鴨川日記

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詩論する詩・試論~シェイクスピア・ソネット85番~

シェイクスピアソネット集』

 

Shakespeare's Sonnets (The Arden Shakespeare: Third Series)

Shakespeare's Sonnets (The Arden Shakespeare: Third Series)

 

 

ソネット集と恋人の嘆き

ソネット集と恋人の嘆き

 

 

Sonnet LXXXV

My tongue-tied Muse in manners holds her still,

While comments of your praise, richly compiled,

Reserve thy character with golden quill,

And precious phrase by all the Muses filed.

I think good thoughts, whilst others write good words,

And like unlettered clerk still cry 'Amen'

To every hymn that able spirit affords,

In polished form of well-refined pen.

Hearing you praised, I say ''tis so, 'tis true,'

And to the most of praise add something more;

But that is in my thought, whose love to you,

Though words come hindmost, holds his rank before.

   Then others, for the breath of words respect,

   Me for my dumb thoughts, speaking in effect.

 

ソネット85番

私の舌を縛られた詩神は如才なく沈黙を守るが

その間にお前への称賛は、豪華な言葉で

お前の美しい顔立ちを記録に留めるのだ。

黄金の羽ペンと全ての詩神の磨き上げた言葉で。

人が麗しい言葉を記せば、私は麗しい想いを抱き、

そして無学な教会書記さながら、俊秀の手による

美しい筆致で書き上げられた讃美歌すべてに、

いつも「アーメン」と唱えるだけだ。

お前が称えられるのを聞けば「そう、その通りだ」と言い、

最高の賛辞の上に、さらに何かを添えるのだ。

だがそれは私の想いの中にある。だから言葉が後れをとっても、

私のお前への愛はほかの何者にも先んじているんだ。

 だから、他の詩人たちは儚い言葉で評価して、

 私は、無言の想いで評価してくれ、本当は語っているのだから。

(筆者による訳)

 

 確かに言葉の力には限界があるのかもしれない。言葉という形を与えると現実から乖離してしまったり、言葉にしようとしても十分に伝えられなかったり。私たちは時折そう言う体験をして生きている。同じ様に詩人も、最後(13-4行目)の二行連句が示唆している通り、言葉の限界を感じていたのだろう。彼に言わせれば恋敵たちの「豪華な言葉」による恋人に対する称賛も、詩人がrichlyという副詞をうまく用いることで、現実から乖離したその薄っぺらいものである(註1)。また、恋人を称える讃美歌のメタファーは、神を称えるのと同じで称えても称え尽くせない、ということを伝えている。言葉はかくも不具で儚い。想いを言葉に表現することは、表現された想いを空しいものに変えてしまう。かくして詩人は押し黙るしかない。そしてまた、押し黙ったままの詩人は、饒舌に空疎な表現を並べ立てる他の詩人を非難してもいる内容の詩を書いたのだ。(註2)

  しかし、一方で想いは言葉に表現しないと伝わらない。相手の恋人は「無言の想い」など知る由もないのだ。ここに詩人のジレンマがある。この詩人の苦しみは、痛々しいまでの必死さとなって最後の行に表れている。ここではソネットという感情の器は、いつもの弱強五歩格のリズムが捻じ曲げられてしまっている。この激しい表現から、詩人の<想いよ、言葉を越えて語ってくれ!>という、祈りにも近い叫びが聞こえるような気がする。彼がこの詩で主張していることに耳を傾けるならば、詩人は雄弁である必要はないのである。最高の雄弁は、心の想いの強さにあるのだ。そして彼は、無言であるがゆえに誰よりも強い恋人への愛を、無言のうちに誰よりも強く伝えようとしているのである。

 

<註>

(1)While comments of your praise, richly compiled

太字の部分に強勢が落ちるが、見ての通りrichlyの強勢が i の音にあり強勢の連続がある。そのため韻律の乱れが生じている。

(2)特に the breath of words などが端的。

breathという表現から言葉の空疎さへの当てこすりが見て取れる。

 

 

 だが、本当にそうなのであろうか?

 そう、「人が麗しい言葉を記せば、私は麗しい想いを抱」く、と言っている詩人自身、噓をついている。つまり彼自身、麗しい言葉=詩を書いているのであって(特に冒頭の、 "My tongue-tied Muse in manners holds her still" は、太字で示した t, m, h の音が互いに響き合い非常に音楽的な美しさを持っていると思う。またそれ以外にも、この詩は極めて技巧的な韻律、脚韻形式を持ったソネット形式である。)、押し黙ってはいない。詩人は、自らの「無言の想い」、無言であるがゆえに人後に劣ることのない愛を、詩的言語に翻訳してしまっているのだ。だか思えば詩人は、想いは言葉にすると空しいと語っていたし、さらに美辞麗句を並べ立てるライバル詩人に対する非難もしていたではないか。そして最後の一行(14行目)にある通り、彼にとって、想いを完全なまま言葉に翻訳することは不可能であり、 "想い>言葉" という不等式が成立していたはずである。そうすると、この詩に表現されていた想いも、言葉にしてしまった以上、所詮空しいものに過ぎなくなるのではないか? これは一体どういうことなのだろう?

 一つの可能性として、この詩における形式と内容のズレは、 "詩とは形式が決定する" という詩論を提出している、という可能性があると思う。それを明らかにするために、まず、この詩における言葉と想いの二項対立が、詩というものとどう絡むかを見てみたい。このソネット85番の中で言葉とは、「詩神の磨き上げた言葉」と言う表現が示すように、詩的な言葉遣いとして定義されている。それはすなわち詩の形式や技法に当たると言えるであろう。一方、想いというものは、この詩の中で内容、「私こそあなたを愛しているのだ」と言う内容として表現されている。したがってこの詩の中での言葉:想いという二項対立は、形式:内容と言う二項対立に置き換えが可能になる。ここで、詩人が言うように "想い>言葉" であるならば、言い換えれば、恋人への想いが詩的な言葉遣いによって伝達が可能である以上のもので、それは言葉にすると徒なものになるのであれば、なぜ詩人は自分の想いを詩という感情の器に載せて語ったのか? それは彼が「私は、無言の想いで評価してくれ、本当は語っているのだから。」と矛盾を承知の上で言っている通り、自分の詩だけは想いを反映しない「儚い言葉」ではないから信じてほしい、と思っているからに他ならない。そもそも言葉が徒なものであると考えているならば、はじめからこのような詩は詠まないのである。したがって、言葉は否定的に語られつつも、この詩の成立、存在を支配している。ここには "言葉>想い" という不等式が成立したといってよい。詩的な言葉遣い、すなわち詩の形式は内容より上位にあるのである。言い換えると、詩においては内容よりも形式・技法が重要だという主張がなされていると言える。これは(シロンフスキーの有名な論文のタイトルが「技法としての芸術」であるのだが)フォルマリスト的主張である。ロシア・フォルマリズムによれば詩的言語は言葉自身について言及するものだという。そうであるならば、詩の言葉は現実にあるものを指示しなくてもよい。したがって、詩人の「想い」は二の次の問題なのだ。果たして、これが本当にこの詩の提出している詩論なのだろうか?

 

詩的言語とはなにか―ロシア・フォルマリズムの詩的理論

詩的言語とはなにか―ロシア・フォルマリズムの詩的理論

 

 

 むろん、そうではなかろう。文学において内容、つまりそこに表現されている人間の想いを無視してよいわけがない。だから、文学は形式・技法の問題であって、人間の想いは二の次である、という結論を下した時、この詩はまた最初の顔を見せる。今度は詩人自身の現実、詩人自身の想いから乖離した、詩人自身の「豪華な言葉」が再び批判の対象となる。(はじめにもどる。)この詩は、この様に形式と内容の間を永遠に循環する構造を持っている。読者は、その迷宮の中で詩とは何かを問い掛けられているのだ。

 

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