鴨川日記

本の紹介を中心に活動しています。

ベン・ジョンソンの抒情詩より一編の詩の翻訳と紹介---「シリアに寄せる歌」

シリアに寄せる歌*1

 

ベン・ジョンソン

 

あなたの目だけで私に乾杯をしてください*2
  そうしたら私も、目であなたに祝杯を差し上げます。
それか、杯の中にさえ口づけを残してくれれば
  私にはワインなどいりません。
魂からこみ上げてくる渇きは
  神聖な酒を求めるのですから。
ですが、たとえジュピターの神酒*3をすすることが叶うとしても
  あなたの杯と代えたりなどいたしません。
あなたに近頃、バラのリースをお贈りましたのは
  あなたを讃えようとしたからと言うより、
あなたの元でなら、バラにも枯れることが
  無いという希望を持たせられると思ったからです*4
ですがあなたは、バラに吐息を吐き掛けただけで
  私に送り返されました。
誓って申しましょう、それ以来バラが芳しく育つとき
  それはバラではなく、あなたの香りがするのです*5

 

 原文

www.poetryfoundation.org

 

 ジョニー・キャッシュによる演奏(1:00から始まります)*6。暖かく優しい歌声がとても心地よい。

www.youtube.com

 

 ベン・ジョンソン―人と作品 (1963年)

 

ベン・ジョンソン―人と作品 (1963年)

  

<註と鑑賞>

*1:この有名な抒情詩の詩行はギリシアソフィストであるフィロストラトス(c. 170/172-247/250)による5つの別々の散文の翻訳のパッチワークである。

*2:恋人に乾杯を捧げるというのは伝統である。目で乾杯をすることの意味までいちいち註をつけるのは野暮というものだろう。

*3:ネクターのこと。ギリシア神話の神々が天上で飲む酒で、飲めば不老不死になると言う。ところで原文のJoveはジュピターのことを意味するが、当時のイングランドでは検閲を避けるためGod、つまりヤハウェ、の代わりに使われることも多かった語である

*4:個人的にはバラの花を愛のメタファーとして読みたい

*5:シリアの吐息を受けただけで、愛のバラは彼にとって永遠に育ちつづけるものとなった。だが、彼女の吐息の理由は何だろう? 吐息を掛けて送り返すのは一体どういうことだろうか? ところで、この詩全体からはとても優しく、暖かい印象を受ける。脚韻はa-b-c-b-a-b-c-b-d-e-f-e-d-e-f-eとなっていて、これも優しい響きを持ち耳に心地よい。この詩では男性が女性に思いを伝えているが、女性はずっと沈黙したままだ。その上、彼を愛してはいないようにも思われる。果たしてシリアは、この至上の恋愛詩を聞いたあと、彼の愛を受け入れるのだろうか?

*6:パブなどで広く演奏されることになったこの音楽は18世紀に作曲された。作曲者不詳。

田中美知太郎の伝記

『時代と私』 田中美知太郎 

時代と私

時代と私

 

私は、自伝というものを、教訓に富んではいるがどこか独善的で気まぐれなところのある、よく聞かされる昔語りの類と観念していた。だから、『時代と私』という自伝を読んだ時、そこに全く違う自己の語り方が開かれていることに新鮮な驚きを禁じ得なかった。そしてまた、この点にこそ田中美知太郎という古典学の泰斗の人となりが最もよく現れているように思えたのである。そこで私は、個々のエピソードよりも、むしろそれを語る著者の姿勢というものに注目して、以下この本の魅力をお伝えしていこうと思う。

まず、著者の田中美知太郎について若干の伝記的説明が必要かもしれない。彼は1902年、新潟で生まれる。幼少の頃、家族で上京。開成中学校上智大学予科を経て、京都大学哲学科(専科)で学ぶ。戦中は東京の実家に戻り、大学講師として生計を立てた。戦後、京都大学の教授となる。昭和期を通して活躍した日本を代表する西洋古典学者であり、後進の育成にも熱心であった。その著述活動は多岐にわたるが、中心は古代ギリシアの哲学。主著に『ロゴスとイデア』、『ソクラテス』、『ツキュディデスの場合』などがある。保守派の論客としても有名であり、長年に渡り、文芸春秋の巻頭随筆を担当した。

自伝の紹介をするのに、これ以上の伝記的な説明は無用であろう。詳細は直接読んでいただくことにして、さっそくここからは、本題である田中独特の「自己の語り方」というものに迫っていこう。その特徴はすでに序章「はじめに一言」において顕著にあらわれている。ここで田中はまず、「この時代におけるわたし自身の思想的経験というようなものを語る」[i]という、自伝の執筆に際して自らに与えられた課題自体に批判の目を向ける。というのも、田中に言わせれば、「いかなる個人の生涯も、それが直ちに歴史と一つになるようなことはない」[ii]のであり、ユダヤ思想が浸透する以前においては「自分を時代のなかにおいて考えるというのは、決して自明のことではなかった」[iii]からである。これは彼が歴史主義と呼ぶところのもの、即ち万物を時間化(流動化)しようとする傾向に対する批判であり、序章全体はその目的のために捧げられていると言っても過言ではない。通俗化された歴史主義、あるいは凡歴史主義というものに対する抽象度の高いその批判をここで詳述することは本稿の目的にとってあまり重要ではないだろう。しかし、私たちにとっては、なぜ田中が自伝の序章の大部分をこのような批判に割いたのか、という点が興味深い問題となってくる。その背景としては、彼自身言っているように、時代が個人を包摂するような仕方で自伝を書く、という、おそらく出版会社側から提示されたであろう要請に対する違和感があったことは疑いを容れない。しかしこれをもう少し、積極的な仕方で考えてみることもできるのではないだろうか。つまり、歴史主義批判を通して彼は、自らの自己の語り方に制限を与えるとともに、その語り方に一定の方向性を与えているのだとは考えられないだろうか。個人が時代に還元されないというのは、自己を語るという行為に即して考えるなら、時代を自らの専有物にしないということでもある。もっと砕けた言い方をするなら、「あの頃は、、、だった」という昔語りの独断を排するということだろう。それによって、自らの体験を時代の代表とする傲慢を避けるともに、時代に還元されない個人としての田中美知太郎を語りうる可能性が開ける。要するに、歴史主義批判は著者自身の自己の語り方の表明であるわけだ。時代と個人の相克を、一方が他方に還元されることのないその複雑な関係性を描き出そうという意志表示であるわけだ。こう考えてみると、『時代と私』という自伝の表題は実に含蓄に富む、考え抜かれたものに思えてくる。これは、自己を語るにあたって、その語り方にかくも意識的で用心深かった人物の自伝なのである。

さて、ここまでくると、どうしても続きが気になってくるのではないだろうか。「このような看板を掲げておいて、この人は一体どんな風に自分の人生を語るのだろう?」と。ここからは、本稿の主題であるこの点を詳しく見ていこう。

まず注目に値するのは、自伝の諸方で多数の史料が引用されていることである。回想録、日記、研究書、年表とその内容は多岐に渡り、執筆者という点でみても十名ほどの名を見つけることができる。試みにその一部を挙げてみると、西田幾多郎波多野精一三木清、戸坂潤、高坂正顕など、当時のアカデミズムを代表する錚々たる顔ぶれである。これら田中と交際のあった学者らの日記、手紙が引用の大部分を占めるのであるが、それ以外のものとして、永井荷風の日記が戦時下の状況を的確に描写したものとして度々引用されていることも興味深い。変り種としては、隣家の婦人が田中の妻に宛てた手紙というのもある。これは田中が東京空襲で大やけどを負い人事不省となった際、主人の急を知らせるべく疎開先の妻のもとに送られたものである。このように田中は複数の史料を駆使して、自らの生きた時代、そして彼自身がその時々に感じていたことを描き出して見せる。そこにおいて、田中自身の記憶や記録は特権化されることなく、あくまで一史料として扱われている。もちろん、彼自身の日記や研究ノートは最も引用頻度の高い主要史料であり、時として自身の記憶のみを頼りに過去を再構成している箇所もある。しかし、田中の語りには自らの専断を避けようとする抑制が働いていて、それによって全体としては、自伝でありながらどこか他人が書いたかのような厳密で客観的なものとなっているのだ。といってもそれは無味乾燥であることを意味しない。むしろ私たちは田中美知太郎という古典学者の、それ自体で既に強烈な個性を放っている生涯を、田中美知太郎という、これまた個性的かつ博覧強記で抜け目のない敏腕伝記作家の目を通して見るという恩恵に浴しているのだというべきであろう。一つ具体的なエピソードを抜き出してみよう。舞台は1925年の京都、ある哲学茶話会での一幕である。田中はまず鹿野治助という、同時期に京大で学んだ人物の記録を引用する。

「談話が終って質疑応答となったが、その中でいまはなき木村素衛さんが何か質問をした。すると例の絹がすりの学生が横から口を出して、『そんなふうに考えるからプラトンがわからないのだ』とたしなめた。・・・・・詳しいことは忘れたが、絹がすりの小僧にいわば道場破りをされたようなものではなかったろうか。」[iv]

ここで言われている「絹がすりの学生」こそ、当時23歳だった田中美知太郎のことである。田中はこの引用に続けて、鹿野の記述では自分が「少しばかり颯爽とした恰好になりすぎている」[v]として、当時の自らの研究ノートから、同じ出来事について書いたものを引用する。そこには鹿野の記述とは対照的に、暗く鬱々とした以下のような反省と自己批判の言葉が並んでいる。

「ああ何という滑稽であろう。自分は夢中になって喋り、夢中になって威張っていた。会話の中心人物というような道化役を何故私は演じたか。・・・・・多数に対して私は二通にしか振舞えない。注目をさけて片隅に沈黙するか、傍若無人に一直線に自分のしたいことをするか。-すなわち、やはり他人の注目を無視するという一種羞恥心をごまかす仕方」[vi]

このように田中は自他の記録を併用することによって、一定の距離を保ちつつ当時の状況とその時の自らの心理を克明に描き出している。このようなやり方は、自伝の序章を個人と時代の関係性という問題の考察(例の歴史主義批判)に捧げるほどに、自己の語り方に意識的で用心深かった人物に相応しいものではないだろうか。序章のやや抽象的な論と、二章以下の具体的な記述とは納得のいく形で結びついているわけだ。しかし、それに続く箇所では、「若い時代には自分自身の既成事実というものが未だ少い」[vii]、そのため「半ば夢中で勉強しながら、それにどういう見こみがあるのか全くわからず、いつも不安な状態にあった」[viii]のだろうと当時の自分を分析している。青年期特有の不安について語る著者のまなざしに、私たちは何か親心に似た暖かさも感じることができるのではないだろうか。それによって、本書は回想が陥りがちな過度の恣意性を免れるとともに、悪しき意味での学問的な無味乾燥とも無縁のものとなっているのだ。

 最後にもう一つ、どうしても考察しておきたい点がある。そのために、まずこれまでの話の道筋を思い出してみよう。私たちは、自伝の序章から話をはじめた。序章では、歴史主義批判に主眼が置かれているという点である。それは、個人を時代という枠組みの中だけで考えてしまう傾向に対する批判であった。それに対し、個人は時代に生きつつも、完全に時代的制約に飲み込まれてしまうことはない、という点を田中は繰り返し力説していたのである。そこで、このような主張が序章の大部分を使ってなされているのはなぜかと問い、私たちはそこに田中なりの「自己の語り方」が宣言されているのではないかと考えた。だとすると、自己について具体的な話を始める前に自己の語り方を規定しているのだから、田中は自己の語り方についてかなり意識的な人だということになる。というわけで、かくも自伝を書くということに対して自覚的だった人は、一体どんな風に自己を語ったのか、という点が私たちの興味を引いたのである。その後の分析で、その自覚と彼の自己の語り方との間に納得のいく連関があるということは、多少なりとも明らかになったものと思う。しかし、ここで筆をおくとすれば、一つ大きな疑問が残ったままになってしまう。その疑問というのは、彼の「自己の語り方宣言」の内容、つまり時代と個人との関係についての主張に関するものである。即ち田中は、個人を時代に還元してしまう風潮に対して断固として否を突き付け、個人は時代に還元されえない複雑さを持っているのだとした。それでは、自伝の個々の記述の中では、個人である田中美知太郎と彼の生きてきた時代とはどのような関係にあるものとして描かれているのだろうか。まずは自伝の諸方に引用されている田中自身の当時の日記を見てみよう。

「不愉快な緊張感と虚脱感との交差から仲々解放されないのには弱る。午前、テアイテトス訳にかかる。午後、散歩少し。夜、入浴」[ix]とあるのは、1936年3月2日の記述である。「不愉快な緊張感と虚脱感」というのは、直前に起きた二・二六事件により田中が大きな精神的ダメージを受けたことを示している。一方、「テアイテトス」とあるのは彼が大学卒業以来10年以上にわたって続けてきたプラトンの対話編『テアイテトス』の訳業のことである。1939年9月2日の記事は第二次世界大戦勃発の翌日に書かれたものだ。「欧州不安気になる。ここ二年間の重圧に堪えて来た心。またこれからもっと大きな重圧に堪えて、自分の精神の自由を守らねばならぬ。それは絶望的な努力かも知れぬ。・・・」[x]その一か月ほど後の10月11日の記事には「現実の中から思想が生まれてくる?否、現実との距離に於いてのみ思想は生まれてくる。・・・」[xi]とかなり激しい調子で書かれている。その7か月後、1940年5月12日になると、「自分の住む国家社会が自分の道徳感を満足させない方向に動いて行くこと、その離反ほど悲しいことはない。・・・」とある。このように、時局が自らの予期に反してあらぬ方向に展開していくことに対するもどかしさと苦悩が当時の日記からありありと浮かび上がってくる。と同時に、彼にとって何よりも重要であった学問をその時代状況の中でいかに守り抜くかということが切実な問題として意識されることになるのだ。こうした時代との不断の緊張関係の中にあり、時代に迎合できない自らの在り方に生きづらさを感じつつも、田中はこの時期重要な論文を数多く発表する。時代との摩擦、軋轢がかえって精神生活の充実をもたらしたのではないかと著者自身は自己分析している。この間の事情を描いた自伝第十二章のタイトルが「最悪にして最上の時代」となっているのは、そのためであろう。では彼自身は当時のこのような自己と時代との関係をどのように捉えているのだろうか。少し長いが、自伝中の考察を二つほど紹介しておこう。

二・二六事件の非道と破壊的効果を述べた後で、

「わたしのささやかな仕事は、わずかでも知的努力の蓄積と創造の仕事だった。建設には長年月を必要とするが、戦争や内乱の破壊的仕事は、短期間のうちのこれを無にしてしまうのである。」[xii]

また1941-1942年の状況を描いた第十三章の終りに近いところでは

「人間の生活というものは、個人の場合にしても、社会全体について見ても、驚くほど複雑多様だと思われるのである。・・・そういう多様性は、戦争という特別の事態、・・・、外部から強い圧力がかけられ、それによってわれわれの生活はひどく圧縮されるわけだけれども、人間の多様性というものが破壊され、まったく単一化されてしまうということは、そう簡単には出来ないのではないか。」

個人は時代の奴隷ではないという、序章で繰り返しなされた主張は、戦争という異常事態を肌身で経験した田中自身の実感であるとともに、彼の地道な学問の営みを支えた思想であり、また時代に屈せずに生きてきたという自負の表明でもある、ということだろう。『時代と私』を通して、私たちは時代と個性というものが一人の人間の生涯において交錯し縺れ合う様を具に見ることになる。これは時代を個人に、或は個人を時代に従属させようとする安直な一元論に対する反証であると同時に、困難な時代状況に耐えて、自己の本分を守り通した著者の思想の書でもある。

 

[i] 田中美知太郎『時代と私』(新装版)文藝春秋1984年、p20

[ii] 同書P9

[iii] 同書P13

[iv] 同書P191-192

[v] 同書P192

[vi] 同書P192

[vii] 同書P194

[viii] 同書P195

[ix] 同書P284

[x] 同書P299

[xi] 同書P317

[xii] 同書P295

『1925』に愛をこめて

 
 本稿は「初音ミク」10周年を記念して企画されたものである。本稿の元となるアイデアSPQRとの会話の中で生まれた。SPQR独自のアイデアに基づく箇所については可能な限り文中で指摘することにする。同様に私独自のアイデアである場合にはそれを明記する。
 なお、「1925 歌詞 解釈」「1925 解釈」で検索すると、1925年という年号に拘った解釈が散見される。中には大正時代というコンテクストの中で歌詞を解釈しようと試み、歌詞中の「法律」を「治安維持法」と解するものもあった。当然解釈は自由に行われるべきであるし、これらを全くの悪手だと決めつけることはできない。しかし、同曲の題名が投稿の直前まで「Emi」であったこと(作者ブログ 2009年10月09日の記事より)などを踏まえると、1925年という年号にどこまで拘って良いか立ち止まって考えてみる余地はあるだろう。そのことなしで本稿が果たすべき目的を達成することができるという理由で、我々は年号に着目しない立場をとった。
 
 
 2007年に「初音ミク」が発売されて以降、VOCALOIDを用いたオリジナル楽曲を動画サイトに投稿することが盛んになった。そうした楽曲のなかに、『1925』という題名のものがある。

 
 
 この曲の最大の魅力は、言葉を弄ぶような歌詞だ。例えば、一番サビを見てみよう。
買えないものなどないのです
転じて言えば何物にも
値段をつけて売るのです
尊徳の感情はないの

 「買えないものなどないのです」と強気に出た後で、すぐに「転じて言えば何物にも値段をつけて売るのです」と意味をズラしてしまう。『1925』の歌い手(以下、”1925”。以下で性別を女性としたのは、同動画に用いられたバスガールのイラスト及びその二次創作から、本作の歌い手を女性とすることが一般的だからだ)にとって「買えないものなどない」ことは、”1925” が「何物にも値段をつけて売る」ことを必ずしも意味しない。しかし、その両者を「転じて言えば」と等号関係で継ぐことで、前者の意味を後者に合わせて遡及的に読み変えることを聴き手に要求している。これが私の言うズラしである。SPQRの指摘では、前者の主語が「I」であるのに対して、後者の主語が「We」であることにより、このズレが生じている。そして、その後には「尊徳の感情」と「損得の勘定」の掛詞を添える。この箇所を見るだけでも、如何に技巧を凝らした言葉遊びで満ちた歌詞か分かってもらえるだろう。

 
 
 こうした言葉の使い方は、軽やかな印象を与える。それは内容についても言える。「尊徳の感情はない」のだから、取引される対象を大切に扱うことはない。損得の勘定もない彼女のことだから、その取引も気の向くままに行うのだろう。
 このような歌詞から想像される ”1925” は、軽薄な人間関係を生きる人物と言えるだろう。2番サビでも同様の人物像が浮かび上がる。
飽きたらガムを捨てるように
新たな恋を探す道理
パズルの凸凹意外にも
誰とでもハマるようだ

 一つの恋を終えても、気に病むことなくすぐに次の相手を探す。そして、その相手が誰であろうと構わない。このような恋愛の仕方は、先ほどの「取引」に対する彼女の態度とうまく対応する。「損得の勘定」がないからこそ「誰とでもハマる」が、「尊徳の感情」がないからこそ「ガムを捨てるように」相手を見限ることができる。ここまで来ると、どうやら「何物」には心や行動も含まれるようだということに気が付く。彼女は相手が代価としてくれるものに対応して、少なくとも恋人ならこうするだろうという行動をするのだろう。

 曲の最後に置かれた最終サビでは、直接的に彼女にとって「アイ」とは何かという問題が扱われている。
「アイ」とはなんぞと問われれば
それは「ワタシ」と答えようぞ
ひび割れしにくいだけなので、
ダイヤなどいらないのです

 この問い自体が「アイ」と「I」をかけた言葉遊びになっている。後者でとった場合「ワタシ」という回答は同語反復によるはぐらかしだが、前者でとった場合彼女なりに回答を行っていることになる。ここでは上で見た彼女に関するイメージを引き継ぐ形で、愛とは「ワタシ」のことであるとの主張を、「ワタシ」がしていることは愛とは何かを体現していると読むことを提案する。このように読むと最終サビを、彼女のそれとは異質な恋愛、すなわち特定の誰かを求める恋愛関係に対する拒絶と意味づけることができる。この問答に続く部分で、彼女は「ダイヤ」(結婚指輪 など)を「ひび割れしにくいだけ」と切り捨てている。このとき「ダイヤ」とともに「ひび割れしにくいだけ」とされているのは当然彼女のしているものとは違うとした恋愛だ。彼女のしていることよりも安定的に続くだけであるとして、特定の誰かとの恋愛関係を拒んでいるのだ。このように、彼女を軽薄な人間関係を生きる人物とすることは、歌詞を眺めてみたときに説得力がないわけではない。

 本稿の目的は、上に述べたものとは違った ”1925” イメージを提示し、それが歌詞と照らし合わせても説得力があると示すことである。また、その過程で、以上のような ”1925” イメージが如何にして作り上げられているかについても明らかにする。

 

 
 M.クンデラに『存在の耐えられない軽さ』という作品がある。
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 この節では、この小説について論じた小野紀明『西洋政治思想史講義』終章「存在の耐えられない軽さ?」を紹介し、その内容を踏まえて次節で『1925』の解釈に戻ることにしたい。

西洋政治思想史講義――精神史的考察

西洋政治思想史講義――精神史的考察

 

 クンデラはこの小説を始めるにあたって「そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?」と問いかける。

 ここで無理は承知で小野の説明を噛み砕き、「重さ」と「軽さ」について整理しておこう。「重さ/軽さ」の二項対立は、二項対立が「ある/ない」という終局的な二項対立と重ね合わせられる(この狭義の二項対立を<重さ/軽さ>とする)。ここで二項対立が「ある/ない」とはそれぞれどのような状況かが問題になる。この「ある/ない」は「本質/虚偽」としても同じことだ。ある事柄についてその本質や本当の意味を問うとき、我々は既に二項対立を作っている。「本質/虚偽」が存在しないのであれば、物事の本質とは何か?と問うこと、つまり、何が本質で何が虚偽なのかを問うことは意味のない営みだからだ。従って、二項対立が「ある」状態=<重さ>においてこのような問いは意味を成し、二項対立が「ない」状態=<軽さ>においては意味を持たないことになる。
 物語の中で、我々はこの第一義的な<重さ/軽さ>を生き方に関する「重さ/軽さ」へと読み替えていく。「軽い」人生において、我々は生まれてこなかったも同然である。初めから人生の意味を問う必要が欠落しているのだから、我々は自由奔放に生きることができる。本作では、このような生き方はサビナに代表されている。彼女にとって、生きることとは他者の前で何かしらの役割を演じ続けることであり、真実/演技という二項対立を持たない彼女はその状況を素直に楽しんでいる。それゆえ彼女は自由なのだ。一方で、「重い」人生では、我々は二項対立から逃れることができない。本作ではテレザがこれを代表しているが、彼女は自分の顔を眺めることで身体(現象)に心(本質)が現れていることを確認しようとする。テレザは「本質/現象(虚偽)」の二項対立を「心/身体」に重ね、真に存在する自己という仮想に囚われているのだ。
 この小説の主人公はトマーシュという男性だ。彼はサビナに惹かれ、享楽的に生きようとしている。しかし、最終的にはテレザとの愛に命を落とす。重荷から解放されて「軽さ」を生きるためには、サビナのような強さが必要であった。トマーシュにはそれが欠落していたので、「軽さ」に惹かれつつも「重さ」への郷愁を卒業できなかったのだ。小野がトマーシュにこそ魅力を感じるように、また「どちらを選ぶべきか」という問いで始めた物語に作家が愛の死という結末を用意したように、この弱さは必ずしも否定的な意味を持たない。「重さ」とそれに伴う弱さは、もっと言えば「重さ」と「軽さ」の間で懊悩することは、自己意識(本当の自分、他者との差異と言い換えてもよい)に囚われてしまった人間の宿命なのかもしれない。
 
 
 これを踏まえて『1925』に戻ろう。先ほど ”1925” の恋愛観として想定した考えは、ちょうど「軽さ」に対応するかのようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。我々に提示されているのが言葉である以上、それを素直に受け取ることは時に危険だ。
 『存在の耐えられない軽さ』を用いて我々が確認したことによれば、「軽さ」のもとに生きているのであれば、「愛」の本質を問うことに意味を見出すことができないはずだ。しかし、先ほど見た通り、「アイ」とは何ぞという問いに対し彼女はそれは「ワタシ」と回答を行っている。これは、その問いが前提としている二項対立(真実の愛/虚偽の愛)に立っていなければできないことだ。彼女は特定の誰かを求める恋愛関係と自らのしている行為を二項対立的に捉えて、それに虚偽の愛/真実の愛という二項対立を重ねていたのだ。私は次に挙げる1番Aメロの歌詞も同種の証左だと考える。
繰り返す問答 答えなら無用
嫌い、嫌い 縛らないで

 彼女は、恋人が繰り返す問い(例えば「本当に僕のことを愛しているのか?」)をはっきり束縛だと感じており、否定的な感情で突っぱねることで、その問いに回答することを無理矢理回避しようとしている。つまり、彼女は決して「軽さ」に対応する人物ではない。こうして浮かび上がる ”1925” 像とは、「重さ」から逃れられない女性だ。

 それでは彼女はどうして、そしてどのようにして「軽い」人物を演じているのだろうか。この問いに答えることは本稿の目的を達成する上で重要だ。上に挙げた1番Aメロの歌詞にその理由と仕組み見ていくことにしよう。
 先ほど私は「繰り返す問答」を恋人からの呼びかけとして説明した。一方で、彼女が自らに突き付けているとも読める。つまり、「私は相手のことを本当に愛しているのか?相手は私のことを本当に愛してくれているのか?」と自分の中で問い返し続けているのだ。この問いの反復が彼女を傷つけるものであることは我々の経験から了解可能であろう。そこで彼女は自分自身の「重さ」から逃避し「軽さ」の幻想に身をゆだねることで身を守ろうとする。これが彼女が「軽い」人物を演じる理由だ。
 さらに、この「繰り返す問答」に関する2つの読みを接合することで、彼女が「軽さ」を演出する手法が見えてくる。つまり、彼女は「軽さ」と完全に一致しようとして、自分の中にある「重さ」を自分ではないもの(例えば自分の恋人、自分とは関係のないカップル)に押し付けてしまうのだ。
 このように、自らの「重さ」に耐えかねた彼女は、「軽さ」へと逃避して「重さ」から身を守ろうとする。そして、その試みを完全なものにするために、「重さ」を外部に押し付けてしまう。これはこの曲の中で、特にAメロ、Bメロ部分に頻出する構造である。例えば、2番Bメロの次の歌詞にもこれを見ることができる。
間違い探しのペアルック
あれとこれとそれとどれ

 「ペアルック」は特定の相手を前提としている点で、「重い」愛を連想させる。特定の相手に限定された恋愛関係とは、特定の相手に本質を、それ以外の恋愛対象に虚偽を重ねる点で、必然的に二項対立的なものであるからだ。「ペアルック」をしているのが彼女ではないとするならば、彼女は傍観者である。互いに相手に本質を見ているカップルに向かって綻びを指摘していくことは、彼らが行っているその想定に揺さぶりをかける行為である。しかし、「ペアルック」をしているのは彼女である。彼女が「間違い探し」を始めてしまうのは、相手と本質を重ね合わせてよいのか不安に思っているからだ。つまり、この部分は上で見たのと同じように、自分自身に対して「私は相手のことを本当に愛しているのか?相手は私のことを本当に愛してくれているのか?」と問うている場面である。この部分をあたかも「軽く」読むことができるのは、自分自身の中にある「重さ」を自分ではない誰かに押し付けているからである。そして、「軽さ」に逃避するように、2番サビを軽やかに歌い上げるのだ。このように、我々が最初想定した軽薄な ”1925” イメージは彼女が作り上げた鎧であることがわかる。

 
 
 本稿の目的は、”1925” が持つ軽いイメージを崩すことであった。これは、ここまででほぼ達成されたように思われる。以下では、「重い」 ”1925” 像を採用しながら、部分的に解釈を行ってみたい。SPQRとの会話の中で、以下の箇所をどう読むか最後まで紛糾した。
遮るものをあげるならば
心と道徳、法律か
お高い壁も遠回りを
したならば ほら
こんにちは

  ここで「遮るもの」として挙げられているものは全て二項対立に関係する。「心」はテレザにもみられた「心/身体」の二項対立を想起させるし、道徳は「道徳/不道徳」、法律も「合法/違法」に繋がる。この点、これら「お高い壁」が破壊されるのではなく、「遠回り」によって回避されることは、彼女が「重さ」からは決して自由になることができないことと整合性がとれる。ここまでくれば、「重さ」がうむ痛みを回避することで、つまり「軽さ」を装うことで初めて他者と出会うことができると読むのが素直だろう。

 この箇所でもう一つ大切なのは、「遠回りをしたならば」と言っているのが彼女自身であることだ。彼女は自らが「重さ」を抱えており、それから逃れることはできないのだと自覚していることが読み取れる。
 
 
 最後に、もう一度次の箇所を取り上げよう。
「アイ」とはなんぞと問われれば
それは「ワタシ」と答えようぞ
ひび割れしにくいだけなので
ダイヤなどいらないのです
 先ほど私はこの前半部分を「ワタシ」のしていることが「愛」とは何かを体現していると読むことを提案した。当然この箇所は別の読み方をすることもできる。SPQRは、彼女の「愛」の対象が「I」である、つまり彼女の自己愛を歌った部分だと読む。「愛とは何か」という問いは、決して抽象的な愛の定義を問うだけではない。「あなたにとって愛は誰に対する感情か」という問いと読み替えることも許されよう。また、「愛」から「I」を連想していることも、愛を自分と密接に関係のあるものと考えている証拠になる。
 また、SPQRは「ダイヤ」から彼女が「ひび割れ」を連想したことに着目する。彼女が「ダイヤ」と「ひび割れ」を結びつけたのは、「ダイヤ」の他に何かひび割れしやすいものが存在するからだろう。「ダイヤ」が「重い」愛を象徴するものだと思い起こすとき、彼女はひび割れしやすくても良いから誰かに愛されたがっていたのだと気付けるはずだ。
 ここで私は二番サビを思い出したい。
飽きたらガムを捨てるように
新たな恋を探す道理 

 目の前にある恋に飽きているはずなのに新たに恋を探し続けている。ひょっとしたら飽きてしまったというのも自分を守るための嘘で、実際は彼女が飽きられ捨てられたのかもしれないのに。次はきっと本当に愛してもらえるはずと信じて。SPQRが自己愛を歌った箇所とした歌詞を、私は「愛とは私に向けられるはずのもの、私が本当に求めているもの」と読みたい。同じ愛=「重さ」から逃れることができない存在として、私は彼女に共感する。「軽さ」への熱狂は、相手への愛なしにただダイヤを贈ることに近い。「重さ」に寄り添う本稿なら少しは彼女の役に立つと思うのだが、果たして彼女は受け取ってくれるだろうか。

TVアニメ『絶園のテンペスト』の考察

 

                                All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
Shakespeare, As You Like It, II. vii. 139-40

       すべて世界は舞台であって、
男も女のみな、役者にすぎぬのだ。
シェイクスピア『おきに召すまま』拙訳

  

 

1.シェイクスピアと世界劇場

 

絶園のテンペスト』にはシェイクスピアからの引用、へのアリュージョンが多い。作中のセリフには『ハムレット』のほか、タイトルにもある『テンペスト』からしばしば引用されるし、また直接の引用でなくとも、孤島の魔法使いをはじめ、作中の様々なモチーフも上記の二冊に負うているものが数多くある。いわゆる「御柱」が消失した際、空に舞う多くのアゲハ蝶を見た吉野の真広への言葉—―「胡蝶の夢とも言うね。この世は夢かうつつかわからない。これまで俺たちがみてきた世界は都合のいい偽物だって言っているのかもしれない」―—このとても東洋的な趣のするセリフさえ、シェイクスピアの『テンペスト』の有名なセリフに通じるところがある。

 

                                    These our actors,
As I foretold you, were all spirits and
Are melted into air, into air;
And like the baseless fabric of this vision,
The solemn temples, the great globe itself,
Yea, all which it inherit, shall dissolve
And, like this insubstantial pageant faded,
Leave not a rack behind. We are such stuff
As dreams are made on, and our little life
Is rounded with a sleep.
Shakespeare, Tempest, IV. i. 150-9

              あの役者たちは、
前にも言っておいたようにみんな妖精なのだ、
それで大気の中に溶けてしまった、大気の中に、みんな。
だがなあ、なんの土台もないままの幻想の世界と同じに、
雲を戴く尖塔も、豪奢な王宮も
荘厳な寺院も、そうとも、巨大な地球そのもの、
この地球上にあるすべてのもの、それはみんな消え失せてしまう。
実体のない余興が消え失せたように、
あとには雲の一筋も残りはしない。私たちは
夢と同じものでできている、ほんの束の間の一生は
眠りで閉じられる。
シェイクスピア『あらし』大場健治訳(研究社)

 

真広と吉野が、彼らのいた「始まりの木」に支配されていた世界を造られたニセモノかもしれないと言っていたその言葉ように(彼ら二人がそれを本気で信じていないところにアイロニーがあるのは言うまでもないが)、『テンペスト』における上のプロスペローのセリフも、劇中劇や彼のいる世界が劇というニセモノである事を『テンペスト』という舞台の観客に意識させる。(『テンペスト』においてはプロスペローのセリフは劇中劇(劇の中で演じられる劇)の直後のものとなっていて、プロスペローの言う「役者たち」や「なんの土台もないままの幻影の世界」がすなわち劇中劇のことを意味している。)さて、この劇中劇の効果とは観客に「劇中劇というニセモノを見ている劇の世界もニセモノなら、劇というニセモノを見ている自分たちもニセモノなのかもしれない」と思わせるところにもあるだろう。つまり、私たちが生きている世界は劇場で、私たち自身役者であるかもしれないのだ。この考えはラテン語でtheatrum mundi(世界劇場)というもので、シェイクスピアが生きたエリザベス朝における一つの世界のとらえ方であった。

 

そしてこの作品『絶園のテンペスト』は、その意味で劇中劇の手法を効果的に用いたシェイクスピアの末裔であるといえる。「始まりの木」に支配されていた世界は、二人が「都合のいい偽物」かもしれないという通り、一種の劇中劇的世界となっているからだ。このこと詳しく見てみよう。絶園の魔法使いであった愛花は、「倒されるために存在する神」である「始まりの木」の司る「理(ことわり)」のためにーー真広と吉野を葉風に会わせ、「始まりの木」を倒すように行動させるためにーー死を選んだ。彼女は言う、「私は始まりの木を倒すのが使命の絶園の魔法使い。倒す道を選ぶために私の死が必要なら、自ら死を選ぶことは理屈に合っている」と。彼女の行動原理はまさに、「始まりの木」を倒すための「理」という台本の通りに絶園の魔法使いを生きて(そして死んで)いくことであった。だからこそ最期に残したビデオレターで「舞台上の役者は、シナリオを無視して勝手に動くわけにはいきません。美しく退場してこそ、役目を果たせたといえます」と言うのである。それに対して「始まりの木」が無くなった後、劇中劇の台本を生きた愛花の墓を前に真広は語りかける。「お前にとって人生は誰かに決められたシナリオ通り演じ、その通り終わらせるもの。だから、シェイクスピアのセリフをやたら口にしてたんだな。. . . 誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ」と。しかし、かく言う真広のあり方もアニメーターが絵を描き、そして台本の通り声優が演じている劇にすぎないのは明白である。視聴者の私たちは、劇中劇構造をもつアニメの視聴者なのだ。分かりやすいように括弧を用いて包摂関係を表すと、【≪[劇中劇]を観ているアニメ≫を観る視聴者】という立場にいるのである。そしてもちろんこの構造は、劇中劇というニセモノを見ているアニメの世界もニセモノなら、アニメというニセモノの世界を見ている自分たちの世界もニセモノなのかもしれない、と思わせる。つまり、シェイクスピア同様、私たち視聴者に対し、あなたたちの人生も演劇なのではないか、と問いかける構造になっているのだ。

 

2.運命、そして愛とは?

 

絶園のテンペスト』ではこの世界劇場の構造を用いて、運命(とその対極にある自由意志)というテーマを論じているが、この観点からキーとなるのは愛花である。それは彼女が単に劇中劇にきれいに収まる人物ではなく、むしろ『絶園のテンペスト』において最もメタな視点を持ち合わせた、世界劇場における運命を最も意識していた人物であるからだ。彼女は葉風に向かって、自分たちをプロスペローに言葉や知識を教わった奴隷のキャリバンに例えて言う。「わたしたちも同じです。二つの木を送り込んだ連中に、少しばかり特別な知識や力を与えられはしても、結局はその奴隷にすぎません。. . . 彼らの望むようにすれば、とりあえず幸せに終わるんですから」と。すなわち彼女は、彼女ら登場人物の「始まりの木」を倒すための行為は、アニメ制作者という「二つの木を送り込んだ連中」が作り上げた「理が働いている、導かれた運命」に支配された物語のなかの自由意志を持たない「奴隷」の行為であると仄めかしているのである。そして突き詰めれば、物語の中の登場人物が作者の意思/シナリオという運命に縛られ、その意味で自由意志を持たないという事実は、救いようもなく正しい。ゆえに真広が愛花に「誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ。俺は誰かの舞台劇をなぞるみたいな結末はつけねえ」というとき、彼はアニメ登場人物としては持っているはずのありえない自分の自由意志を信じていることになる。もちろんそれを視聴者が見ているのであるが、この劇中劇の構造を先ほどのように括弧を用いて示すと【≪[自由意志を持たぬと悟っている愛花]を見ている、実は自由意志を持っていないのに持っていると信じている真広≫を見ている視聴者】という風にあらわされる。そしてもちろん、自由意志を持たないにもかかわらず持つと信じている真広の姿は、視聴者も自らを重ねることになるであろう。私たちは普段自由意志を無根拠に信じているが、果たして私たちはそれを持ちえるのか、と。

 

このように『絶園のテンペスト』では運命(とその対極にある自由意志)が大きなテーマであり、運命と主要な登場人物の恋愛模様とが絡み合って物語は進んでいく。例えば、吉野への恋愛感情に戸惑う葉風が「これは何か? ラブコメか? 世界の命運をかけたラブコメなのか?」と言う場面。このセリフの面白さは、視聴者が究極的に葉風の恋が作者の意思という運命にに縛られたラブコメであることに想いをいたす事にあるのだか、恋だとか愛だとかいうテーマはアニメの世界でだけでなく、私たち自身もしばしば運命とともに語るものであろう。以下の葉風と順一郎の会話は私たちの現実世界でも日々聞かれるものである。

 

葉風「まさか吉野に恋するなど、こんなの予定にないぞ」

順一郎「予定して恋するのもどうかと思うけどね」

 

そう、恋はその当事者が自らの意思に基づいた予定にかかわりなく落ちてしまうものなのだ。恋に落ちる瞬間というものは往々にして自分では説明ができない、運命的な力によると感じられる。(ここで興味深いのは、二人が「予定」と言っている点で、これは神が予め全てを定めていると言うキリスト教プロテスタントの予定説を彷彿とさせる。物語をメタ的に見たとき、神に当たるのは作者であろうが、予定説はこの物語の作者と同じレイアーにいる私たちも神が定めた運命の力を往々にして感じることの例である。)そしてさらに、愛と運命について劇中で印象的に用いられているものにはシェイクスピアの『ハムレット』からの効果的な引用もある。(以下の引用が現れるのが、『ハムレット』の中で、王妃たるハムレットの母と王座を簒奪した叔父との前で上演される劇中劇であることもまた興味深い。)

 

For ‘tis a question left us yet to prove,
Whether love lead fortune, or else fortune love.
Shakespeare, Hamlet, III. ii. 190-1

愛が運命を導くか、それとも運命が愛を導くか、
それはわれらの人生がめいめい試さねばならぬ問題だ。
シェイクスピアハムレット』野島秀勝訳(岩波文庫

 

この格調高いセリフの引用は、視聴者である私たちめいめいに語りかけるもので、このような手法でこの物語は私たちのとある思考に投資している。すなわち愛と運命について考えることに誘っているのだ。あなたたちの人生ではどうだったか、と。『絶園のテンペスト』はかくして、劇中劇的構造や愛という主題を通して、視聴者に運命というテーマから作品を観させるのと同時に、メタプレーヤーたる視聴者自らを支配する運命(もちろんあるとも、ないとも言い切れない)というものについて考えさせるように仕向けてあるのである。

 

3.「ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

  

そして、この運命という問題に対して『絶園のテンペスト』は終わるということをもって一つの結論を出しているように思われる。物語を描くこと、それが愛花の言うように作者が登場人物を作者の意思/シナリオという運命の「奴隷」として縛ることであるのならば、物語を終えることは彼らを解放することになるのではないだろうか。実際このアニメの下敷きになっているシェイクスピアの『テンペスト』でもプロスペローは拍手でもって劇を終えることで彼を「解放」するように観客に頼んでいる。それと同じように『絶園のテンペスト』の中の彼らは自由な意思を手に入れる。真広、吉野とも愛花に対する、作者の意思/シナリオという運命に導かれた愛に縛られていたが、物語の終末にはそれぞれが新しい愛に向かって歩き出している。物語が終わり、彼らの愛がこれからの白紙の運命を導いていく。いわば「運命が愛を導く」から「愛が運命を導く」への転換がなされているのだ。――たとえ、その愛の始まりこそシナリオという運命に縛られていたとしても。この物語は、シナリオに支配された愛花の避けられない死、という悲劇の通奏低音を響かせながらも、その結末は(シェイクスピアの喜劇しかり結婚で終わる喜劇のコンベンションを受け継いで)、登場人物らが新しい愛とともに歩んで行くことを予感させる。愛花が葉風に、物語は「とりあえず幸せに終わる」と予言した通りに。ところで、先ほども指摘した通り愛花は最もメタな視点を持った登場人物であった。となると、かつて彼女が吉野や葉風に「これもいつかは美しい結末の伏線になる」や「とりあえず幸せに終わる」と言った時の「美しい」、「幸せ」という価値の判断基準は彼女の利害を離れて、『絶園のテンペスト』に出てくる他の登場人物の、というよりその世界を画面越しに眺めているメタプレーヤーである視聴者の視点と一致しているように思われる。さらにアニメの結末に聞こえて来る、「始まりは終わり、終わりは始まり。ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」という愛花のナレーションは、他の登場人物が聞いていないところでの、いわば独白である。(役者の観客への独白で終わると言うのも、『テンペスト』しかりエリザベス朝演劇のコンベンションであった。)そのため、確かに愛花のナレーションは、物語が終わった後に登場人物らが新たな愛を手に自ら運命を切り拓いていくことを言っていると解釈しうるだけでなく(そしてこの解釈もおそらく全くもって正しい)、それよりもメタプレーヤーたる私たち視聴者に直接語り掛けているものに思われるのだ。あなたたちは運命に支配されているかもしれない。それでも、これからは物語を観終えたあなたたちが、あなたたち自身の物語を彼らのようにひたむきに描いていきなさい、と。

 

(SPQR) 

クラウド9の研究(改)

 

Cloud 9

Cloud 9

 

 

この『クラウド9』という演劇、なかなかけったいなものなの。男が女を演じ、白人が黒人を演じる。およそ<リアル>とは程遠いわ。みんながリアルよりも<リアル>なリアリティーを追いかけまわしている(とわたしには思われる)今日、ウケル作品かと言えばちょっと違うかもしれない? じゃあどうして、作者は作品のリアリティーを傷ものにするようなことをしたのかしら? そうそう、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)先生はBrecht on Theatre (Eyre Methuen, 1978)でこんなことをおっしゃっていたわ。

too much heightening of the illusion … that gives the spectator the illusion of being present at a … ‘real’ event, create such an impression of naturalness that one can no longer interpose one’s judgement … and must simply conform by sharing in the experience and becoming one of ‘nature’s objects’. The illusion created by the theatre must be a partial one, in order that it may always be recognised as an illusion.(p.219)

言い換えると、あまりにも<リアル>な演劇をしてしまうと、観客はリアルに居合わせているつもりになって何も考えずに満足しちゃうから、観客に何かを問いかけたいときには<リアル>にするのもほどほどにね、ということよね。つまり、リアリティーがほつれているところに、観客は解釈と価値判断の手がかりを見出すということ。逆に、観客にとっての当たり前を、その通りに描いても、彼らが当たり前だと思っている制度を相対化することはできない。では実際、どのように作者のチャーチルさんがこの作品のリアリティーをズタズタにしているのかを、冒頭の場面で見てみましょう・・・。舞台はヴィクトリア朝南アフリカ。ここではClive(夫)とBetty(妻)が夫婦で、両人とも男性俳優が演じているわ。

CLIVE This is my family. Though far from home
We serve the Queen wherever we may roam.
I am a father to the natives here,
And father to my family so dear.

He presents BETTY. She is played by a man.

My wife is all I dreamt a wife should be,
And everything she is she owes to me.
BETTY  I live for Clive. The whole aim of my life
Is to be what he looks for in a wife.
I am a man’s creation as you see,
And what men want is what I want to be. (p.1)

クライブ  これが私の家族だ。故郷からは遠けれど、
    どこを征こうと我らは女王に仕えん。
    私はここの現地人どもの父であり、
    いとしい家族の父である。

    彼はベティ―を示す。彼女は男が演じる。

    妻は私が望んだすべてをそなえ、
    妻はすべてを私に負うている。

ベッティー 私はクライブのために生き、私の人生は
    彼が妻に求めるものになること。
    私はご覧の通り男が作ったもの、
    男が欲するものにこそ私はなりたいの。(拙訳)

なんとなくこの演劇の雰囲気がつかめたかな? ここではすべてセリフが英雄詩体二行連句(heroic couplet)というたいそう仰々しい詩形で書かれていて、弱強×5のリズムに加え、二行一組できれいに韻を踏んでいるの。日本で言うなら五七五のリズムに加え、掛詞・縁語なりを駆使しながらお話ししているようなもの。現実でこんなしゃべり方をする人たちがいる確率は、たぶんタイプライターをサルに与えたらハムレットを書く確率並みに低いでしょうから、セリフを聞いている観客は、「あ、<リアル>じゃないな」と思うわけ。その文脈の中で男が演じる妻Bettyとか、(上の引用部にはないけれど)白人が演じる黒人奴隷のJoshuaとかが紹介されているの。こうした俳優の身体性と役の<ズレ>というのは、英雄詩体二行連句通奏低音の上で強調され、否が応でも観客は意識させられてしまう。これは<リアル>が欲しい観客にとってたいそうおさまりが悪いから、彼らはその<ズレ>に意味づけを与えようと考えることが必要になってくるわね。だからあえて作者がリアリティーを損ねていたのは、観客が欲しがっている<リアル>について、<ズレ>に立ち止まって考えることで、もう一度その本当の価値を判断させよう、っていう意図あってのことなのね。そうしてみると、Bettyが父権的な価値観を内在化させている様子が透けて見えてこないかな? そうBettyは言うの。「私はご覧の通り男が作ったもの」。この戯曲を読み解くカギは、こうして提示されているわけ。

多くの人がフェミニズムを思い浮かべただろうけど、実はこの戯曲はフェミニズムのワークショップから誕生したもので、観客に父権的な社会や価値観について考え直してもらいましょう、というのを目的にしているのよね。だからこの戯曲がわざと”下手に”描こうとしている<リアル>は父権制社会。「<リアル>じゃないから、くだらない」って頭ごなしに否定するのは、女性蔑視と散々たたかれても反省しないドナルド・トランプ大統領くらいじゃないかしら? それにそう読んでしまうと、この戯曲は何も面白くなくなっちゃうのよね。だって、始めっから<リアル>じゃない方向を志向しているのだから。彼みたいに金儲けにばっかり精を出していると、たぶん物語は読めなくなるんでしょうね。<リアル>でない世界の意味を考えるのが楽しい戯曲なのに・・・。

さあ無駄話は切り上げて、<リアル>でない世界を志向するわたしたちは、先ほどの<ズレ>とやらに与える意味づけを一つ考えましょうか。それはつまり、男が女を演じることは、女が<女>を演じてきたことのメタファーだという事。ピンと来た人もいるんじゃないかな。長ーーーい名前のシモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908-1986)の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉もあるけど、つまりこの<ズレ>は、女性が<女性らしさ>を演ずることで<女性>になってきた、という命題を提出していると思わない? 具体例を示しましょう。

CLIVE Don’t squeamish, Betty, let me have my joke.
And what has my little dove done today?
BETTY  I’ve read a little.
CLIVE Good. Is it good?
BETTY  It’s poetry.
CLIVE You are so delicate and sensitive.
BETTY  And I played the piano. Shall I send for the children? (p.3)

クライブ   ショックを受けないでベティー。ジョークさ。
    いとしい君は今日何をしたのかい?
ベッティー  読書を少し。
クライブ   よろしい。よかったかい?
ベティー   詩を読みましたの。
クライブ   君は本当に優美で繊細だ。
ベティー   それにピアノを弾きましたわ。
   子供たちをお呼びしましょうか? (拙訳)

さっきのp.1の引用と合わせてみてみると、このBettyという人が夫Cliveのために「詩を読む」とか「ピアノを弾く」とか、<女性らしい>繊細さを一生懸命手にしようとしているけなげな姿が見て取れるよね。(実は彼女には他の個所で大胆さを求める葛藤があったりもするけど、それを押し殺してもいるんだ。)そうした行為を通して、彼女は一人の<女性>を作りあげていっているの。そしてこの<女>というジェンダーが<女らしい>行為のもとになるのではなく、逆である、つまり行為を通してジェンダーが形成される、という主張はジュディス・バトラー(Judith P. Butler, 1956-)の理論そのものでもあるの。Gender Troubleという本からの長い引用になるけど、根気のある人は読んでみてね。

Gender ought not to be construed as a stable identity or locus of agency from which various acts follow; rather, gender is an identity tenuously constituted in time, instituted in an exterior space through a stylized repetition of acts. The effect of gender is produced through the stylization of the body and, hence, must be understood as the mundane way in which bodily gestures, movements, and styles of various kinds constitute the illusion of an abiding gendered self. (The Norton Anthology of Theory and Criticism版, p.2552)

ここでは<ズレ>が、女が<女>を演じることのメタファーになっているという見方を紹介したけれど、これは今の流行り(?)の「女子力」にも通じるところがあるのよね。その意味で1981年に初演されたこの演劇は四半世紀と半分くらい過ぎた今も全然古びていない。それはともかく、この戯曲には不倫もあるし、ゲイ・レズビアンの問題も含まれているし、それに植民地支配の問題もあるし、まだまだ突っ込みどころがたくさん。それに男性の皆さん、<リアル>な世界では決して意識化されない、あなたたちの”いやらしい”視線さえも意識化される仕掛けがあるのよ(疲れたから書かないけど)。ただ残念なのは、翻訳書が絶版になっていること。それに日本での上演はそうそうないでしょうね。まあ、英語自体は簡単なので暇でもあれば。それではまた、ご機嫌よう。

 

参考(女装した男の演じるBettyに注目)

 

A Study of Shakespeare's Sonnet 85 (以前の記事の英訳)

 

The Sonnets and a Lover's Complaint (New Penguin Shakespeare)

The Sonnets and a Lover's Complaint (New Penguin Shakespeare)

 

 

Sonnet 85’: ‘My tongue-tied muse in manners holds her still’

William Shakespeare

 

My tongue-tied muse in manners holds her still,
While comments of your praise, richly compiled,
Reserve their character with golden quill
And precious phrase by all the muses filed.
I think good thoughts, whilst other write good words,
And like unlettered clerk still cry “Amen”
To every hymn that able spirit affords,
In polished form of well-refinèd pen.
Hearing you praised, I say “'Tis so, ’tis true,”
And to the most of praise add something more;
But that is in my thought, whose love to you,
Though words come hindmost, holds his rank before.
  Then others for the breath of words respect,
  Me for my dumb thoughts, speaking in effect.

 

   Shakespeare’s ‘Sonnet 85’ is inconsistent. This sonnet apparently advocates the superiority of ‘thoughts’ to ‘words’, saying, ‘Then others for the breath of words respect, / Me for my dumb thoughts, speaking in effect.’ (13-14). Here the couplet indicates clearly the binary opposition between ‘words’ and ‘thoughts’. Therefore, the fact that ‘thoughts [are] speaking in effect’ suggests that ‘words’ are not ‘speaking in effect’. The truth is, however, that the poet himself speaks ‘the breath of words’, which is crystallised as this poem. Moreover, though he says, ‘I think good thoughts whilst other write good words’ (5), his poem is undeniably written on paper before us readers. This self-contradiction makes the reader doubt the poet, from which ensues the reader’s scepticism on his superficial meaning. Indeed, the poet’s self-inconsistency seems to generate another: the superiority of ‘words’ to ‘thoughts’. In this paper, the relationship between ‘words’ and ‘thoughts’ is studied, paying attention to the inconsistency between form and content of the poem.
   Before further exploring doubleness of its meaning, it should be pointed out that ‘words’ and ‘thoughts’ in this poem correspond to form and technique, and sentiment respectively. As such expressions like ‘precious phrase by all the muses filed’ (4) and ‘with golden quill’ (3) imply, ‘words’ of other poets referred to in this poem are written in so polished language, which means it is different from our everyday speech. According to Russian Formalist Shklovsky, ‘[t]he technique of art is to make objects “unfamiliar”’ (18). Polished language, then, is what makes objects “unfamiliar” to the reader, and therefore it makes poems poetic. Hence ‘words’ represent form and technique of poetry, or poetic language. On the other hand, ‘thoughts’ represent sentiment of the poet, such as ‘love’ (11). The binary opposition between ‘words’ and ‘thoughts’ is, accordingly, that between technique and sentiment.
   In superficial meaning, the poet is maintaining that sentiment is more profound than form and technique of poetry. He is criticising other poets the poems of whom are empty with lesser sentiment than his, as he alleges ‘[his] love … holds his rank before [all others]’ (11-12). He suggests, in the very expression ‘the breath of words’, the hollowness of their ‘words’, or poetic language. The reader can, indeed, find the poet’s insinuations against poetic language in distortion of rhythm and the metaphors. In lines 2 to 4, he writes,

While comments of your praise, richly compiled,
Reserve thy character with golden quill
And precious phrase by all the muses filed. (2-4)

Here the reader can find iamb twisted in ‘richly compiled’, to be dactyl. When read aloud, the phrase will be pronounced quickly, and the very word ‘richly’ will not be pronounced richly, or magnificently. The phrase sounds, therefore, ironical, implying that thought the ‘comments of your praise’ are luxurious, as words like ‘golden quill’ and ‘muses’ suggest, they are nothing but hollowflattery which do not reflect ‘thy character’. He in lines 6-8 uses ecclesiastical metaphors, likening himself to an ‘unlettered clerk’ and poems of other poets, ‘hymn’:

And like unlettered clerk still cry “Amen”
To every hymn that able spirit affords
In polished form of well-refined pen. (6-8)

   Since hymn is a religious song to praise the God, by analogy, poems of other poets are to praise the poet’s love. The metaphor, however, intimates that even the divinest poems cannot over-praise his lover, just as no hymn can hail the God enough. The poet, who is well aware of such a limit of poetic language, cannot but keep silent—of course, ironically it is the poet who tells the reader this. And by saying, ‘And to the most of praise add something more; / But that is in my thought’ (10-11), he is asserting that his ‘something more’, or sentiment, or love, is not translatable into ‘words’ intact. Therefore, to be true to his sentiment, ‘[his] tongue-tied muse in manners holds her still’ (1). All the same, no sentiment is transmittable without words. Hence, the poet’s dilemma. His agony is such that it is overflowing from the last line, in which the rhythm of sonnet (iambic pentameter) is twisted: ‘Me for my dumb thoughts, speaking in effect’ (14). He is as if praying aloud that his sentiment would transcend words. For him, a poet should not necessarily be eloquent, or skilled in form and technique of poetry, for poetic language is, after all, empty. The rhyming of ‘still’ and ‘quill’ seems to suggest that ostentatious praises are actually quiet and will not reach their lover. Rather, what matters is the sentiment, which may be lost when translated into poetic form and technique. The world of poets’ sentiment is, therefore, richer than that of form and technique of poetry. He, thus, seems to advocate the superiority of sentiment to form and technique.
   The poet, however, is lying. Although he writes, ‘My tongue-tied muse in manners holds her still’, he is undoubtedly writing a sonnet, —and in words ‘richly compiled’. Indeed, he employed, as discussed above, several techniques to criticise other poets, who, according to him, have greater technique and lesser sentiment. His technique can also be seen in very the first line: My tongue-tied muse in manners holds her still. Here the alliteration of m, t and h sounds have high musicality. He is, then, not trustworthy, and it is unclear whether the poet is really thinking he is worse in technique than other poets. Anyway one thing is true. The poet himself is speaking in ‘the breath of words’, that is, form and technique. Then does this mean that the poet’s sentiment expressed in the form of poem is also empty?
   This discrepancy between form and the (superficial) meaning is, again, a key to another meaning. But the superiority of sentiment to form and technique is now deconstructed. That is because although the poet insists upon the emptiness of the form and technique of poetry, he, in point of fact, wants his love and the reader to believe that his ‘words’, or his sentiments expressed in the form of sonnet are, at least, not empty. If he does not want that, he does not, in the first place, need to compose such a poem. The form and technique of poetry, therefore, is, albeit written negatively, what brings ‘Sonnet 85’ into existence. This suggests that the form and technique of poetry is, after all, what poetry is all about. All the sentimentalists are not poets. Then, does he mean substantially that form and technique of poetry is superior to sentiment of the poet? Or is he being deliberately obtuse in implying that they can be separated?
   This very idea which sustains that technique and form are the essence of poetry is, the idea dismissed by the poet himself in the superficial meaning. In this poem two completely contradictory opinions are expressed at the same time, and therefore both opinions on poetry cannot be adopted by the reader. ‘Sonnet 85’ puts, in this way, the reader into the labyrinth of form and technique vs. sentiment, and makes the reader think of a question: what is poetry?

 


Works Cited

Shakespeare, William. ‘Sonnet 85’: ‘My tongue-tied muse in manners hold her still’. The NortonAnthology of English Literature, 9 th edn, Vol.B. Ed. Stephen Greenblatt et al. New York and London: W. W. Norton & Company, 2012.
Shklovsky, Viktor. ‘Art as Technique’. Literary Theory, An Anthology. Ed. Julie Rivkin and Michael Ryan. Oxford: Blackwell Publishers , 1998. pp.17-23

 

(SPQR)

なぜ『それ町』は<廻っている>のか?

  漫画『それでも町は廻っている』を読み終わった者は、誰しもあの最終話に違和感を持つだろう。129話「少女A」は主人公・嵐山歩鳥が「よいオチが思いつかない」と叫ぶシーンで終わっている。このセリフをメタ言及、つまり作者が『それ町』のオチが思いつかなかったことを主人公の口を借りて告白しているのだと解釈すると、綿密に積み重ねられてきた本編を締めくくるのには少し物足りない気がする。一体どのように受け止めればよいのだろうか。

 単行本の読者ならすぐに気が付くことだが、この作品にはきちんとオチがついている。単行本に収録されているエピローグ「それから…」を読む限り、作者はこの作品のオチを思いついている。従来通りの関係性が変わらず続いていくことを強く望んでいた歩鳥だが、エピローグでは亀井堂静との関係を積極的に変えていく。歩鳥の言葉に対する亀井堂の反応にも胸が熱くなる素敵なオチだ。このことから、最終話の歩鳥のセリフをメタ言及と捉える解釈は妥当だと言い難い。
 それではなぜ、「少女A」が最終話なのだろう。勿論あのセリフがメタ言及でないからといって最終話として全く機能していないわけではない。128話「嵐とともに去りぬ」とこれ以上繋がりのよい話は他に見当たらない。しかし、この大作を締めくくるのによりふさわしいエピソードが他にあったのではないか……この想いに駆られた者は誰しも、この作品では時系列がシャッフルされていることに思い至る。129話「少女A」はたまたま時系列シャッフルで一番最後に来ているだけであり、本当の<最終回>はどこか別の場所に配置されてしまったというわけだ。それでは、どのエピソードが本当の<最終回>なのか。
 真っ先に確認したくなるのは、時系列を整理したときに最後に来るエピソードである。丁寧に読み返せば、111話「夢幻小説」がそれにあたることが分かる。歩鳥が自分が生まれなかった世界を訪れた<夢>を思い出そうとするエピソードで、タッツンこと辰野トシ子が冷え性で受験勉強を中断していることとシーサイドがメイド喫茶ではないことから高校3年生の冬が舞台だと判断できるからだ。このエピソードが<最終回>でもおかしくないと私は思う。歩鳥の話から回想パートが128話「嵐とともに去りぬ」の後日談であることが示唆されており、歩鳥の3年間の物語は少なくともバッドエンドではなかったことが分かるからだ。また、回想パートで亀井堂と歩鳥の関係性が重要な役割を果たしており、エピローグとの繋がりも良い。
 しかし、111話が<最終回>だとここで決めるのは聊か短絡的ではないか。それは次の二つの理由からである。一点目は先ほど129話を<最終回>にふさわしくないとしたのと同じ理由だ。例えば127話「至福の店フォーエバー」こそ<最終回>にふさわしいのではないか。『それ町』は歩鳥とタッツンがメイド喫茶シーサイドで働き始めることで幕を開ける。タッツンがバイトを辞める「至福の店フォーエバー」ならば、1話と対応することができる。また、127話は『それ町』屈指の名エピソードである。『それ町』全編通して唯一の見開きページには二人の思い出が散りばめられている。「楽しかったね」と手を取りあう二人。誰もが認める感動回であろう。この127話と比べた時、111話にどれだけ分があるだろうか。しかし、一点目に勝って重要なのは、二点目である。つまり、ここで111話を<最終回>としてしまっては、時系列シャッフルに関して疑問が残るのだ。時系列順にエピソードを並び替えた時に最も後にくるものが自動的に<最終回>なのであれば、時系列シャッフルは111話を読者に探すように促すために存在していたことになる。勿論時系列シャッフルがこれ以上何か別の意味を持たなければならないということはない。また、歩鳥が推理小説を愛読し探偵を目指していることを踏まえれば、このようなパズルが仕掛けられていたとしても驚くに値しない。しかし、本当にそれだけのために、10年間以上時系列シャッフルという足枷を自らはめてきたのだろうか。本当に時系列シャッフルについてこれ以上の解釈ができないものか。
 作品をどのような形で読めばよいかという問題を読者の裁量にゆだねる目的があったのではないか。これがこの問題に対する私の仮説だ。本作をどのように読み進めればよいかという問いに対して、我々は時系列や作者の決めた順番という正解を持たない。本作を読み進める際に時系列に沿って読む必要はない。何しろ作者がそう強いてくるのだ。作者が行った作品の並べ方もあくまで一例に過ぎない。たまたま129話が最終話だったように、時系列順で最も後にくるエピソードがたまたま111番目に描かれたように、目の前に並んでいる『それ町』のエピソードはたまたまその場所に収まっているにすぎない。つまり、我々は本作をどのように読み進めても、あるいはどのように読み返してもよいことになる。裏返せば、我々は本作をどのように読み進め、あるいはどのように読み返すか自分で考えなければならない。『それ町』は読者ひとりひとりのその時々の読み方によってシャッフルされ続ける不思議な構造を持った作品なのだ。
 この構造を踏まえれば、読者が<最終回>を自由に選んでよいことは明らかだろう。読者が自分なりの読み方を大事にしながら<最終回>を選び、それを<最終回>にふさわしいと思う位置に置きながら自分だけの『それ町』を作っていくことができる。編集作業を行うにあたって、111話や127話を<最終回>にしたいのであればそれを最終話にすればいい。紺先輩との関係を主軸に読むなら、11話「猫少年」を冒頭に125話「紺先輩スペシャル」を最終話に持ってきていい。同じく紺先輩との関係を主軸に置いていても、<最終回>は76話「歩く鳥」という人もいよう。さらに言えば、<最終回>が最終話である必要はない。<最終回>である76話の後ろに後日談として125話をつけても構わない。
 ここで足を止めても構わない。しかし、私はせっかくここまで来たのだから、もう一歩踏み出してみたい誘惑にかられる。読者がそう思うならそれが<最終回>であるのであれば、どのエピソードが<最終回>でも構わないだろう。1話から129話まで全て<最終回>といえない回はなくなる(これまで散々けなしてきた129話がどうして<最終回>でないといえようか。本稿の冒頭で129話が最終回であることをどう受け止めればよいのかと問いを立てたがこれがその答えである)。本当の<最終回>はどれかという問いに対して、すべてのエピソードが等しく正解ということだ。ここに至れば、このような疑問が頭を過るはずだ。果たして本当にその問いに取り組まなければならないのか。
 驚いたことに、この問いに否と答えることは作品と向き合う上で消極的な意味を持つわけではない。むしろそう答えたくなることこそがこの作品の肝だと私は考える。ここまで歩いてきた我々はもう<最終回>など選ばなくてよいのだ。全てのエピソードが<最終回>になり得る。もっといえば、1コマ1コマが<最終回>に等しい輝きをもって作品の中に組み込まれている。時系列シャッフルは、このような読み方を読者に提案する仕掛けなのではないか。
 この読み方は、すべての瞬間が平等に尊いという人生観を想起させる。感動に胸をいっぱいにさせている時も、トラブルに巻き込まれて葛藤している時も、親しい人と一緒に過ごす大切な時間も、一人で漫然と過ごしている時でさえ、<最終回>と呼ぶにふさわしい重さを持っている。我々は日常的に時間に重みづけを行い、人生を解釈している(だからこそあの場所で足を止めても構わない)が、その作業の果てで、すべてが光って見える瞬間がやってくるというわけだ。本作の描こうとしているものに辿り着くためには、この人生観まで考慮に入れるのが適当だろう。『それ町』は単なる日常系ギャグ漫画ではない。嵐山歩鳥が歩んだ3年間なのである。(HRK)