鴨川日記

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読書ノート

牛田徳子『アリストテレス哲学の研究 - その基礎概念をめぐって』(創文社, 1991) 

アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

 

 以前より、何かを論じるだけでなく「過程に属するもの」の中から特に印象に残ったものを公開する場としてもこのブログを使いたいと思っていた。最近論文がうまく読めないとずっと悩んでいたが、かつて楽しみとして読んだ論文の読書ノートでよく書けているものがあった。答えは自分の中にあったと気付くと同時に、これは公開するのに適当だろうと思い、この機会に公開しておく。NICHICAと『形而上学』を読んでいた頃のもの。また読書会をやりましょうね。

 第一章では実体概念を扱う。牛田は「実体」を筆頭とする範疇の不完全枚挙がアリストテレスの全著作中に数多く登場することに着目する。このことから「範疇の第一位にあるもの」という実体の標識は無視できない。「範疇」という語はギリシア語において「述語」に連なる。このことから、「実体」は述語の一種の分類の第一項であるとみなすことができる。一方で、『範疇論』*1 に基づき、実体は主語的な性格のものであるとする根強い解釈がある。しかしながら、実体が主語的な性格のものだとしたならば、それは述語という原義を持つ範疇に入らないことになり、範疇の第一位は空位になってしまう。この点、実体を主語的にとらえる論者は『範疇論』において実体(ウーシア)が第一実体と第二実体とに区別されたことに着目する。第一実体とは個別的なものであり、第二実体は実体の種や類のことを指す。つまり、第二実体は第一実体に対してそれの普遍主語とみなされる。この第二実体を範疇のなかに含め、一方で主語的な第一実体を範疇の外におくのである。第一実体と第二実体という呼称は『範疇論』以外の著作には見出されないが、ここで示された実体の二重性格は他の著作の解釈にも根を下ろしている。範疇の第一位にあるものはウーシアの他、「トデ・ティ」(「或るこれ」と訳す)と「ティ・エスティ」(「何であるか」と訳す)とも呼ばれる。D.Ross は『形而上学』ゼータ巻の冒頭に登場するこの二つの呼称を次のような実体理解の中で位置づける*2 。すなわち、「何であるか」は事物の中にあって最も真にあるもの(=普遍的本質)であり、「或るこれ」はいかなるもののうちにもなく、それ自身によって存在するがゆえにもっとも真にあるもの(=個物)であると。これを図式的に整理すると以下のようになる。

実体 ー 第一実体 主語 個  基体 或るこれ

   ー 第二実体 述語 普遍 本質 何であるか

 牛田はG.R.G.Mure の議論を紹介しながら、こうした「実体」概念の自家撞着性を問題とする。第一に、個別的実体が主語の座におかれるなら、それはそれ自体としてなにものでもなくなる。つまり、特定のものからその「何であるか」を差し引いた場合、そこに残るのは「これ」と指さされるほかはない無名の「もの」だ。これをD.Ross が「それ自身によって存在するがゆえに真にあるもの」と評価したのは、誇大妄想ではないか。第二に、『範疇論』がのちになって「第二実体」の概念に重大な修正を行っていることも注目に値する。つまり、種とか類は、実態の質や性格を表すことによって実体を限定しているとされるのだ。これはアリストテレスの他の著作に見られる「普遍実体否定説」と明らかな食い違いを生じさせる*3 。このことは、「第二実体」さえもが第一の範疇の座から滑り落ちてしまう結果になることを意味する。以下では、上で見てきた「実体」が主語的か述語的かという問題について、論理的な検討がなされる。

 はじめに、牛田は第一の範疇の呼称に着目し、これが実体の主語的な解釈を支持するかを検討する。まず、アリストテレスが複数の範疇を列挙している箇所を用い、そこで用いられている第一範疇の呼称の種類と頻度数を調べる。この際、列挙される範疇の数と種類は流動的であるが、呼称から判断して、実体と非実体の区別は確定的になされている。第一範疇の呼称のうち「ウーシア」「トデ・ティ」「ティ・エスティ」についてその単独での使用の頻度数を見ると、全著作を通して「ウーシア」は16か所、「トデ・ティ」は21か所、「ティ・エスティ」は18か所である。これら三呼称は同様に実体を指すに足る市民権を得ていると言える。このことから、『範疇論』で区別された「第一実体」と「第二実体」に対応するような実体の呼び方の区別は、他のほとんどすべての範疇列挙の箇所には見られないといえる。次に、牛田は「トデ・ティ」と「ティ・エスティ」が現れている場合に着目し、この二つの呼称が文脈の中で主語的ないし述語的に用いられているものを探す。この結果、「トデ・ティ」は主語的にも述語的にも、「ティ・エスティ」は述語的に用いられることが分かり、また述語的に用いられた「トデ・ティ」は「ティ・エスティ」と同じ扱いを受けることができるとする。従って、「トデ・ティ」が常に主語的に用いられるとは限らない。最後に、牛田は第一範疇の呼称として上で扱ったもの以外に疑問詞「ティ」と不定詞「ティ」が同じ用法を担うことを紹介する。その上で牛田はこれらを「トデ・ティ」「ティ・エスティ」との関連で検討する。「トデ・ティ」は指示詞「トデ」と不定詞「ティ」が組み合わされているが、不定詞「ティ」がしばしば省略されることから「ティ」を一種の不定冠詞、「トデ」を指示代名詞とみなしてよい。また、「ティ・エスティ」は疑問詞「ティ」と動詞で組み合わされているが、動詞が省略され疑問詞が単独で用いられることがある。従って、実体範疇の呼び方は、指示的な「トデ」と疑問詞的な「ティ」と不定的な「ティ」の三種類に整理できる。このような指示的、疑問詞的、不定的な範疇の呼称は「実体」の他にも「性質」と「分量」においても確認されることから、三様の呼称はただ範疇を指し、それぞれは語の意味機能(指示的であるか、疑問詞的であるか、不定的であるか)においてのみ差を有すると解される。従って、実体呼称に関する限り、「実体」を主語的に解釈する十分な典拠はみあたらないとされる。

 続いて牛田は、A.N.Whitehead の実体概念理解を批判する。彼は実体は属性を担う基体でありながら、その属性によって記述されなければそれ自体あることができないようなものであるとした。このように実体と属性の関係を相関的に捉えることは、実体が属性述語の基体であることと、実体がそれ自体であることを同一視することを意味した。しかし、そのように解すると、実体が属性Fをもつとき、「FであらぬものはFである」という明らかな矛盾が生じる*4 。従って、実体がそれ自体であることと属性述語の基体であることは混同されてはならない。また、牛田はこの実体と属性の関係をアリストテレスが言い表した箇所を整理し、実体に対する属性の依存関係が明らかにする。すなわち、実体はそれ自身以外の何物にもよらずにそれ自体であることができるものである一方、属性はそれ自身以外のなにものかによってそれであることができるものだ。ところで、以上のように実体と属性の関係を理解することが、実体の主語的性格について理解する鍵になる。アリストテレスの著作には「実体は他のものについての述語にならず、かえって他のものがそれについての述語になる」と類似する表現が無数に見出される。ここに示されることに従えば、実体は主語的性格をもつもので、実態にとって「他のもの」は存在しない。一方で、属性は実体であるところの「他のもの」にかかわる。このことから、ここにいう「他のもの」とは、「当のもの自身以外のもの」という意味だとわかる。さてここで、実体にとって「他のもの」が存在せず、従って実体が「他のもの」の述語にならないのは、実体が自ら以外のものであることなく、まさにそれであるところのものであるからだ。この根拠なしに上に挙げた有名な表現を理解するのであれば、実体概念にとっては破壊的なことである*5 。そこで、牛田は先の有名な表現では実体がそれ自身についての述語になることが妨げられていないことに着目し、この問題点を克服する。「他のものについて述語になる」という述語の用法に留まる限り、実体は主語的性格のものであるが、「他のものについて」という限定は実体の自己規定性を前提とするものだということだ。このとき、実体は第一義的に自己述語的な性格を持つのではないか。

 牛田は『分析論後書』から「自ら自身についての述語になる」という表現を含む部分を検討し、「自ら自身についての述語」「「何であるか」を表す述語」「それ自体とは異なるものではなくそれと言われるまさにそのものと言われるもの」はそれぞれ等しく同じものを指しているとする。また、このうち、「何であるか」「それ自体とは異なるものではなくそれと言われるまさにそのものと言われるもの」は実体表現である。従って、「自ら自身についての述語」とは「何であるか」「まさにそれであるところのもの」を表す述語である。なお、文法的連関から「何であるか」と「まさにそれであるところのもの」は同じ意味で使われる。次に、牛田は「まさに或るこれであるところのもの」(『形而上学』1030a3-6)という表現に着目する。これは先の三つの表現と同じものを指している。「まさに或るこれであるところのもの」という表現は「まさにXであるところのもの」のなかに、実態の呼称である「或るこれ」が述語として挿入されたものである。 ここで牛田は『形而上学』ゼータ巻にみられた「実体的疑問文」を検討する。「或るこれは、何であるか」はいまや「或るこれは、まさにそれであるところのものであるか」と読み替えることができる。そして、この疑問文に対する回答は「或るこれは、まさに或るこれであるところのものであるか」という肯定文が対応する。この肯定文は実体が自己の述語であることを我々に理解させる。ここまでくれば、「まさにXであるところのもの」という表現が当然注目される。これは、Xであるものがあるとすれば、当のXそのものと、Xであるそのことが一致していることを意味している。「それぞれのものは自らの実体にほかならないと考えられ、そして本質はそれぞれのものの実態であると言われる」(『形而上学』1031a17-18) はこのことを表している。ここにおいて、実体はそれぞれのもの「それ自体」でありかつ「本質」でもあるようなものとして構想されている。このすぐあとで、アリストテレスプラトンイデアについて言及している(『形而上学』1031b11-15)。アリストテレスの実体概念はプラトンイデア概念から影響を受けたものであることは決定的である。プラトンイデア的表現「それぞれのものがまさにそれであるところのもの自体」「まさにそれぞれのものであるところのもの自体」とアリストテレスの実体的表現は構文と内容において一致しているのだ。

 第一章第五節は、第一章においては補論であると同時に、第三章への導入という役割も果たしている。このことから、第三章に言及する機会があれば、そこで触れたいと考えている。

 

*1 牛田はこれを偽作とみなす立場に立つ。第六章第二節参照。

*2 例えば、” なぜならわれわれは「これはどのような〔性質の〕ものか」と言えば、「善いものだ」とか、「悪いものだ」と述べて、「三ペーキュスある」とか、「人間だ」とは述べないが、「何であるか」と言えば、「白いものだ」とも、「熱いものだ」とも述べないで、「人間だ」とか、「神だ」と述べるからである ” (『形而上学』1028a10-18 以下、特に断わりがない場合を除き牛田の引用を孫引き)。この引用にみえる「何であるか」という問いは、「これは何であるか」と読み替えることができる。これは「或るこれ」を主語に、「何であるか」を述語に見立てて出来上がっているかのようにみえる。これを「或るこれ」と「何であるか」がともに実体を指しながらそれぞれ主語的または述語的に使われているとする見方に当然牛田は距離をおくが、ここでこうした疑問文を「実体的疑問文」と名付けている。

*3 本書第六章第二節参照。

*4 牛田はこのことをパルメニデスの「存在」概念に関するアリストテレスの記述に基づき、アリストテレスの代弁者としてこの矛盾を指摘する。つまり、「存在」が「まさに存在であるところのもの」を意味しないのであれば、「存在」はなんらかの基体に付帯する属性述語でなければならない。そうすると、その存在述語が付帯するところの当の基体自体は存在ではないことになる。従って、存在ならざるものが存在であることになる。パルメニデスは「あらぬものがあることはけっして証しされないであろう」というのであるから、これは拒否されるべき結論である。なお、このことから、本文においてこの指摘の後に続く「従って」以下の一文は、牛田がそうする通り、アリストテレスの立場を示すものだとして問題ない。

*5 G.R.G.Mure の批判を参照。また、『形而上学』1029a10-12参照。

 

 私は特に検討を行うこともなく「常に述語される」という主語的性格のみをもって実体概念を理解していたので、冒頭で範疇の語義から実体概念の述語的性格が指摘された時点で自らの理解が一面的なものに過ぎないことに気付かされた。第三節以降の記述には自らの理解が正しくはどのような意味だったかを教えられた。これらにより、漠然と感じていた実体概念のブレをある程度クリアに把握することができるようになった。また、その内容が示される過程では、論理とテクストが両輪とされており、哲学史研究のひとつの理想というような印象を受けた。