鴨川日記

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田中美知太郎の伝記

『時代と私』 田中美知太郎 

時代と私

時代と私

 

私は、自伝というものを、教訓に富んではいるがどこか独善的で気まぐれなところのある、よく聞かされる昔語りの類と観念していた。だから、『時代と私』という自伝を読んだ時、そこに全く違う自己の語り方が開かれていることに新鮮な驚きを禁じ得なかった。そしてまた、この点にこそ田中美知太郎という古典学の泰斗の人となりが最もよく現れているように思えたのである。そこで私は、個々のエピソードよりも、むしろそれを語る著者の姿勢というものに注目して、以下この本の魅力をお伝えしていこうと思う。

まず、著者の田中美知太郎について若干の伝記的説明が必要かもしれない。彼は1902年、新潟で生まれる。幼少の頃、家族で上京。開成中学校上智大学予科を経て、京都大学哲学科(専科)で学ぶ。戦中は東京の実家に戻り、大学講師として生計を立てた。戦後、京都大学の教授となる。昭和期を通して活躍した日本を代表する西洋古典学者であり、後進の育成にも熱心であった。その著述活動は多岐にわたるが、中心は古代ギリシアの哲学。主著に『ロゴスとイデア』、『ソクラテス』、『ツキュディデスの場合』などがある。保守派の論客としても有名であり、長年に渡り、文芸春秋の巻頭随筆を担当した。

自伝の紹介をするのに、これ以上の伝記的な説明は無用であろう。詳細は直接読んでいただくことにして、さっそくここからは、本題である田中独特の「自己の語り方」というものに迫っていこう。その特徴はすでに序章「はじめに一言」において顕著にあらわれている。ここで田中はまず、「この時代におけるわたし自身の思想的経験というようなものを語る」[i]という、自伝の執筆に際して自らに与えられた課題自体に批判の目を向ける。というのも、田中に言わせれば、「いかなる個人の生涯も、それが直ちに歴史と一つになるようなことはない」[ii]のであり、ユダヤ思想が浸透する以前においては「自分を時代のなかにおいて考えるというのは、決して自明のことではなかった」[iii]からである。これは彼が歴史主義と呼ぶところのもの、即ち万物を時間化(流動化)しようとする傾向に対する批判であり、序章全体はその目的のために捧げられていると言っても過言ではない。通俗化された歴史主義、あるいは凡歴史主義というものに対する抽象度の高いその批判をここで詳述することは本稿の目的にとってあまり重要ではないだろう。しかし、私たちにとっては、なぜ田中が自伝の序章の大部分をこのような批判に割いたのか、という点が興味深い問題となってくる。その背景としては、彼自身言っているように、時代が個人を包摂するような仕方で自伝を書く、という、おそらく出版会社側から提示されたであろう要請に対する違和感があったことは疑いを容れない。しかしこれをもう少し、積極的な仕方で考えてみることもできるのではないだろうか。つまり、歴史主義批判を通して彼は、自らの自己の語り方に制限を与えるとともに、その語り方に一定の方向性を与えているのだとは考えられないだろうか。個人が時代に還元されないというのは、自己を語るという行為に即して考えるなら、時代を自らの専有物にしないということでもある。もっと砕けた言い方をするなら、「あの頃は、、、だった」という昔語りの独断を排するということだろう。それによって、自らの体験を時代の代表とする傲慢を避けるともに、時代に還元されない個人としての田中美知太郎を語りうる可能性が開ける。要するに、歴史主義批判は著者自身の自己の語り方の表明であるわけだ。時代と個人の相克を、一方が他方に還元されることのないその複雑な関係性を描き出そうという意志表示であるわけだ。こう考えてみると、『時代と私』という自伝の表題は実に含蓄に富む、考え抜かれたものに思えてくる。これは、自己を語るにあたって、その語り方にかくも意識的で用心深かった人物の自伝なのである。

さて、ここまでくると、どうしても続きが気になってくるのではないだろうか。「このような看板を掲げておいて、この人は一体どんな風に自分の人生を語るのだろう?」と。ここからは、本稿の主題であるこの点を詳しく見ていこう。

まず注目に値するのは、自伝の諸方で多数の史料が引用されていることである。回想録、日記、研究書、年表とその内容は多岐に渡り、執筆者という点でみても十名ほどの名を見つけることができる。試みにその一部を挙げてみると、西田幾多郎波多野精一三木清、戸坂潤、高坂正顕など、当時のアカデミズムを代表する錚々たる顔ぶれである。これら田中と交際のあった学者らの日記、手紙が引用の大部分を占めるのであるが、それ以外のものとして、永井荷風の日記が戦時下の状況を的確に描写したものとして度々引用されていることも興味深い。変り種としては、隣家の婦人が田中の妻に宛てた手紙というのもある。これは田中が東京空襲で大やけどを負い人事不省となった際、主人の急を知らせるべく疎開先の妻のもとに送られたものである。このように田中は複数の史料を駆使して、自らの生きた時代、そして彼自身がその時々に感じていたことを描き出して見せる。そこにおいて、田中自身の記憶や記録は特権化されることなく、あくまで一史料として扱われている。もちろん、彼自身の日記や研究ノートは最も引用頻度の高い主要史料であり、時として自身の記憶のみを頼りに過去を再構成している箇所もある。しかし、田中の語りには自らの専断を避けようとする抑制が働いていて、それによって全体としては、自伝でありながらどこか他人が書いたかのような厳密で客観的なものとなっているのだ。といってもそれは無味乾燥であることを意味しない。むしろ私たちは田中美知太郎という古典学者の、それ自体で既に強烈な個性を放っている生涯を、田中美知太郎という、これまた個性的かつ博覧強記で抜け目のない敏腕伝記作家の目を通して見るという恩恵に浴しているのだというべきであろう。一つ具体的なエピソードを抜き出してみよう。舞台は1925年の京都、ある哲学茶話会での一幕である。田中はまず鹿野治助という、同時期に京大で学んだ人物の記録を引用する。

「談話が終って質疑応答となったが、その中でいまはなき木村素衛さんが何か質問をした。すると例の絹がすりの学生が横から口を出して、『そんなふうに考えるからプラトンがわからないのだ』とたしなめた。・・・・・詳しいことは忘れたが、絹がすりの小僧にいわば道場破りをされたようなものではなかったろうか。」[iv]

ここで言われている「絹がすりの学生」こそ、当時23歳だった田中美知太郎のことである。田中はこの引用に続けて、鹿野の記述では自分が「少しばかり颯爽とした恰好になりすぎている」[v]として、当時の自らの研究ノートから、同じ出来事について書いたものを引用する。そこには鹿野の記述とは対照的に、暗く鬱々とした以下のような反省と自己批判の言葉が並んでいる。

「ああ何という滑稽であろう。自分は夢中になって喋り、夢中になって威張っていた。会話の中心人物というような道化役を何故私は演じたか。・・・・・多数に対して私は二通にしか振舞えない。注目をさけて片隅に沈黙するか、傍若無人に一直線に自分のしたいことをするか。-すなわち、やはり他人の注目を無視するという一種羞恥心をごまかす仕方」[vi]

このように田中は自他の記録を併用することによって、一定の距離を保ちつつ当時の状況とその時の自らの心理を克明に描き出している。このようなやり方は、自伝の序章を個人と時代の関係性という問題の考察(例の歴史主義批判)に捧げるほどに、自己の語り方に意識的で用心深かった人物に相応しいものではないだろうか。序章のやや抽象的な論と、二章以下の具体的な記述とは納得のいく形で結びついているわけだ。しかし、それに続く箇所では、「若い時代には自分自身の既成事実というものが未だ少い」[vii]、そのため「半ば夢中で勉強しながら、それにどういう見こみがあるのか全くわからず、いつも不安な状態にあった」[viii]のだろうと当時の自分を分析している。青年期特有の不安について語る著者のまなざしに、私たちは何か親心に似た暖かさも感じることができるのではないだろうか。それによって、本書は回想が陥りがちな過度の恣意性を免れるとともに、悪しき意味での学問的な無味乾燥とも無縁のものとなっているのだ。

 最後にもう一つ、どうしても考察しておきたい点がある。そのために、まずこれまでの話の道筋を思い出してみよう。私たちは、自伝の序章から話をはじめた。序章では、歴史主義批判に主眼が置かれているという点である。それは、個人を時代という枠組みの中だけで考えてしまう傾向に対する批判であった。それに対し、個人は時代に生きつつも、完全に時代的制約に飲み込まれてしまうことはない、という点を田中は繰り返し力説していたのである。そこで、このような主張が序章の大部分を使ってなされているのはなぜかと問い、私たちはそこに田中なりの「自己の語り方」が宣言されているのではないかと考えた。だとすると、自己について具体的な話を始める前に自己の語り方を規定しているのだから、田中は自己の語り方についてかなり意識的な人だということになる。というわけで、かくも自伝を書くということに対して自覚的だった人は、一体どんな風に自己を語ったのか、という点が私たちの興味を引いたのである。その後の分析で、その自覚と彼の自己の語り方との間に納得のいく連関があるということは、多少なりとも明らかになったものと思う。しかし、ここで筆をおくとすれば、一つ大きな疑問が残ったままになってしまう。その疑問というのは、彼の「自己の語り方宣言」の内容、つまり時代と個人との関係についての主張に関するものである。即ち田中は、個人を時代に還元してしまう風潮に対して断固として否を突き付け、個人は時代に還元されえない複雑さを持っているのだとした。それでは、自伝の個々の記述の中では、個人である田中美知太郎と彼の生きてきた時代とはどのような関係にあるものとして描かれているのだろうか。まずは自伝の諸方に引用されている田中自身の当時の日記を見てみよう。

「不愉快な緊張感と虚脱感との交差から仲々解放されないのには弱る。午前、テアイテトス訳にかかる。午後、散歩少し。夜、入浴」[ix]とあるのは、1936年3月2日の記述である。「不愉快な緊張感と虚脱感」というのは、直前に起きた二・二六事件により田中が大きな精神的ダメージを受けたことを示している。一方、「テアイテトス」とあるのは彼が大学卒業以来10年以上にわたって続けてきたプラトンの対話編『テアイテトス』の訳業のことである。1939年9月2日の記事は第二次世界大戦勃発の翌日に書かれたものだ。「欧州不安気になる。ここ二年間の重圧に堪えて来た心。またこれからもっと大きな重圧に堪えて、自分の精神の自由を守らねばならぬ。それは絶望的な努力かも知れぬ。・・・」[x]その一か月ほど後の10月11日の記事には「現実の中から思想が生まれてくる?否、現実との距離に於いてのみ思想は生まれてくる。・・・」[xi]とかなり激しい調子で書かれている。その7か月後、1940年5月12日になると、「自分の住む国家社会が自分の道徳感を満足させない方向に動いて行くこと、その離反ほど悲しいことはない。・・・」とある。このように、時局が自らの予期に反してあらぬ方向に展開していくことに対するもどかしさと苦悩が当時の日記からありありと浮かび上がってくる。と同時に、彼にとって何よりも重要であった学問をその時代状況の中でいかに守り抜くかということが切実な問題として意識されることになるのだ。こうした時代との不断の緊張関係の中にあり、時代に迎合できない自らの在り方に生きづらさを感じつつも、田中はこの時期重要な論文を数多く発表する。時代との摩擦、軋轢がかえって精神生活の充実をもたらしたのではないかと著者自身は自己分析している。この間の事情を描いた自伝第十二章のタイトルが「最悪にして最上の時代」となっているのは、そのためであろう。では彼自身は当時のこのような自己と時代との関係をどのように捉えているのだろうか。少し長いが、自伝中の考察を二つほど紹介しておこう。

二・二六事件の非道と破壊的効果を述べた後で、

「わたしのささやかな仕事は、わずかでも知的努力の蓄積と創造の仕事だった。建設には長年月を必要とするが、戦争や内乱の破壊的仕事は、短期間のうちのこれを無にしてしまうのである。」[xii]

また1941-1942年の状況を描いた第十三章の終りに近いところでは

「人間の生活というものは、個人の場合にしても、社会全体について見ても、驚くほど複雑多様だと思われるのである。・・・そういう多様性は、戦争という特別の事態、・・・、外部から強い圧力がかけられ、それによってわれわれの生活はひどく圧縮されるわけだけれども、人間の多様性というものが破壊され、まったく単一化されてしまうということは、そう簡単には出来ないのではないか。」

個人は時代の奴隷ではないという、序章で繰り返しなされた主張は、戦争という異常事態を肌身で経験した田中自身の実感であるとともに、彼の地道な学問の営みを支えた思想であり、また時代に屈せずに生きてきたという自負の表明でもある、ということだろう。『時代と私』を通して、私たちは時代と個性というものが一人の人間の生涯において交錯し縺れ合う様を具に見ることになる。これは時代を個人に、或は個人を時代に従属させようとする安直な一元論に対する反証であると同時に、困難な時代状況に耐えて、自己の本分を守り通した著者の思想の書でもある。

 

[i] 田中美知太郎『時代と私』(新装版)文藝春秋1984年、p20

[ii] 同書P9

[iii] 同書P13

[iv] 同書P191-192

[v] 同書P192

[vi] 同書P192

[vii] 同書P194

[viii] 同書P195

[ix] 同書P284

[x] 同書P299

[xi] 同書P317

[xii] 同書P295