鴨川日記

本の紹介を中心に活動しています。

TVアニメ『絶園のテンペスト』について

 

                                All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
Shakespeare, As You Like It, II. vii. 139-40

 

1.シェイクスピアと世界劇場 

TVアニメ『絶園のテンペスト』にはシェイクスピアからの引用、シェイクスピアへのアリュージョンが多い。作中のセリフには『ハムレット』のほか、タイトルにもある『テンペストからしばしば引用されるし、また直接の引用でなくとも、孤島の魔法使いをはじめ、作中の様々なモチーフも上記の二冊に負うているものが数多くある。いわゆる「御柱」が消失した際、空に舞う多くのアゲハ蝶を見た吉野の言う

胡蝶の夢とも言うね。この世は夢かうつつかわからない。これまで俺たちがみてきた世界は都合のいい偽物だって言っているのかもしれない」

という東洋的な趣のセリフでさえ、シェイクスピアの『テンペスト』の有名なセリフを下敷きにしているようである。

                                    These our actors,
As I foretold you, were all spirits and
Are melted into air, into air;
And like the baseless fabric of this vision,
The solemn temples, the great globe itself,
Yea, all which it inherit, shall dissolve
And, like this insubstantial pageant faded,
Leave not a rack behind. We are such stuff
As dreams are made on, and our little life
Is rounded with a sleep.
Shakespeare, Tempest, IV. i. 150-9

真広と吉野が、彼らのいた「始まりの木」に支配されていた世界が造られたニセモノかもしれないと言うように、『テンペスト』における上のプロスペローのセリフも、彼のいる世界が劇というニセモノである事を舞台の観客に意識させる。さて、このメタシアターの効果とは観客に「劇中劇というニセモノを見ている劇の世界もニセモノなら、劇というニセモノを見ている自分たちもニセモノなのかもしれない」と思わせるところにもあるだろう。つまり、私たちが生きている世界は劇場で、私たち自身役者であるかもしれないのだ。この考えはラテン語でtheatrum mundi(世界劇場)というもので、シェイクスピアが生きたエリザベス朝における世界観であった。

 

そしてこの作品『絶園のテンペスト』は、メタシアターの手法を効果的に用いたという意味でシェイクスピアの末裔であるといえる。「始まりの木」に支配されていた世界は、二人が「都合のいい偽物」かもしれない世界だったという通り、一種の劇中劇的世界となっているからだ。このこと詳しく見てみよう。絶園の魔法使いであった愛花は、「倒されるために存在する神」である「始まりの木」の司る「理」のために死を選んだ。彼女は言う、

「私は始まりの木を倒すのが使命の絶園の魔法使い。倒す道を選ぶために私の死が必要なら、自ら死を選ぶことは理屈に合っている」

彼女の行動原理はまさに、「始まりの木」を倒すための「理」という台本の通りに絶園の魔法使いを生きて(そして死んで)いくことであった。だからこそ、最期に残したビデオレターで、

「舞台上の役者は、シナリオを無視して勝手に動くわけにはいきません。美しく退場してこそ、役目を果たせたといえます」

と言うのである。この言葉に対して愛花の墓を前にしたとき、真広は語りかける。

「お前にとって人生は誰かに決められたシナリオ通り演じ、その通り終わらせるもの。だから、シェイクスピアのセリフをやたら口にしてたんだな。. . . 誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ」

しかし、かく言う真広のあり方もアニメーターが絵を描き、そして台本の通り声優が演じている劇にすぎないのは明白だ。視聴者の私たちは、劇中劇構造をもつアニメの視聴者なのだ。分かりやすいように括弧を用いて包摂関係を表すと、【≪[劇中劇]を観ているアニメ≫を観る視聴者】という構造である。そしてもちろん、劇中劇というニセモノを見ているアニメの世界もニセモノなら、アニメというニセモノの世界を見ている自分たちの世界もニセモノなのかもしれない、と思わせる。つまり、シェイクスピア同様、私たち視聴者に対し、あなたたちの人生も演劇なのではないか、と問いかける構造になっているのだ。

 

2.運命、そして愛とは?

絶園のテンペスト』ではこの世界劇場の構造を用いて、運命(とその対極にある自由意志)というテーマを扱っているが、鍵となるのは愛花である。それは彼女が単に劇中劇にきれいに収まる人物ではなく、むしろ『絶園のテンペスト』において最もメタな視点を持ち合わせた、世界劇場における運命を最も意識していた人物であるからだ。彼女は葉風に向かって、自分たちをプロスペローに言葉や知識を教わった奴隷のキャリバンになぞらえて言う。

「わたしたちも同じです。二つの木を送り込んだ連中に、少しばかり特別な知識や力を与えられはしても、結局はその奴隷にすぎません。. . . 彼らの望むようにすれば、とりあえず幸せに終わるんですから」

すなわち彼女は、彼女ら登場人物の「始まりの木」を倒すための行為は、アニメ制作者という「二つの木を送り込んだ連中」が作り上げたシナリオに支配された物語のなかの自由意志を持たない「奴隷」の行為であると仄めかしているのである。そして、物語の中の登場人物がシナリオという運命に縛られ、その意味で自由意志を持たないという事実は、救いようもなく正しい。ゆえに真広が愛花に、

「誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ。俺は誰かの舞台劇をなぞるみたいな結末はつけねえ」

というとき、彼はアニメ登場人物としては持っているはずのありえない自由意志を信じていることになる。もちろんそれを視聴者が見ているのであるが、この劇中劇の構造を先ほどのように括弧を用いて示すと【≪[自由意志を持たぬと悟っている愛花]を見ている、実は自由意志を持っていないのに持っていると信じている真広≫を見ている視聴者】という風にあらわされる。そしてもちろん、自由意志を持たないにもかかわらず持つと信じている真広の姿は、視聴者も自らを重ねることになるであろう。私たちは普段自由意志を無根拠に信じているが、果たして私たちはそれを持ちえるのか、と。

 

このように『絶園のテンペスト』では運命(と自由意志)が大きなテーマであり、一方恋愛ものでもあるから、それに愛というテーマとが絡み合って物語は進んでいく。以下の葉風と順一郎の会話に、それが端的に表れている。

葉風「まさか吉野に恋するなど、こんなの予定にないぞ」

順一郎「予定して恋するのもどうかと思うけどね」

彼らが言っている通り、恋はその当事者が自らの意思に基づいた予定にかかわりなく落ちてしまうものなのだ。恋に落ちる瞬間というものは往々にして運命的な力によるものと感じられる。このことを強調するために、劇中ではシェイクスピアの『ハムレット』からの引用がされている。(ただし、もともとの文脈とは少し違った意味で使われていることに留意。)

「愛が運命を導くか、それとも運命が愛を導くか、
それはわれらの人生がめいめい試さねばならぬ問題だ。」
シェイクスピアハムレット』野島秀勝訳

For ‘tis a question left us yet to prove,
Whether love lead fortune, or else fortune love.
Shakespeare, Hamlet, III. ii. 190-1

この引用は視聴者である私たちめいめいにも語りかけるようにも行われており、ゆえに私たちのとある思考に投資している。すなわち愛と運命について考えることへと誘っているのだ。あなたたちの人生では、愛が運命を導きましたか、それとも運命が愛を導びきましたか、と。『絶園のテンペスト』はかくして、劇中劇構造や愛という主題を通して、視聴者に運命というテーマから作品を観させるのと同時に、メタプレーヤーたる視聴者自らを支配する運命(もちろんあるとも、ないとも言い切れない)というものについて考えさせるように仕向けてあるのである。

 

3.「ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

そして、この運命という問題に対して『絶園のテンペスト』は、終わるということをもって一つの結論を出しているように思われる。物語を描くこと、それが愛花の言うように作者が登場人物をシナリオという運命の「奴隷」として縛ることであるのならば、物語を終えることは彼らを解放することになる。実際このアニメの下敷きになっている、シェイクスピアの『テンペスト』においても、プロスペローは拍手でもって劇を終えることで彼を「解放」するように観客に頼んでいる。それと同じように、終わることで初めて『絶園のテンペスト』の中の登場人物も自由な意思を手に入れると言える。真広と吉野の両者は、シナリオという運命に導かれて愛花への愛に縛られていたが、物語の終末にはそれぞれが新しい愛へと歩き出している。吉野は葉風と結ばれ、真広は彼が助けたどこぞの女の子と結ばれそうである。アニメの放送が終わり、彼らの愛がこれからの白紙の運命を、つまりアニメのシナリオでは描かれていない運命を導いていく。いわば「運命が愛を導く」から「愛が運命を導く」への転換がなされているのだ。この物語は、シナリオに支配された愛花の避けられない死、という悲劇の通奏低音を響かせながらも、その結末は(シェイクスピアの喜劇しかり結婚で終わる喜劇のコンベンションを受け継いで)、登場人物らが新しい愛とともに歩んで行くことを予感させる喜劇である。愛花が葉風に、物語は「とりあえず幸せに終わる」と予言した、その伏線の通りに。さらにアニメの結末に聞こえて来る、

「始まりは終わり、終わりは始まり。ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

という愛花のナレーションは、他の登場人物が聞いていないところでの、いわば独白である。そのため、確かに愛花のナレーションは、物語が終わった後に登場人物らが新たな愛を手に自ら運命を切り拓いていくことを言っていると解釈しうるだけでなく、それよりもメタプレーヤーたる私たち視聴者に直接語り掛けているものに思われるのだ。「あなたたちは運命に支配されているかもしれない。それでも、これからは物語を観終えたあなたたちが、あなたたち自身の物語を、彼らのようにひたむきに描いていきなさい。そうしたら、いつか愛があなたの元に訪れて、あなたも愛を手に運命を切り開いて行けるでしょう」と。

(tonguetied_muse)