鴨川日記

本の紹介を中心に活動しています。

『1925』に愛をこめて

 
 本稿は「初音ミク」10周年を記念して企画されたものである。本稿の元となるアイデアSPQRとの会話の中で生まれた。SPQR独自のアイデアに基づく箇所については可能な限り文中で指摘することにする。同様に私独自のアイデアである場合にはそれを明記する。
 なお、「1925 歌詞 解釈」「1925 解釈」で検索すると、1925年という年号に拘った解釈が散見される。中には大正時代というコンテクストの中で歌詞を解釈しようと試み、歌詞中の「法律」を「治安維持法」と解するものもあった。当然解釈は自由に行われるべきであるし、これらを全くの悪手だと決めつけることはできない。しかし、同曲の題名が投稿の直前まで「Emi」であったこと(作者ブログ 2009年10月09日の記事より)などを踏まえると、1925年という年号にどこまで拘って良いか立ち止まって考えてみる余地はあるだろう。そのことなしで本稿が果たすべき目的を達成することができるという理由で、我々は年号に着目しない立場をとった。
 
 
 2007年に「初音ミク」が発売されて以降、VOCALOIDを用いたオリジナル楽曲を動画サイトに投稿することが盛んになった。そうした楽曲のなかに、『1925』という題名のものがある。

 
 
 この曲の最大の魅力は、言葉を弄ぶような歌詞だ。例えば、一番サビを見てみよう。
買えないものなどないのです
転じて言えば何物にも
値段をつけて売るのです
尊徳の感情はないの

 「買えないものなどないのです」と強気に出た後で、すぐに「転じて言えば何物にも値段をつけて売るのです」と意味をズラしてしまう。『1925』の歌い手(以下、”1925”。以下で性別を女性としたのは、同動画に用いられたバスガールのイラスト及びその二次創作から、本作の歌い手を女性とすることが一般的だからだ)にとって「買えないものなどない」ことは、”1925” が「何物にも値段をつけて売る」ことを必ずしも意味しない。しかし、その両者を「転じて言えば」と等号関係で継ぐことで、前者の意味を後者に合わせて遡及的に読み変えることを聴き手に要求している。これが私の言うズラしである。SPQRの指摘では、前者の主語が「I」であるのに対して、後者の主語が「We」であることにより、このズレが生じている。そして、その後には「尊徳の感情」と「損得の勘定」の掛詞を添える。この箇所を見るだけでも、如何に技巧を凝らした言葉遊びで満ちた歌詞か分かってもらえるだろう。

 
 
 こうした言葉の使い方は、軽やかな印象を与える。それは内容についても言える。「尊徳の感情はない」のだから、取引される対象を大切に扱うことはない。損得の勘定もない彼女のことだから、その取引も気の向くままに行うのだろう。
 このような歌詞から想像される ”1925” は、軽薄な人間関係を生きる人物と言えるだろう。2番サビでも同様の人物像が浮かび上がる。
飽きたらガムを捨てるように
新たな恋を探す道理
パズルの凸凹意外にも
誰とでもハマるようだ

 一つの恋を終えても、気に病むことなくすぐに次の相手を探す。そして、その相手が誰であろうと構わない。このような恋愛の仕方は、先ほどの「取引」に対する彼女の態度とうまく対応する。「損得の勘定」がないからこそ「誰とでもハマる」が、「尊徳の感情」がないからこそ「ガムを捨てるように」相手を見限ることができる。ここまで来ると、どうやら「何物」には心や行動も含まれるようだということに気が付く。彼女は相手が代価としてくれるものに対応して、少なくとも恋人ならこうするだろうという行動をするのだろう。

 曲の最後に置かれた最終サビでは、直接的に彼女にとって「アイ」とは何かという問題が扱われている。
「アイ」とはなんぞと問われれば
それは「ワタシ」と答えようぞ
ひび割れしにくいだけなので、
ダイヤなどいらないのです

 この問い自体が「アイ」と「I」をかけた言葉遊びになっている。後者でとった場合「ワタシ」という回答は同語反復によるはぐらかしだが、前者でとった場合彼女なりに回答を行っていることになる。ここでは上で見た彼女に関するイメージを引き継ぐ形で、愛とは「ワタシ」のことであるとの主張を、「ワタシ」がしていることは愛とは何かを体現していると読むことを提案する。このように読むと最終サビを、彼女のそれとは異質な恋愛、すなわち特定の誰かを求める恋愛関係に対する拒絶と意味づけることができる。この問答に続く部分で、彼女は「ダイヤ」(結婚指輪 など)を「ひび割れしにくいだけ」と切り捨てている。このとき「ダイヤ」とともに「ひび割れしにくいだけ」とされているのは当然彼女のしているものとは違うとした恋愛だ。彼女のしていることよりも安定的に続くだけであるとして、特定の誰かとの恋愛関係を拒んでいるのだ。このように、彼女を軽薄な人間関係を生きる人物とすることは、歌詞を眺めてみたときに説得力がないわけではない。

 本稿の目的は、上に述べたものとは違った ”1925” イメージを提示し、それが歌詞と照らし合わせても説得力があると示すことである。また、その過程で、以上のような ”1925” イメージが如何にして作り上げられているかについても明らかにする。

 

 
 M.クンデラに『存在の耐えられない軽さ』という作品がある。
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 この節では、この小説について論じた小野紀明『西洋政治思想史講義』終章「存在の耐えられない軽さ?」を紹介し、その内容を踏まえて次節で『1925』の解釈に戻ることにしたい。

西洋政治思想史講義――精神史的考察

西洋政治思想史講義――精神史的考察

 

 クンデラはこの小説を始めるにあたって「そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?」と問いかける。

 ここで無理は承知で小野の説明を噛み砕き、「重さ」と「軽さ」について整理しておこう。「重さ/軽さ」の二項対立は、二項対立が「ある/ない」という終局的な二項対立と重ね合わせられる(この狭義の二項対立を<重さ/軽さ>とする)。ここで二項対立が「ある/ない」とはそれぞれどのような状況かが問題になる。この「ある/ない」は「本質/虚偽」としても同じことだ。ある事柄についてその本質や本当の意味を問うとき、我々は既に二項対立を作っている。「本質/虚偽」が存在しないのであれば、物事の本質とは何か?と問うこと、つまり、何が本質で何が虚偽なのかを問うことは意味のない営みだからだ。従って、二項対立が「ある」状態=<重さ>においてこのような問いは意味を成し、二項対立が「ない」状態=<軽さ>においては意味を持たないことになる。
 物語の中で、我々はこの第一義的な<重さ/軽さ>を生き方に関する「重さ/軽さ」へと読み替えていく。「軽い」人生において、我々は生まれてこなかったも同然である。初めから人生の意味を問う必要が欠落しているのだから、我々は自由奔放に生きることができる。本作では、このような生き方はサビナに代表されている。彼女にとって、生きることとは他者の前で何かしらの役割を演じ続けることであり、真実/演技という二項対立を持たない彼女はその状況を素直に楽しんでいる。それゆえ彼女は自由なのだ。一方で、「重い」人生では、我々は二項対立から逃れることができない。本作ではテレザがこれを代表しているが、彼女は自分の顔を眺めることで身体(現象)に心(本質)が現れていることを確認しようとする。テレザは「本質/現象(虚偽)」の二項対立を「心/身体」に重ね、真に存在する自己という仮想に囚われているのだ。
 この小説の主人公はトマーシュという男性だ。彼はサビナに惹かれ、享楽的に生きようとしている。しかし、最終的にはテレザとの愛に命を落とす。重荷から解放されて「軽さ」を生きるためには、サビナのような強さが必要であった。トマーシュにはそれが欠落していたので、「軽さ」に惹かれつつも「重さ」への郷愁を卒業できなかったのだ。小野がトマーシュにこそ魅力を感じるように、また「どちらを選ぶべきか」という問いで始めた物語に作家が愛の死という結末を用意したように、この弱さは必ずしも否定的な意味を持たない。「重さ」とそれに伴う弱さは、もっと言えば「重さ」と「軽さ」の間で懊悩することは、自己意識(本当の自分、他者との差異と言い換えてもよい)に囚われてしまった人間の宿命なのかもしれない。
 
 
 これを踏まえて『1925』に戻ろう。先ほど ”1925” の恋愛観として想定した考えは、ちょうど「軽さ」に対応するかのようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。我々に提示されているのが言葉である以上、それを素直に受け取ることは時に危険だ。
 『存在の耐えられない軽さ』を用いて我々が確認したことによれば、「軽さ」のもとに生きているのであれば、「愛」の本質を問うことに意味を見出すことができないはずだ。しかし、先ほど見た通り、「アイ」とは何ぞという問いに対し彼女はそれは「ワタシ」と回答を行っている。これは、その問いが前提としている二項対立(真実の愛/虚偽の愛)に立っていなければできないことだ。彼女は特定の誰かを求める恋愛関係と自らのしている行為を二項対立的に捉えて、それに虚偽の愛/真実の愛という二項対立を重ねていたのだ。私は次に挙げる1番Aメロの歌詞も同種の証左だと考える。
繰り返す問答 答えなら無用
嫌い、嫌い 縛らないで

 彼女は、恋人が繰り返す問い(例えば「本当に僕のことを愛しているのか?」)をはっきり束縛だと感じており、否定的な感情で突っぱねることで、その問いに回答することを無理矢理回避しようとしている。つまり、彼女は決して「軽さ」に対応する人物ではない。こうして浮かび上がる ”1925” 像とは、「重さ」から逃れられない女性だ。

 それでは彼女はどうして、そしてどのようにして「軽い」人物を演じているのだろうか。この問いに答えることは本稿の目的を達成する上で重要だ。上に挙げた1番Aメロの歌詞にその理由と仕組み見ていくことにしよう。
 先ほど私は「繰り返す問答」を恋人からの呼びかけとして説明した。一方で、彼女が自らに突き付けているとも読める。つまり、「私は相手のことを本当に愛しているのか?相手は私のことを本当に愛してくれているのか?」と自分の中で問い返し続けているのだ。この問いの反復が彼女を傷つけるものであることは我々の経験から了解可能であろう。そこで彼女は自分自身の「重さ」から逃避し「軽さ」の幻想に身をゆだねることで身を守ろうとする。これが彼女が「軽い」人物を演じる理由だ。
 さらに、この「繰り返す問答」に関する2つの読みを接合することで、彼女が「軽さ」を演出する手法が見えてくる。つまり、彼女は「軽さ」と完全に一致しようとして、自分の中にある「重さ」を自分ではないもの(例えば自分の恋人、自分とは関係のないカップル)に押し付けてしまうのだ。
 このように、自らの「重さ」に耐えかねた彼女は、「軽さ」へと逃避して「重さ」から身を守ろうとする。そして、その試みを完全なものにするために、「重さ」を外部に押し付けてしまう。これはこの曲の中で、特にAメロ、Bメロ部分に頻出する構造である。例えば、2番Bメロの次の歌詞にもこれを見ることができる。
間違い探しのペアルック
あれとこれとそれとどれ

 「ペアルック」は特定の相手を前提としている点で、「重い」愛を連想させる。特定の相手に限定された恋愛関係とは、特定の相手に本質を、それ以外の恋愛対象に虚偽を重ねる点で、必然的に二項対立的なものであるからだ。「ペアルック」をしているのが彼女ではないとするならば、彼女は傍観者である。互いに相手に本質を見ているカップルに向かって綻びを指摘していくことは、彼らが行っているその想定に揺さぶりをかける行為である。しかし、「ペアルック」をしているのは彼女である。彼女が「間違い探し」を始めてしまうのは、相手と本質を重ね合わせてよいのか不安に思っているからだ。つまり、この部分は上で見たのと同じように、自分自身に対して「私は相手のことを本当に愛しているのか?相手は私のことを本当に愛してくれているのか?」と問うている場面である。この部分をあたかも「軽く」読むことができるのは、自分自身の中にある「重さ」を自分ではない誰かに押し付けているからである。そして、「軽さ」に逃避するように、2番サビを軽やかに歌い上げるのだ。このように、我々が最初想定した軽薄な ”1925” イメージは彼女が作り上げた鎧であることがわかる。

 
 
 本稿の目的は、”1925” が持つ軽いイメージを崩すことであった。これは、ここまででほぼ達成されたように思われる。以下では、「重い」 ”1925” 像を採用しながら、部分的に解釈を行ってみたい。SPQRとの会話の中で、以下の箇所をどう読むか最後まで紛糾した。
遮るものをあげるならば
心と道徳、法律か
お高い壁も遠回りを
したならば ほら
こんにちは

  ここで「遮るもの」として挙げられているものは全て二項対立に関係する。「心」はテレザにもみられた「心/身体」の二項対立を想起させるし、道徳は「道徳/不道徳」、法律も「合法/違法」に繋がる。この点、これら「お高い壁」が破壊されるのではなく、「遠回り」によって回避されることは、彼女が「重さ」からは決して自由になることができないことと整合性がとれる。ここまでくれば、「重さ」がうむ痛みを回避することで、つまり「軽さ」を装うことで初めて他者と出会うことができると読むのが素直だろう。

 この箇所でもう一つ大切なのは、「遠回りをしたならば」と言っているのが彼女自身であることだ。彼女は自らが「重さ」を抱えており、それから逃れることはできないのだと自覚していることが読み取れる。
 
 
 最後に、もう一度次の箇所を取り上げよう。
「アイ」とはなんぞと問われれば
それは「ワタシ」と答えようぞ
ひび割れしにくいだけなので
ダイヤなどいらないのです
 先ほど私はこの前半部分を「ワタシ」のしていることが「愛」とは何かを体現していると読むことを提案した。当然この箇所は別の読み方をすることもできる。SPQRは、彼女の「愛」の対象が「I」である、つまり彼女の自己愛を歌った部分だと読む。「愛とは何か」という問いは、決して抽象的な愛の定義を問うだけではない。「あなたにとって愛は誰に対する感情か」という問いと読み替えることも許されよう。また、「愛」から「I」を連想していることも、愛を自分と密接に関係のあるものと考えている証拠になる。
 また、SPQRは「ダイヤ」から彼女が「ひび割れ」を連想したことに着目する。彼女が「ダイヤ」と「ひび割れ」を結びつけたのは、「ダイヤ」の他に何かひび割れしやすいものが存在するからだろう。「ダイヤ」が「重い」愛を象徴するものだと思い起こすとき、彼女はひび割れしやすくても良いから誰かに愛されたがっていたのだと気付けるはずだ。
 ここで私は二番サビを思い出したい。
飽きたらガムを捨てるように
新たな恋を探す道理 

 目の前にある恋に飽きているはずなのに新たに恋を探し続けている。ひょっとしたら飽きてしまったというのも自分を守るための嘘で、実際は彼女が飽きられ捨てられたのかもしれないのに。次はきっと本当に愛してもらえるはずと信じて。SPQRが自己愛を歌った箇所とした歌詞を、私は「愛とは私に向けられるはずのもの、私が本当に求めているもの」と読みたい。同じ愛=「重さ」から逃れることができない存在として、私は彼女に共感する。「軽さ」への熱狂は、相手への愛なしにただダイヤを贈ることに近い。「重さ」に寄り添う本稿なら少しは彼女の役に立つと思うのだが、果たして彼女は受け取ってくれるだろうか。