私の力量を超えるので、ひとまずプラトンが書くことに対して何らかの意味を見出していたと回答しておくとしよう。むしろ本稿が問題にしたいのは、なぜプラトンは自身の著作に対話篇という形式が採用されたかということだ。この問いに答えることは、なぜ一方で書き言葉を批判したプラトンが自身文章を書いたのか考えるうえでも非常に参考になる。この問いに正面から取り組んだ論文を簡単に紹介しながら、 詩論する詩・試論~シェイクスピア・ソネット85番~ - 鴨川日記 に対するささやかな応答を試みたい。なお、本稿では都合上、孫引きなど本来避けられるべき行為を行うことがある。その都度指摘するようにするが、ご容赦願いたい。

 この論文は初め『岩波講座 文学 4 表現の方法1 - 世界の文学 上』(岩波書店)に寄せられた(以下、この岩波講座版を参照しながら書き進める。先に『藤澤令夫著作集』を挙げたのは新しさを考慮してのことである)。

  哲学者をめぐる論考がどうしてと違和感を抱くかもしれないが、プラトンの書いたものに触れたことがあれば、これはそれほど驚くことでもないはずだ。プラトンの対話篇では、個性豊かな登場人物たちが、具体的な「とき」と「ところ」において、生き生きと議論を交わしており、十分に文学的と呼べる。アリストテレスも『詩学』の中で、プラトンによる「ソクラテス対話篇」をミーメーシス(言葉による描写)による創作、つまり叙事詩などと同様に文学であると考えていたと藤澤は指摘する。しかし、一方で『詩学』以外のテクストにおいてアリストテレスプラトンを哲学者として扱っている。ホワイトヘッドの言を俟つまでもなく、我々はプラトン著作を哲学書として読み、彼の哲学をこそその中に見ようとしてきた。ここにプラトンのテクストが二重性を持つものとして現れる。すなわち、「文学」のテクストであると同時に、「哲学」のテクストでもあるのだ。この点について藤澤は次のように問いを立てる。

 こうしてわれわれは、通常、プラトンの対話篇は哲学書であると同時に文学書であるとか、文学的要素の加味された(あるいは「芸術的香気に包まれた」)哲学書であるとか言って事をすませている。しかしこれは多くの場合、怠惰な答というべきであろう。いったい、いうところの「文学的要素」とは、正確には何を指すのか。プラトンの対話篇のもっている性格の、どこまでがどのような意味で「文学」であり、どこまでがどのような意味で「哲学」であるのか。(p280)
 藤澤は、プラトンの対話篇の本質的性格を見定めるための作業を行うとして、ホメロスからギリシア悲劇に至る文学の歴史を辿り直している。この作業が、プラトンの文学性を歴史の中に位置づけることを可能にすると同時に、哲学のはじまりを文学との関連の中で考える素材を我々に提供してくれるのである。この視角から、古代ギリシャにおける文学の歴史は「ディアロゴス性ともいうべきものが、しだいに現実化されて行く過程」(p302) と特徴づけられている(ディアロゴスとは対話のことである)。このように歴史を眺めたとき、ソクラテスは「叙事詩から悲劇に至る動きと、それを受け継ぐ「ロゴスが主役になる」という悲劇そのものにおける動きの先に、その最後の段階を - 純粋対話ともいうべきものによって - 完成させるべく登場した人物」(p301) と評される。彼が対話による哲学を実践したのも、思考が同時に自分自身との対話であるからに他ならない。
 その先にプラトンの対話篇が現れる。プラトンにとって、ソクラテスの「純粋対話」の精髄は「ディアレクティケー」に見出される。それはすなわち、「前提と帰結の積み重ねによる推論が、対話者どうしの相互確認を通じて一歩一歩厳密に進められていく過程」(p302) である。プラトンにおいて、ディアレクティケーに基づいて行われるソクラテスの思考実践はイデア的な真実在へ近づこうとする努力、すなわち「哲学」だと考えられた。以下の引用に見られるように、このようにして成立したプラトンの「哲学」は必然的に「文学」と区別されると藤澤は指摘する。
 しかしながら、すべてこうしたモチーフは、それが文学のたどってきた動きの家庭の行き着く窮極に成立したものでありながら、いっさいの感覚的継承を振り捨てるという点において、それ自身は文学と本誌的にそのあり方をことにするものであり、それゆえに、それら「文学」の総体に対する対決と否定を必然とするような性格のものである。 (p303)
 このことを踏まえて、ソクラテスに立ち返ろう。ここで理由を問うことは控えたいが、「哲学」を体現していたソクラテスは何も書き残さなかった。「「物を書く」ことには、不可避的に「慰戯」的な要素が伴わざるをえない」(p305, 『パイドロス』274C以下参照として、藤澤が訳出している部分を孫引きした) のではないかという考えがそこにあったのかもしれない。この立場からすれば、プラトン自身のテクストもまた、ミメーシスに過ぎないのではないだろうか。このことを彼自身も肯定するだろう、と藤澤はいう。それは他ならぬ彼の立場なのだから(上の引用が『パイドロス』によっていることを確認してほしい)。むしろその問いの先に、いかなる態度で書くかを問題としなければならないだろう。藤澤は『パイドロス』の同じ箇所を参照しながら、書く人自身が哲人的な人間とそうでない人間とに区別されることに注意を促していると指摘する。
 書く当人が書かれたもの以上のものをもち、真実そのものがいかにあるかを知っていて、書かれた言葉の限界とその慰戯性を自覚している場合には、彼が書くものが何であっても、その人は「哲学者」と呼ばれるべきであり、これに対して、「書かれた作品以上に価値のあるものを自己の中心にもっていない人」、ひいては書かれた言葉の中に「何か高度の確実性と明瞭性が存する」と思い込んでいる人は、それぞれ書きものの性格に応じて「作家(詩人)」とか、「作文家」とか、「法律起草家」と呼ばれるべきである。(p306)
 ここから、プラトンがどうして対話篇という形式を選択したのかが見えてくる。藤澤は一人称による論文形式を「多くの場合それと意識されないミーメーシス」(p307)とし、それではなく、「ミーメーシスであることの明確な自覚のもとに置かれた対話篇という形式」(p307) をプラトンが選んだとするのである。ここに対話篇が「ホメロスからソクラテスに至る「ロゴス」の営みがたどった動きの先において、「考えること」自体がすでに対話であることの見定めと、「書くこと」自体がすでにミーメーシスであることの自覚とが相まって生み出された、それ自身必然的な表現形態」(p307-p308) として立ち現れてくるのである。
 廣川洋一『プラトンの学園 アカデメイア』(岩波書店 のちに講談社学術文庫)は、藤沢の論文も参照しながら、この問題について彼なりの整理を行っている。 
プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)

プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)

 

 廣川は藤澤がプラトンの対話篇の特徴として描き出したディアレクティケーとミネーシスの結婚関係を見事に捉え返している。

  生命を持ち、魂のうちに響きあう言葉〔…〕は、事柄をまともに知ることを意図して、ディアレクティケーの技術を用いながら〔…〕ふさわしい魂を相手に得て、たがいの精神の内部にかわし合うものであった。これこそ真の情熱に値する原物に他ならない。書かれた言葉がいかなるものであれ、原理上すべて模像、影にすぎないものではあっても、プラトンがその影像性を十分に自覚したうえで、詩や劇や弁論や論文の形式をふまず、あえて対話という形式を採ったのは、やはり積極的な意図からであったと思われる。対話・問答形式による書き物こそは、プラトンにとってあの「真の情熱に値する原物」 - 知性の領域においてかわされるディアレクティケー - におそらく最もよく似た模像であった。(岩波書店版 p187)

  最後に、本稿が先日SPQRが投稿してくれた詩論に触発されて書かれているものだということを思い出しておこう。シェイクスピアのあのソネットもまた、プラトンと同じく言葉を非難しつつ言葉に自らの内面を託すものであった。SPQRも藤澤もこの点に着目し、この自己言及をどのようにとらえるべきなのかと問いをたてている。ここで面白いのは、言葉を用いて自分の想いを綴っていること、すなわち内容が言葉に縛られていることが、単純に内容に対する言葉の優位を示さないという点である。言葉を使う以上、我々は言葉のもつ限界から逃れることはできないだろうが、プラトンにおいては内容に対する姿勢こそが彼の言葉を救っている。SPQRが文章の最終段落を「そうではない」と始めたのは、プラトンとその希望を共有するが故だ。しかし、内容に対する姿勢は万能な免罪符なのだろうか。言葉の限界は、ロゴスの批判者である彼ら自身に一番痛切に自覚されてしまう。こうしてSPQRの論考と同じように、ここでも問題ははじめに戻ってしまうことになる。

 ソクラテスの内的対話とホメロスのミネーシスの間でもがくこと。それが言葉に対する懐疑を持ちながらなお書き続ける者の宿命なのだろう。そのことを描き出したところに、SPQRの論考の特筆すべき美点がある。 (HRK)

文字に添って

B.フィンク『「エクリ」を読む』(人文書院, 2015)
「エクリ」を読む: 文字に添って

「エクリ」を読む: 文字に添って

 

  現代思想の諸テクストの中でも、『エクリ』(1966)は読まれることを拒むかのような難解さをもって鳴る。著者は J.ラカン(Jacques Lacan, 1901-1981)。彼は独自のフロイト解釈で知られる精神分析家であるが、その影響力は精神病理学だけにとどまらず、現代思想にも大きな足跡を残した。ラカンはもっぱら彼のセミネール(セミナー)において口頭で自身の理論を展開していたため、彼自身が執筆したテクストはあまり多くない。そのような状況下でラカンを理解するにあたって、彼の思想のエッセンスが凝縮された『エクリ』にあたることは非常に大きな意味を持つ。しかし、彼の講義録(現在『セミネール』の名で刊行されている)にあたることができる現在においてもなお、『エクリ』を読むことは、こと初学者や専門外の者にとっては難しい。

 本書は『エクリ』の英訳を長年手がけてきた B.フィンク(Bruce Fink)によるラカン解説書である。本書の白眉は、第3章と第4章であろう。これら二つの章では明確に、副題「文字に添って」のとおり、ラカン自身によるテクストを紐解いていくスタイルをとっているのだ。『エクリ』所収の重要論文の中から、第3章では「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」、第4章では「フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法」が扱われている。ラカンの晦渋なテクストの読解作業に一級の解説者が併走してくれる贅沢な一冊だと思う。

 今まで、思想家のエッセンスを抽出して読者に提示したり、思想家の思索の流れを追う形で作品の簡単な解説を行ったりするものが概説書だと勝手に思い込んでいた。しかし、この本が試みるように、テクストの精緻な読解だけを読者に提供することは、マクロな視点からラカン像を明確に記述することを断念することでもある。私にとって、原文を解きほぐすことでラカンに接近していく本書との出会いは一つの衝撃だった。本書は極めて簡潔ながらも注釈書としての性格を有しており、仏文原典や英訳と読み合わせながら取り組むことができる。読者を原典に向かわせることに成功しているのは、二次文献としては特筆すべき美点であろう。また、読了後に私も驚いたのだが、概念の整理が行き届いていて理解がすっきりしている。良質な解説書は、思想家のテクストそれ自体と向き合うことがもつ意味を原典以上に教えてくれるのだ。
 勿論、これ一冊で十分というわけではない。シニフィアン連鎖や欲望論は非常に重要であるが、それらはラカン山脈の一つの嶺に過ぎない。また、4章では欲望のグラフの解説を集中的に行っているが、そこに登場する「欲動」など中期以降のラカンにとって重要となる概念について詳しく展開されていない。しかし、当然この責を本書に押し付けるのはお門違いであり、十分にラカンの思想を理解するためには、自分で他の本をあたる必要があると思う。例えば、最新のものとして向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫 2016)がよいと思う。
ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

 

 概念の解説が豊富で、ラカン関係の文献にあたる上での基本知識を一通り獲得することができる。フィンクの著作に当たる前に該当箇所を一読しておくと理解が深まると思う。決して平易ではないが、熟読しようとすれば自分の理解が試されるような読み応えのある文章なので、長く付き合うことを前提に読み始めるといいかもしれない。ちなみに、『ラカン入門』でも第3章で「フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法」の詳細な読解を行っているので、読み比べてみると面白いと思う。(HRK)