鴨川日記

本を紹介していきます。

クラウド9の研究(改)

この『クラウド9』という演劇、なかなかけったいなものなの。男が女を演じ、白人が黒人を演じる。およそ<リアル>とは程遠いわ。みんながリアルよりも<リアル>なリアリティーを追いかけまわしている(とわたしには思われる)今日、ウケル作品かと言えばちょっと違うかもしれない? じゃあどうして、作者は作品のリアリティーを傷ものにするようなことをしたのかしら? そうそう、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)先生はBrecht on Theatre (Eyre Methuen, 1978)でこんなことをおっしゃっていたわ。

too much heightening of the illusion … that gives the spectator the illusion of being present at a … ‘real’ event, create such an impression of naturalness that one can no longer interpose one’s judgement … and must simply conform by sharing in the experience and becoming one of ‘nature’s objects’. The illusion created by the theatre must be a partial one, in order that it may always be recognised as an illusion.(p.219)

言い換えると、あまりにも<リアル>な演劇をしてしまうと、観客はリアルに居合わせているつもりになって何も考えずに満足しちゃうから、観客に何かを問いかけたいときには<リアル>にするのもほどほどにね、ということよね。つまり、リアリティーがほつれているところに、観客は解釈と価値判断の手がかりを見出すということ。逆に、観客にとっての当たり前を、その通りに描いても、彼らが当たり前だと思っている制度を相対化することはできない。では実際、どのように作者のチャーチルさんがこの作品のリアリティーをズタズタにしているのかを、冒頭の場面で見てみましょう・・・。舞台はヴィクトリア朝南アフリカ。ここではClive(夫)とBetty(妻)が夫婦で、両人とも男性俳優が演じているわ。

CLIVE This is my family. Though far from home
We serve the Queen wherever we may roam.
I am a father to the natives here,
And father to my family so dear.

He presents BETTY. She is played by a man.

My wife is all I dreamt a wife should be,
And everything she is she owes to me.
BETTY  I live for Clive. The whole aim of my life
Is to be what he looks for in a wife.
I am a man’s creation as you see,
And what men want is what I want to be. (p.1)

クライブ  これが私の家族だ。故郷からは遠けれど、
    どこを征こうと我らは女王に仕えん。
    私はここの現地人どもの父であり、
    いとしい家族の父である。

    彼はベティ―を示す。彼女は男が演じる。

    妻は私が望んだすべてをそなえ、
    妻はすべてを私に負うている。

ベッティー 私はクライブのために生き、私の人生は
    彼が妻に求めるものになること。
    私はご覧の通り男が作ったもの、
    男が欲するものにこそ私はなりたいの。(拙訳)

なんとなくこの演劇の雰囲気がつかめたかな? ここではすべてセリフが英雄詩体二行連句(heroic couplet)というたいそう仰々しい詩形で書かれていて、弱強×5のリズムに加え、二行一組できれいに韻を踏んでいるの。日本で言うなら五七五のリズムに加え、掛詞・縁語なりを駆使しながらお話ししているようなもの。現実でこんなしゃべり方をする人たちがいる確率は、たぶんタイプライターをサルに与えたらハムレットを書く確率並みに低いでしょうから、セリフを聞いている観客は、「あ、<リアル>じゃないな」と思うわけ。その文脈の中で男が演じる妻Bettyとか、(上の引用部にはないけれど)白人が演じる黒人奴隷のJoshuaとかが紹介されているの。こうした俳優の身体性と役の<ズレ>というのは、英雄詩体二行連句通奏低音の上で強調され、否が応でも観客は意識させられてしまう。これは<リアル>が欲しい観客にとってたいそうおさまりが悪いから、彼らはその<ズレ>に意味づけを与えようと考えることが必要になってくるわね。だからあえて作者がリアリティーを損ねていたのは、観客が欲しがっている<リアル>について、<ズレ>に立ち止まって考えることで、もう一度その本当の価値を判断させよう、っていう意図あってのことなのね。そうしてみると、Bettyが父権的な価値観を内在化させている様子が透けて見えてこないかな? そうBettyは言うの。「私はご覧の通り男が作ったもの」。この戯曲を読み解くカギは、こうして提示されているわけ。

多くの人がフェミニズムを思い浮かべただろうけど、実はこの戯曲はフェミニズムのワークショップから誕生したもので、観客に父権的な社会や価値観について考え直してもらいましょう、というのを目的にしているのよね。だからこの戯曲がわざと”下手に”描こうとしている<リアル>は父権制社会。「<リアル>じゃないから、くだらない」って頭ごなしに否定するのは、女性蔑視と散々たたかれても反省しないドナルド・トランプ大統領くらいじゃないかしら? それにそう読んでしまうと、この戯曲は何も面白くなくなっちゃうのよね。だって、始めっから<リアル>じゃない方向を志向しているのだから。彼みたいに金儲けにばっかり精を出していると、たぶん物語は読めなくなるんでしょうね。<リアル>でない世界の意味を考えるのが楽しい戯曲なのに・・・。

さあ無駄話は切り上げて、<リアル>でない世界を志向するわたしたちは、先ほどの<ズレ>とやらに与える意味づけを一つ考えましょうか。それはつまり、男が女を演じることは、女が<女>を演じてきたことのメタファーだという事。ピンと来た人もいるんじゃないかな。長ーーーい名前のシモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908-1986)の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉もあるけど、つまりこの<ズレ>は、女性が<女性らしさ>を演ずることで<女性>になってきた、という命題を提出していると思わない? 具体例を示しましょう。

CLIVE Don’t squeamish, Betty, let me have my joke.
And what has my little dove done today?
BETTY  I’ve read a little.
CLIVE Good. Is it good?
BETTY  It’s poetry.
CLIVE You are so delicate and sensitive.
BETTY  And I played the piano. Shall I send for the children? (p.3)

クライブ   ショックを受けないでベティー。ジョークさ。
    いとしい君は今日何をしたのかい?
ベッティー  読書を少し。
クライブ   よろしい。よかったかい?
ベティー   詩を読みましたの。
クライブ   君は本当に優美で繊細だ。
ベティー   それにピアノを弾きましたわ。
   子供たちをお呼びしましょうか? (拙訳)

さっきのp.1の引用と合わせてみてみると、このBettyという人が夫Cliveのために「詩を読む」とか「ピアノを弾く」とか、<女性らしい>繊細さを一生懸命手にしようとしているけなげな姿が見て取れるよね。(実は彼女には他の個所で大胆さを求める葛藤があったりもするけど、それを押し殺してもいるんだ。)そうした行為を通して、彼女は一人の<女性>を作りあげていっているの。そしてこの<女>というジェンダーが<女らしい>行為のもとになるのではなく、逆である、つまり行為を通してジェンダーが形成される、という主張はジュディス・バトラー(Judith P. Butler, 1956-)の理論そのものでもあるの。Gender Troubleという本からの長い引用になるけど、根気のある人は読んでみてね。

Gender ought not to be construed as a stable identity or locus of agency from which various acts follow; rather, gender is an identity tenuously constituted in time, instituted in an exterior space through a stylized repetition of acts. The effect of gender is produced through the stylization of the body and, hence, must be understood as the mundane way in which bodily gestures, movements, and styles of various kinds constitute the illusion of an abiding gendered self. (The Norton Anthology of Theory and Criticism版, p.2552)

ここでは<ズレ>が、女が<女>を演じることのメタファーになっているという見方を紹介したけれど、これは今の流行り(?)の「女子力」にも通じるところがあるのよね。その意味で1981年に初演されたこの演劇は四半世紀と半分くらい過ぎた今も全然古びていない。それはともかく、この戯曲には不倫もあるし、ゲイ・レズビアンの問題も含まれているし、それに植民地支配の問題もあるし、まだまだ突っ込みどころがたくさん。それに男性の皆さん、<リアル>な世界では決して意識化されない、あなたたちの”いやらしい”視線さえも意識化される仕掛けがあるのよ(疲れたから書かないけど)。ただ残念なのは、翻訳書が絶版になっていること。それに日本での上演はそうそうないでしょうね。まあ、英語自体は簡単なので暇でもあれば。それではまた、ご機嫌よう。

 

参考(女装した男の演じるBettyに注目)