鴨川日記

本の紹介を中心に活動しています。

The flower of love fades before love fades

(もうだいぶ前に勉強ついでに書いてみたルネッサンス趣味の詩の習作をメモした紙切れを,今日本棚の整理をしていたらふと見つけてしまった。さして文学的価値などあろうはずも無く[まず今日にあってフェミニズム批評に耐えるものではない],出すべきところもない。とは言え,このまま眠らせてしまって永遠に忘れ去られるのもかわいそうだ。そう言うわけで,インターネットの海に漂流させることにした。英語ができる諸兄は,不明点や間違いがあったら指摘してほしい。)

 

The flower of love fades before love fades;

The nectar of friendship anon turns sour.

Therefore, my soul, fail not to seize the days*1,

And deny me not, when thou'rt a flower.

Time that this way comes is a wickéd thing

And he devours still our loving leisure;

So I would thee thy coyness away fling;

Else, senescence would rob thee of thy pleasure.

Had we forty thousant years to embrace,

They would not, with all their loves' quantity,

Make up the sum of this evanescent space*2,

The fineness of which lies in quality.

      My love, I cuddle thee closely all the more,

      For I know thy frailty's not mine e'ermore.

 

愛の花は愛そのものより先に枯れ

友情という甘露もほどなく饐えてしまう。

だから君は毎日を草花を摘むように大事に生きて

そして花のように美しいいま、拒むこと勿れ。

こちらにやって来る「時」は邪悪な輩で

いつでも二人が愛し合うための時間を貪り食う。

だから、はにかみは今すぐ捨ててほしい

老けがお前から悦楽を奪わぬうちに。

幾世もの間の抱き合う時があろうとも

そしてその愛をみな寄せ集めたとしても

このいまつかの間の愛にはとうてい敵うまい

この愛の素晴らしさは、その本質に宿るのだから。

  恋人よ、わたしがお前を抱きしめるこの腕の力は

  永遠にお前の脆さを我が物とできぬ分、強くなるのです。

 

*1:ラテン語で Carpe diem と言われる伝統を踏襲。訳すると「日を摘め」となる。意味するところは、この瞬間を精一杯楽しめ、ということ。これはホラティウス『歌集』第1巻第11歌に見られる。

*2:9〜11行目にかけて、シェイクスピアハムレット』五幕一場の有名な句 'I loved Ophelia. Fourty thousand brothers / Could not with all their quantity of love / Make up my sum.' を下敷きにしている。

2017年映画ベスト

 私淑する映画ファンの方がブログで「2017年映画ベスト」と題して感想をまとめていらっしゃった。読んでいるうちに、私もやりたくなってしまった。
 作品をどう楽しんだかについて語ることは必然的に自分語りになる。そういうものは書いても仕方のないと思ってきた。如何に作品のために語るかを自分なりに考えてきたつもりだ。しかし、今年は自分語りをしてきた。どうも自分が本来の考えからするとおかしいことをやっていると気付いている。早く折り合いをつけなければならない。一方で、こういう記事は今しか書けないとも思った。後で見返して苦々しく思えるのなら、それでいいのかもしれない。私は好きにする。君らも好きに読んだらいい。
 
1 牯嶺街少年殺人事件

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 2017年のベストは、1991年発表の台湾映画。本作は1960年代初頭の台湾を生きる少年・小四と彼を取り巻く人々を描く作品。小四と各々の人物との関係の数だけストーリーラインが存在するし、多くの登場人物には少年との関係に還元できないだけの奥行きが用意されている。これだけ豊かな脚本を統制するのは職人芸だと感嘆する一方で、自分で冠を被せておいていきなりその衣を剥ぐのもおかしな話だが、映画が終わった後も果たして物語がうまく終わったのやらふわふわしてしまった。端的に言えば、大きな軸である小四と彼の意中の人・小明との関係が他のストーリーラインに埋もれてしまったのだ。大作が故に、逆に全体としておとなしい印象を受けてしまった。

 それでは、どうしてこの作品をベストに据えたのかというと、他のどんな作品でも味わったことのない不思議な体験をしたからだ。本作はよく言われるように、暗闇を多用した画面を特徴としている。本作の冒頭では不良グループが夜の校舎を徘徊するし、雨の夜の場面では暗闇の中で乱闘が行われている。私は劇場でこの作品を鑑賞したのだが、その際、この暗闇が私たちを取り囲む暗闇に接触しこちらへ侵入してくるような気がした。不良たちの諍いを包む緊張感のある暗闇、雨の夜のひんやりと湿気を孕んだ暗闇。それを肌で感じた気がした。そのせいか、映画が終わる頃には、まるで私も彼らと同年代になって一緒にあの時代あの場所を生きているような気がしてくる。彼らにこの上ない親しみを覚えると同時に、旧友の知らない一面を覗き見るような気持ちで画面を見つめていた。「事件」があった時、自分はこういうつもりでその空間にいて、その後それをきっと友達とこう囁き合ったのじゃないかと勝手に空想が膨らむ。映画を観ているというよりも、別の高校生活を生き直す体験だった。この大作の内容を事細かに思い起こすことは難しいけれど、ただあの闇に触れたという感触が体に残っている。
 
2 タンナ

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 今年の新作ベスト。本作は2016年アカデミー賞外国語映画賞で本選選考に残ったが受賞には届かなかった。自身2度目となる受賞を果たしたアスガル・ファルハーディーの新作は代表作『別離』を超える出来栄えではなかったし、受賞が有力視されていた『トニ・エルドマン』も確かに面白くまた監督にとっても最高傑作だっただろうが人物の造形に頼った不格好な映画という印象がぬぐえなかった。そういうこともあり、本作が受賞しなかったのが残念で仕方がない。太平洋に浮かぶタンナ島の事件を伝える古典的でありながら対象に対する高い関心に支えられた傑作。
 私は周到に容易された脚本が好きだ。伏線を丁寧に回収したり、一度ある場面を挟むことで後の展開を自然に見せたりする脚本が好きだ。また、様々な言動や細部の演出に主人公の人柄や状況を見ていくのも好きだ。本作はこれらの点で優れていた。例えば、冒頭では、主人公の妹は母親の言いつけを守らずに窓から飛び出して遊びに加わってしまう。この場面は妹が御転婆な性格であることを教えてくれるだけでなく、彼女が遊びのために家族の注意をきかない場面が後で用意されていることも予感させる。実際、直後の場面で彼女は遊びに夢中になるあまり禁忌の場所に足を踏み入れてしまう場面が用意されている。上手に情報を詰め込んだ場面を上手に組み合わせていることが、本作の魅力だと思う。
 ところで、一つの対象に込める意味を少しずつずらしていくのは物語の定石だが、本作でもその手法がとられている。島民たちはそれぞれ背景とする部族や宗教は異にしているが、大きな山を抱く一つの島に暮らしている点では共通しており山に対して敬意を持っている。山はそうした人々の暮らしのあり方の象徴である。本作はこの山を何度も登場させ、自然の中にその場面に込められた意味を読み込んでいる。私には、山が笑うことは島民たちの暮らしの核が微笑みかけてくれるように見えたし、山の悲しみは島民たちの心の深いところから湧き上がってくるように思えた。そのように常に個々の場面が全体の暮らしや文化と結びついていたことは、島民たちが暮らしのあり方について考えるラストにこの上ない説得力を持たせていたと思う。
 
3 光と血

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 今年『光と血』ほど私の心を揺さぶった映画はなかった。ぼろぼろ泣いた。幸福なはずだった人生の喪失と再生という主題は如何にも私が好きそうだと分かっていたが、自分でもびっくりするくらい涙が出た。残念ながら、本作には色々と疑問を感じなくもない。例えば、編集や演出がだいぶあざとい。終盤ここで泣いてくださいとばかりに序盤の場面を繰り返すところは流石に萎えた。加えて脚本。例えばレイプという設定は(当然描かなければならない理由があるのかもしれないにせよ)ありふれているし、そこからレイプ犯への復讐に人生をささげるようになる光という人物もあまりに極端だと思う。正直傑作と呼ぶことはできないが、泣いたことを弁明するつもりもない。10年後も大好きだと言い張れる映画は、凡百の傑作ではないと思うからだ。
 本作の最大の美点は演者だ。私が出会ってきた日本のインディーズ映画は演者に魅力がないものも少なくなく、中には殆ど棒読みの女優が主演を務めている目も当てられない作品もあった。しかし、本作は演技に熱がこもっている。一生このまま忘れられないだろうと思わされる演技が山のようにある。登場人物たちがそれぞれの問題に真剣に取り組んでいるように見えるということは本作のような主題を扱う上で最も重要なことだと思う。
 眩いばかりの光も忘れられない。ふんわりと空間をつつみこむやわらかい光。静かな暗さの中を割くような白い冷たい光。必ずしも場面に合わせて考えられてもいないようで大味な印象に終わってしまったことは残念だったが、終盤に用意されていたカタルシスに私がまんまと乗せられてしまったのはそこに美しい光を見出したからだと思う。なお、この経験は、私の映画の観方に少なからぬ影響を与えた。単純に光の美しさに興味を持って映画を観るようにもなった。光が空間や物語の統制にどれだけ大きな意味を持つか教えられた。
 
4 ハッピーアワー

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 2015年公開の日本映画。私は本作を観る機会をずっと逃し続けてきた。結果として2年間待った。今年やっと鑑賞の機会を持つことが出来た。本作は4人の女性の友情と愛を描いている。ワークショップの企画から誕生し、主演女優4人が本作以前に演技の経験がないにも関わらず世界的な映画祭で高い評価を受けた。神戸を舞台であることも物語にとって重要だときき、是非関西にいるうちに観たいと思っていた。
 私はかつて『ブルーは熱い色』に、映画は観客の時間のデザインでもあると教えられた。物語の展開の仕方、そこに映し出される人々の様子を通して、観客にカメラの向こうに流れている時間に触れてもらうことが映画鑑賞なのだと思う。『ブルーは熱い色』をはじめケシシュ監督の作品では、物語の内容が作品の持っている時間と密接に結びついていた。本作もその類の作品だと私は思う。連続ドラマのようなゆったりとした時間の中を、独特の抑揚のないしかし統制のきいた会話で刻んでいく。これが本作のリズムだと思う。自分が普段生きているのとは少し違う、なんとなくほっこりさせられるリズムだと感じた。だからこそ、少し非現実的にも思える四人をゆったりとした気持ちで眺めることができた。そういう時間の流れ方の中でそういう関係の築き方の中で生きている人たちがどこかにいるのかもしれないとどこか納得させられてしまっていた。そういう作品を力のある作品と呼ぶのだと私は思う。内容が腑に落ちているわけではないが、どこかすべてが愛おしいと言ってみたくなる。そういう映画体験だった。
 ここで私が作品のリズムに着目してこの映画を愛することはそれほど外れたことだとは思えない。監督にもそのように映画を捉える意識があるようだ。監督はトークイベントの際にそのことに触れていた。第三部の冒頭で小説の朗読が行われる。短編小説が丸々読み上げられるように、監督はここにかなり時間をかけている。その裏で多少の動きはあるにしても、物語の進行自体は殆ど止まってしまう。抑揚を抑えた声でゆったりしたテンポで朗読が行われるので、人によっては眠たいパートだと思う。朗読会に集まった方と小説家役の女優の掛け合いなどはドキュメンタリーを観ているような気分になる。一方で、朗読会の後に打ち上げとして用意されている食事の場では、軽快なテンポで会話が重ねられる。物語の進行という意味でも、複数のストーリーラインがここで交錯する。こちらは如何にも物語パートという印象を受ける。監督が敬愛するカサヴェテスに倣い、作品の中に全く違う時間の流れ方を並べることで、観客に如何にも物語パートに移る打ち上げの場面にすんなりと入ってもらう効果があると説明されていた。
 
5 細い目

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 2007年発表のマレーシア映画。東京国際映画祭をはじめ、数度にわたって特別上映されてきた。今年は監督の遺作『タレンタイム』が公開されたことに合わせて、特別上映された。東南アジア映画に触れたことがなかったので、東京に顔を出した際に覗きにいってみた。『タレンタイム』も悪くはなかったが、『細い目』ほどの作品ではなかったのでこちらをこの位置にいれた。
 古典的な恋愛青春ドラマ、人と人とのふれあいを描くヒューマンドラマを通して、様々なバックグラウンドが錯綜する多民族国家の現状が描かれる。その意味でここに挙がっている作品の中では『タンナ』と近い。登場人物が真剣に生きている様子を優しいまなざしで描いていく。真剣に問題を扱いながらも爽やかさと優しさを失っていないところがすごいと思う。問題設定や国ごとの事情を鑑みると容易に比較はできないが、今年は『ダイアモンド・アイランド』『バンコクナイツ』と東南アジアを舞台にした映画に苦しめられたので、本作が輝いて見えた。家族四人が階段に並ぶ場面は愛おしかったし、二人の恋の行方にもハラハラさせられた。
 
6 タンジェリン

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 本作は東京国際映画祭で既に上映され、Netflixで既に配信されていた。今年はDVDの発売や劇場公開が行われた。トランスジェンダーの娼婦である主人公が刑務所から戻ってくると恋人が浮気をしているという噂を親友にきかされる。恋人に真相をつきとめるためにクリスマスの街を走り回るという筋。iPhoneカメラで撮影が行われたこともあり、躍動感が伝わる作品になっている。
 主人公の一途で不器用な人間関係が素敵だと思う。彼女が恋人を探して走り回り、浮気相手を引きずりまわす場面は、音楽も相まって高ぶる真っすぐな気持ちがよく伝わってくる。本作の見せ場でも、登場人物、特に主人公にこうした真面目さを感じ取ることができることは観客にとっては救いになる。本作で一番盛り上がるのは、登場人物たちが同じ場に集まり互いの秘密や言動を非難しあう場面だ。そこで、全ての人物が真面目にそれに対応しているわけではない。また、そこで垣間見える人々の生活や考えは擁護しがたいものも含まれている。その場面を真剣に観ることができるのも、その場面に素直に傷つくことができるのも、主人公の人柄を知っていることで、この場面の根底には登場人物の真剣さがきっとあるはずだと信じることができるからだと思う。ラストシーンは決して彼女が思い描くハッピーエンドではないだろうが、それでも私は涙を浮かべてしまった。
 
7 そうして私たちはプールに金魚を、

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 自分の育った街のせいか、私は「田舎」あるいは「都会」といったレッテルに敏感に反応する。今でも自分は「田舎」で育ったという自己意識を持っているし、そこに閉塞感や余裕のなさ、マンネリ感のようなマイナスイメージを読み込んでしまっている。この作品は、「田舎」を舞台に、少女たちの閉塞感と小さな反抗を描いた作品だ。オンラインで公開されていたので、何度も観た。出来がいいわけでは無いが、同じ物語に囚われてしまっている私にとって重要な主題だ。正直この主題やそこで行われる人間心理には辟易としていて、こうした作品に反応するように育ちたくもなかったが、分かってしまうのだから仕方がない。気持ちが分かり過ぎるが故に、私はこの作品のよい観客ではなかったと思うほどだ。いつかこの作品のよい観客になれたらと思う。
 本作は「自分の街が狭くて嫌いで、しかし自分はきっとそこから出ていくことはできないのだろう。そしてそれにそれなりの幸せを見出して死んでいくのだろう。まったく嫌になる」というだけの内容で、正直薄い。斜に構えた形で提示される「サービスカット」も、自分たちがしたことに対して話し手が妙に距離をとって語るのも、そうした自分とそのルーツに関わる鬱屈な感情の現れとして読むしかない。結局こうした屈折は自己愛の変形だ。私はきっとどこにも行けないのだと言いつつ、彼女は自分はきっとどこかに行けるはずだと信じている。その方が自分にとって幸せなはずなのに、しかし敢えて自分はここに留まるのだと自分を正当化しつつ逃げている。主人公が涙するラストシーンが証左だ。彼女の息苦しさがその自己愛によるものでしかないことの切なさに私は胸を打たれた。
 
8 ネルー

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 チリの詩人・ネルーダのヨーロッパへの逃走劇を描いた作品。パブロ・ラライン監督といえば、JFKの妻を主人公にした『ジャッキー』も今年公開の作品だが、私は本作の方が好み。
 『ジャッキー』では夫を失った彼女の浮遊するような感覚を表現するために多用されていたジャンプカットが、本作ではネルーダという詩人の気品と対応するだけでなく、観客を翻弄し物語の核心に誘うような効果をあげていると思う。一つの場面で場所を何度も切り替える演出は、面白い一方で、主人公がいる空間それ自体に対する監督の関心があまり高くないことの表れでもある。
 ナタリー・ポートマン頼みの『ジャッキー』よりも、脚本が凝っているのも魅力的だった。中盤で唐突に言葉の上で提示された構想がその後身体を得ていく過程は見事。その過程で観客を引き込み、だいぶあざとい終盤へと一気に駆け抜ける。ここまで書けばわかるようにかなり不格好だが、徐々に自分の中にある脚本の形が書き換えられていくような体験だった。ラストはそれを持ってこられたらイヤだなと序盤から思っていた通りだった。本当に悔しいが、素直にかっこいいと思ってしまった。
 
9 娘よ

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 日本で初めて公開されるパキスタン映画ときいて観に行ったが、思いのほかよくできていた。部族間のトラブルを解決するために、娘を望まぬ相手に嫁がせなければならなくなった母親が娘と一緒に逃走をするロードムービー。『マッドマックス 怒りのデスロード』とよく並べられるといえば、筋書は察しが付く人も多いと思う。
 父親が逃走に気付く場面の部屋に円を描くようなカメラの動かし方で、本作のレベルの高さは察することができた。その後の逃走劇の構成も力を感じた。
 本作は風景の使い方も印象的。一つ一つの場面にパキスタンの自然が溶け込んでいる。物語の核心部が語られる場面には感極まってしまい、今でもこの映画の題名をきくとその場面で主人公が見つめていた川を思い出す。ラストは少し弱いが、実話をもとにしていることを考え合わせれば十分練られたものであることは理解できる。
 
0 メッセージ

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 テッド・チャンの『あなたの人生の物語』の映画化。SF好きの友人は、原作の重要な部分を削り落としていて好みでなかったらしく、この位置に置くのがためらわれる。しかし、私は原作を読んでいない状態で鑑賞しいたく感動した。
 単純に本作の脚本が下敷きにしている人生観に胸を打たれた。彼らが辛いことも楽しいことも含めて生きていこうとする姿に心を掴まれてしまった。それが人生なのだなと妙に納得してしまい、、彼らがそうしたように自分も生きようと映画館を出ながら思った。文字にするとどうも恥ずかしいが思ってしまったものは仕方ない。正直脚本は謎解きゲームを楽しませたいがため余計な部分が多いと思うし、演出もそれが故の過剰さが目立つ。人を選ぶ映画ではあると思う。
 
 以上がベストテン。ちなみに、今年のワーストはダントツで『お嬢さん』。

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 原作『荊の城』を読んでいないので誰の責任かは分からないが、脚本が安っぽすぎて全く面白くない。色本で教育されて育った朝鮮半島の「深窓の令嬢」という下品な設定は如何なる手を尽くしても擁護しがたい。フェミニズムや植民地問題に関心がありますとでも言いたげな演出が目立つが、こういう言い訳めいた映画が一番嫌い。チャヌクお得意のどんでん返しは、もはやあざとさを通り越している。これをやっておけば観客は喜ぶのだろうと考えてやっているようにしか見えず屈辱的。また、彼女たちの初夜を描く場面はあまりに酷くて思わず声をあげて笑ってしまった。自身の代表作『オールド・ボーイ』で用いた近親相姦の場面よりもずっと下品で、この人はまだ下が撮れるのかと本当に驚いた。それでいながら舞台設定や小物、女優などで趣味良さそうに画面を取り繕っているのは、映画監督としてというよりも、人として愚かしいと思う。こういう映画が事もあろうに名のある映画祭に出品され、多くの人の目に触れたこと自体嘆かわしい。この映画を評価する全ての人にこの程度の駄作に騙されないで欲しいとお願いしたいし、監督には一刻も早く引退してほしい。一方で、主演のキム・ミニは来年鑑賞予定のホン・サンスの新作に出演しているのでそちらでの活躍に期待している。
 
 2017年最も印象的だったシーンは、『愚行録』より以下の場面。

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 私は『愚行録』を作品として評価する気はさらさらない。正直ほぼ全編退屈だった。ただ、カメラを見据えての自らの犯行を独白するこの一人芝居には、のめり込むような興奮を覚えた。この後に用意されている、彼女の子供が妻夫木聡演じる兄との間にできた子だと露呈する際のゾクッとするような演技も含め、抗えない迫力がある。私の中で本作は満島ひかりのアイドル映画以外の何物でもなくなってしまった。それくらい力のある女優だと思う。
 なお、この場面と、上でも指摘した兄妹の秘密を踏まえると、なぜ妻夫木演じる雑誌記者が一家惨殺事件の真相に迫る記事に拘ったのかについて、ある邪推がたつ。それは妹が犯したこの犯罪の真犯人を探る中で、妹の名前を挙げた関係者を殺害するためだという説だ。作中では兄と妹の秘密が露呈される場面で、妹は「秘密って大好き」という台詞でそれを暗示している。当然この「秘密」は近親相姦のことだが、ともに親から虐待を受けていた兄妹の密接な関係をここに読み取ることができる。ここで果たして彼は本当に真犯人が妹だと知らなかったのかという疑問が頭をよぎるのだ。この疑問に素直に耳を傾けるのであれば、作中すっぽりと省かれている彼の仕事へのモチベーションの動機に説明がつく。実際、妹の名前を挙げた大学時代の同級生は、彼によって殺害されている。ここで彼が罪を免れているのも、最初から殺すつもりだったと考えれば都合がいい。また、この説明は、私の中では彼の人物造形にも合致しているように思える。さらに言えば、事件の被害者の大学時代の恋人が真犯人を知っているとして連絡をしてくる場面も少しゾッとした気持ちで振り返らねばならないことになる。正直くだらないと思うが、こうした読みがそれほど外れてもいないのではないかと思ってしまう程度の脚本なので免罪されると信じている。
 
 今年は新作を中心に映画に触れてきたが、来年はヨーロッパ映画をもっとよく知るために旧作に挑戦したい。最近はヴィスコンティベルイマンに夢中なので、彼らの映画からぼちぼち観ていきたい。
 
 ところで、このブログは友人とその場のノリで始めたものだが、順調に運営できていると思う。来年はある程度まとまったエッセイ調の記事を書くだけでなく、どちらかといえばそこに辿り着く過程に属するような文章で公開に値するものが作れたらよいと考えている。来年もよろしくお願いします。

ベン・ジョンソンの抒情詩より一編の詩の翻訳と紹介---「シリアに寄せる歌」

シリアに寄せる歌*1

 

ベン・ジョンソン

 

あなたの目だけで私に乾杯をしてください*2
  そうしたら私も、目であなたに祝杯を差し上げます。
それか、杯の中にさえ口づけを残してくれれば
  私にはワインなどいりません。
魂からこみ上げてくる渇きは
  神聖な酒を求めるのですから。
ですが、たとえジュピターの神酒*3をすすることが叶うとしても
  あなたの杯と代えたりなどいたしません。
あなたに近頃、バラのリースをお贈りましたのは
  あなたを讃えようとしたからと言うより、
あなたの元でなら、バラにも枯れることが
  無いという希望を持たせられると思ったからです*4
ですがあなたは、バラに吐息を吐き掛けただけで
  私に送り返されました。
誓って申しましょう、それ以来バラが芳しく育つとき
  それはバラではなく、あなたの香りがするのです*5

 

 原文

www.poetryfoundation.org

 

 ジョニー・キャッシュによる演奏(1:00から始まります)*6。暖かく優しい歌声がとても心地よい。

www.youtube.com

 

 ベン・ジョンソン―人と作品 (1963年)

 

ベン・ジョンソン―人と作品 (1963年)

  

<註と鑑賞>

*1:この有名な抒情詩の詩行はギリシアソフィストであるフィロストラトス(c. 170/172-247/250)による5つの別々の散文の翻訳のパッチワークである。

*2:恋人に乾杯を捧げるというのは伝統である。目で乾杯をすることの意味までいちいち註をつけるのは野暮というものだろう。

*3:ネクターのこと。ギリシア神話の神々が天上で飲む酒で、飲めば不老不死になると言う。ところで原文のJoveはジュピターのことを意味するが、当時のイングランドでは検閲を避けるためGod、つまりヤハウェ、の代わりに使われることも多かった語である

*4:個人的にはバラの花を愛のメタファーとして読みたい

*5:シリアの吐息を受けただけで、愛のバラは彼にとって永遠に育ちつづけるものとなった。だが、彼女の吐息の理由は何だろう? 吐息を掛けて送り返すのは一体どういうことだろうか? ところで、この詩全体からはとても優しく、暖かい印象を受ける。脚韻はa-b-c-b-a-b-c-b-d-e-f-e-d-e-f-eとなっていて、これも優しい響きを持ち耳に心地よい。この詩では男性が女性に思いを伝えているが、女性はずっと沈黙したままだ。その上、彼を愛してはいないようにも思われる。果たしてシリアは、この至上の恋愛詩を聞いたあと、彼の愛を受け入れるのだろうか?

*6:パブなどで広く演奏されることになったこの音楽は18世紀に作曲された。作曲者不詳。

田中美知太郎の伝記

『時代と私』 田中美知太郎 

時代と私

時代と私

 

私は、自伝というものを、教訓に富んではいるがどこか独善的で気まぐれなところのある、よく聞かされる昔語りの類と観念していた。だから、『時代と私』という自伝を読んだ時、そこに全く違う自己の語り方が開かれていることに新鮮な驚きを禁じ得なかった。そしてまた、この点にこそ田中美知太郎という古典学の泰斗の人となりが最もよく現れているように思えたのである。そこで私は、個々のエピソードよりも、むしろそれを語る著者の姿勢というものに注目して、以下この本の魅力をお伝えしていこうと思う。

まず、著者の田中美知太郎について若干の伝記的説明が必要かもしれない。彼は1902年、新潟で生まれる。幼少の頃、家族で上京。開成中学校上智大学予科を経て、京都大学哲学科(専科)で学ぶ。戦中は東京の実家に戻り、大学講師として生計を立てた。戦後、京都大学の教授となる。昭和期を通して活躍した日本を代表する西洋古典学者であり、後進の育成にも熱心であった。その著述活動は多岐にわたるが、中心は古代ギリシアの哲学。主著に『ロゴスとイデア』、『ソクラテス』、『ツキュディデスの場合』などがある。保守派の論客としても有名であり、長年に渡り、文芸春秋の巻頭随筆を担当した。

自伝の紹介をするのに、これ以上の伝記的な説明は無用であろう。詳細は直接読んでいただくことにして、さっそくここからは、本題である田中独特の「自己の語り方」というものに迫っていこう。その特徴はすでに序章「はじめに一言」において顕著にあらわれている。ここで田中はまず、「この時代におけるわたし自身の思想的経験というようなものを語る」[i]という、自伝の執筆に際して自らに与えられた課題自体に批判の目を向ける。というのも、田中に言わせれば、「いかなる個人の生涯も、それが直ちに歴史と一つになるようなことはない」[ii]のであり、ユダヤ思想が浸透する以前においては「自分を時代のなかにおいて考えるというのは、決して自明のことではなかった」[iii]からである。これは彼が歴史主義と呼ぶところのもの、即ち万物を時間化(流動化)しようとする傾向に対する批判であり、序章全体はその目的のために捧げられていると言っても過言ではない。通俗化された歴史主義、あるいは凡歴史主義というものに対する抽象度の高いその批判をここで詳述することは本稿の目的にとってあまり重要ではないだろう。しかし、私たちにとっては、なぜ田中が自伝の序章の大部分をこのような批判に割いたのか、という点が興味深い問題となってくる。その背景としては、彼自身言っているように、時代が個人を包摂するような仕方で自伝を書く、という、おそらく出版会社側から提示されたであろう要請に対する違和感があったことは疑いを容れない。しかしこれをもう少し、積極的な仕方で考えてみることもできるのではないだろうか。つまり、歴史主義批判を通して彼は、自らの自己の語り方に制限を与えるとともに、その語り方に一定の方向性を与えているのだとは考えられないだろうか。個人が時代に還元されないというのは、自己を語るという行為に即して考えるなら、時代を自らの専有物にしないということでもある。もっと砕けた言い方をするなら、「あの頃は、、、だった」という昔語りの独断を排するということだろう。それによって、自らの体験を時代の代表とする傲慢を避けるともに、時代に還元されない個人としての田中美知太郎を語りうる可能性が開ける。要するに、歴史主義批判は著者自身の自己の語り方の表明であるわけだ。時代と個人の相克を、一方が他方に還元されることのないその複雑な関係性を描き出そうという意志表示であるわけだ。こう考えてみると、『時代と私』という自伝の表題は実に含蓄に富む、考え抜かれたものに思えてくる。これは、自己を語るにあたって、その語り方にかくも意識的で用心深かった人物の自伝なのである。

さて、ここまでくると、どうしても続きが気になってくるのではないだろうか。「このような看板を掲げておいて、この人は一体どんな風に自分の人生を語るのだろう?」と。ここからは、本稿の主題であるこの点を詳しく見ていこう。

まず注目に値するのは、自伝の諸方で多数の史料が引用されていることである。回想録、日記、研究書、年表とその内容は多岐に渡り、執筆者という点でみても十名ほどの名を見つけることができる。試みにその一部を挙げてみると、西田幾多郎波多野精一三木清、戸坂潤、高坂正顕など、当時のアカデミズムを代表する錚々たる顔ぶれである。これら田中と交際のあった学者らの日記、手紙が引用の大部分を占めるのであるが、それ以外のものとして、永井荷風の日記が戦時下の状況を的確に描写したものとして度々引用されていることも興味深い。変り種としては、隣家の婦人が田中の妻に宛てた手紙というのもある。これは田中が東京空襲で大やけどを負い人事不省となった際、主人の急を知らせるべく疎開先の妻のもとに送られたものである。このように田中は複数の史料を駆使して、自らの生きた時代、そして彼自身がその時々に感じていたことを描き出して見せる。そこにおいて、田中自身の記憶や記録は特権化されることなく、あくまで一史料として扱われている。もちろん、彼自身の日記や研究ノートは最も引用頻度の高い主要史料であり、時として自身の記憶のみを頼りに過去を再構成している箇所もある。しかし、田中の語りには自らの専断を避けようとする抑制が働いていて、それによって全体としては、自伝でありながらどこか他人が書いたかのような厳密で客観的なものとなっているのだ。といってもそれは無味乾燥であることを意味しない。むしろ私たちは田中美知太郎という古典学者の、それ自体で既に強烈な個性を放っている生涯を、田中美知太郎という、これまた個性的かつ博覧強記で抜け目のない敏腕伝記作家の目を通して見るという恩恵に浴しているのだというべきであろう。一つ具体的なエピソードを抜き出してみよう。舞台は1925年の京都、ある哲学茶話会での一幕である。田中はまず鹿野治助という、同時期に京大で学んだ人物の記録を引用する。

「談話が終って質疑応答となったが、その中でいまはなき木村素衛さんが何か質問をした。すると例の絹がすりの学生が横から口を出して、『そんなふうに考えるからプラトンがわからないのだ』とたしなめた。・・・・・詳しいことは忘れたが、絹がすりの小僧にいわば道場破りをされたようなものではなかったろうか。」[iv]

ここで言われている「絹がすりの学生」こそ、当時23歳だった田中美知太郎のことである。田中はこの引用に続けて、鹿野の記述では自分が「少しばかり颯爽とした恰好になりすぎている」[v]として、当時の自らの研究ノートから、同じ出来事について書いたものを引用する。そこには鹿野の記述とは対照的に、暗く鬱々とした以下のような反省と自己批判の言葉が並んでいる。

「ああ何という滑稽であろう。自分は夢中になって喋り、夢中になって威張っていた。会話の中心人物というような道化役を何故私は演じたか。・・・・・多数に対して私は二通にしか振舞えない。注目をさけて片隅に沈黙するか、傍若無人に一直線に自分のしたいことをするか。-すなわち、やはり他人の注目を無視するという一種羞恥心をごまかす仕方」[vi]

このように田中は自他の記録を併用することによって、一定の距離を保ちつつ当時の状況とその時の自らの心理を克明に描き出している。このようなやり方は、自伝の序章を個人と時代の関係性という問題の考察(例の歴史主義批判)に捧げるほどに、自己の語り方に意識的で用心深かった人物に相応しいものではないだろうか。序章のやや抽象的な論と、二章以下の具体的な記述とは納得のいく形で結びついているわけだ。しかし、それに続く箇所では、「若い時代には自分自身の既成事実というものが未だ少い」[vii]、そのため「半ば夢中で勉強しながら、それにどういう見こみがあるのか全くわからず、いつも不安な状態にあった」[viii]のだろうと当時の自分を分析している。青年期特有の不安について語る著者のまなざしに、私たちは何か親心に似た暖かさも感じることができるのではないだろうか。それによって、本書は回想が陥りがちな過度の恣意性を免れるとともに、悪しき意味での学問的な無味乾燥とも無縁のものとなっているのだ。

 最後にもう一つ、どうしても考察しておきたい点がある。そのために、まずこれまでの話の道筋を思い出してみよう。私たちは、自伝の序章から話をはじめた。序章では、歴史主義批判に主眼が置かれているという点である。それは、個人を時代という枠組みの中だけで考えてしまう傾向に対する批判であった。それに対し、個人は時代に生きつつも、完全に時代的制約に飲み込まれてしまうことはない、という点を田中は繰り返し力説していたのである。そこで、このような主張が序章の大部分を使ってなされているのはなぜかと問い、私たちはそこに田中なりの「自己の語り方」が宣言されているのではないかと考えた。だとすると、自己について具体的な話を始める前に自己の語り方を規定しているのだから、田中は自己の語り方についてかなり意識的な人だということになる。というわけで、かくも自伝を書くということに対して自覚的だった人は、一体どんな風に自己を語ったのか、という点が私たちの興味を引いたのである。その後の分析で、その自覚と彼の自己の語り方との間に納得のいく連関があるということは、多少なりとも明らかになったものと思う。しかし、ここで筆をおくとすれば、一つ大きな疑問が残ったままになってしまう。その疑問というのは、彼の「自己の語り方宣言」の内容、つまり時代と個人との関係についての主張に関するものである。即ち田中は、個人を時代に還元してしまう風潮に対して断固として否を突き付け、個人は時代に還元されえない複雑さを持っているのだとした。それでは、自伝の個々の記述の中では、個人である田中美知太郎と彼の生きてきた時代とはどのような関係にあるものとして描かれているのだろうか。まずは自伝の諸方に引用されている田中自身の当時の日記を見てみよう。

「不愉快な緊張感と虚脱感との交差から仲々解放されないのには弱る。午前、テアイテトス訳にかかる。午後、散歩少し。夜、入浴」[ix]とあるのは、1936年3月2日の記述である。「不愉快な緊張感と虚脱感」というのは、直前に起きた二・二六事件により田中が大きな精神的ダメージを受けたことを示している。一方、「テアイテトス」とあるのは彼が大学卒業以来10年以上にわたって続けてきたプラトンの対話編『テアイテトス』の訳業のことである。1939年9月2日の記事は第二次世界大戦勃発の翌日に書かれたものだ。「欧州不安気になる。ここ二年間の重圧に堪えて来た心。またこれからもっと大きな重圧に堪えて、自分の精神の自由を守らねばならぬ。それは絶望的な努力かも知れぬ。・・・」[x]その一か月ほど後の10月11日の記事には「現実の中から思想が生まれてくる?否、現実との距離に於いてのみ思想は生まれてくる。・・・」[xi]とかなり激しい調子で書かれている。その7か月後、1940年5月12日になると、「自分の住む国家社会が自分の道徳感を満足させない方向に動いて行くこと、その離反ほど悲しいことはない。・・・」とある。このように、時局が自らの予期に反してあらぬ方向に展開していくことに対するもどかしさと苦悩が当時の日記からありありと浮かび上がってくる。と同時に、彼にとって何よりも重要であった学問をその時代状況の中でいかに守り抜くかということが切実な問題として意識されることになるのだ。こうした時代との不断の緊張関係の中にあり、時代に迎合できない自らの在り方に生きづらさを感じつつも、田中はこの時期重要な論文を数多く発表する。時代との摩擦、軋轢がかえって精神生活の充実をもたらしたのではないかと著者自身は自己分析している。この間の事情を描いた自伝第十二章のタイトルが「最悪にして最上の時代」となっているのは、そのためであろう。では彼自身は当時のこのような自己と時代との関係をどのように捉えているのだろうか。少し長いが、自伝中の考察を二つほど紹介しておこう。

二・二六事件の非道と破壊的効果を述べた後で、

「わたしのささやかな仕事は、わずかでも知的努力の蓄積と創造の仕事だった。建設には長年月を必要とするが、戦争や内乱の破壊的仕事は、短期間のうちのこれを無にしてしまうのである。」[xii]

また1941-1942年の状況を描いた第十三章の終りに近いところでは

「人間の生活というものは、個人の場合にしても、社会全体について見ても、驚くほど複雑多様だと思われるのである。・・・そういう多様性は、戦争という特別の事態、・・・、外部から強い圧力がかけられ、それによってわれわれの生活はひどく圧縮されるわけだけれども、人間の多様性というものが破壊され、まったく単一化されてしまうということは、そう簡単には出来ないのではないか。」

個人は時代の奴隷ではないという、序章で繰り返しなされた主張は、戦争という異常事態を肌身で経験した田中自身の実感であるとともに、彼の地道な学問の営みを支えた思想であり、また時代に屈せずに生きてきたという自負の表明でもある、ということだろう。『時代と私』を通して、私たちは時代と個性というものが一人の人間の生涯において交錯し縺れ合う様を具に見ることになる。これは時代を個人に、或は個人を時代に従属させようとする安直な一元論に対する反証であると同時に、困難な時代状況に耐えて、自己の本分を守り通した著者の思想の書でもある。

 

[i] 田中美知太郎『時代と私』(新装版)文藝春秋1984年、p20

[ii] 同書P9

[iii] 同書P13

[iv] 同書P191-192

[v] 同書P192

[vi] 同書P192

[vii] 同書P194

[viii] 同書P195

[ix] 同書P284

[x] 同書P299

[xi] 同書P317

[xii] 同書P295

『1925』に愛をこめて

 
 本稿は「初音ミク」10周年を記念して企画されたものである。本稿の元となるアイデアSPQRとの会話の中で生まれた。SPQR独自のアイデアに基づく箇所については可能な限り文中で指摘することにする。同様に私独自のアイデアである場合にはそれを明記する。
 なお、「1925 歌詞 解釈」「1925 解釈」で検索すると、1925年という年号に拘った解釈が散見される。中には大正時代というコンテクストの中で歌詞を解釈しようと試み、歌詞中の「法律」を「治安維持法」と解するものもあった。当然解釈は自由に行われるべきであるし、これらを全くの悪手だと決めつけることはできない。しかし、同曲の題名が投稿の直前まで「Emi」であったこと(作者ブログ 2009年10月09日の記事より)などを踏まえると、1925年という年号にどこまで拘って良いか立ち止まって考えてみる余地はあるだろう。そのことなしで本稿が果たすべき目的を達成することができるという理由で、我々は年号に着目しない立場をとった。
 
 
 2007年に「初音ミク」が発売されて以降、VOCALOIDを用いたオリジナル楽曲を動画サイトに投稿することが盛んになった。そうした楽曲のなかに、『1925』という題名のものがある。

 
 
 この曲の最大の魅力は、言葉を弄ぶような歌詞だ。例えば、一番サビを見てみよう。
買えないものなどないのです
転じて言えば何物にも
値段をつけて売るのです
尊徳の感情はないの

 「買えないものなどないのです」と強気に出た後で、すぐに「転じて言えば何物にも値段をつけて売るのです」と意味をズラしてしまう。『1925』の歌い手(以下、”1925”。以下で性別を女性としたのは、同動画に用いられたバスガールのイラスト及びその二次創作から、本作の歌い手を女性とすることが一般的だからだ)にとって「買えないものなどない」ことは、”1925” が「何物にも値段をつけて売る」ことを必ずしも意味しない。しかし、その両者を「転じて言えば」と等号関係で継ぐことで、前者の意味を後者に合わせて遡及的に読み変えることを聴き手に要求している。これが私の言うズラしである。SPQRの指摘では、前者の主語が「I」であるのに対して、後者の主語が「We」であることにより、このズレが生じている。そして、その後には「尊徳の感情」と「損得の勘定」の掛詞を添える。この箇所を見るだけでも、如何に技巧を凝らした言葉遊びで満ちた歌詞か分かってもらえるだろう。

 
 
 こうした言葉の使い方は、軽やかな印象を与える。それは内容についても言える。「尊徳の感情はない」のだから、取引される対象を大切に扱うことはない。損得の勘定もない彼女のことだから、その取引も気の向くままに行うのだろう。
 このような歌詞から想像される ”1925” は、軽薄な人間関係を生きる人物と言えるだろう。2番サビでも同様の人物像が浮かび上がる。
飽きたらガムを捨てるように
新たな恋を探す道理
パズルの凸凹意外にも
誰とでもハマるようだ

 一つの恋を終えても、気に病むことなくすぐに次の相手を探す。そして、その相手が誰であろうと構わない。このような恋愛の仕方は、先ほどの「取引」に対する彼女の態度とうまく対応する。「損得の勘定」がないからこそ「誰とでもハマる」が、「尊徳の感情」がないからこそ「ガムを捨てるように」相手を見限ることができる。ここまで来ると、どうやら「何物」には心や行動も含まれるようだということに気が付く。彼女は相手が代価としてくれるものに対応して、少なくとも恋人ならこうするだろうという行動をするのだろう。

 曲の最後に置かれた最終サビでは、直接的に彼女にとって「アイ」とは何かという問題が扱われている。
「アイ」とはなんぞと問われれば
それは「ワタシ」と答えようぞ
ひび割れしにくいだけなので、
ダイヤなどいらないのです

 この問い自体が「アイ」と「I」をかけた言葉遊びになっている。後者でとった場合「ワタシ」という回答は同語反復によるはぐらかしだが、前者でとった場合彼女なりに回答を行っていることになる。ここでは上で見た彼女に関するイメージを引き継ぐ形で、愛とは「ワタシ」のことであるとの主張を、「ワタシ」がしていることは愛とは何かを体現していると読むことを提案する。このように読むと最終サビを、彼女のそれとは異質な恋愛、すなわち特定の誰かを求める恋愛関係に対する拒絶と意味づけることができる。この問答に続く部分で、彼女は「ダイヤ」(結婚指輪 など)を「ひび割れしにくいだけ」と切り捨てている。このとき「ダイヤ」とともに「ひび割れしにくいだけ」とされているのは当然彼女のしているものとは違うとした恋愛だ。彼女のしていることよりも安定的に続くだけであるとして、特定の誰かとの恋愛関係を拒んでいるのだ。このように、彼女を軽薄な人間関係を生きる人物とすることは、歌詞を眺めてみたときに説得力がないわけではない。

 本稿の目的は、上に述べたものとは違った ”1925” イメージを提示し、それが歌詞と照らし合わせても説得力があると示すことである。また、その過程で、以上のような ”1925” イメージが如何にして作り上げられているかについても明らかにする。

 

 
 M.クンデラに『存在の耐えられない軽さ』という作品がある。
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

 この節では、この小説について論じた小野紀明『西洋政治思想史講義』終章「存在の耐えられない軽さ?」を紹介し、その内容を踏まえて次節で『1925』の解釈に戻ることにしたい。

西洋政治思想史講義――精神史的考察

西洋政治思想史講義――精神史的考察

 

 クンデラはこの小説を始めるにあたって「そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?」と問いかける。

 ここで無理は承知で小野の説明を噛み砕き、「重さ」と「軽さ」について整理しておこう。「重さ/軽さ」の二項対立は、二項対立が「ある/ない」という終局的な二項対立と重ね合わせられる(この狭義の二項対立を<重さ/軽さ>とする)。ここで二項対立が「ある/ない」とはそれぞれどのような状況かが問題になる。この「ある/ない」は「本質/虚偽」としても同じことだ。ある事柄についてその本質や本当の意味を問うとき、我々は既に二項対立を作っている。「本質/虚偽」が存在しないのであれば、物事の本質とは何か?と問うこと、つまり、何が本質で何が虚偽なのかを問うことは意味のない営みだからだ。従って、二項対立が「ある」状態=<重さ>においてこのような問いは意味を成し、二項対立が「ない」状態=<軽さ>においては意味を持たないことになる。
 物語の中で、我々はこの第一義的な<重さ/軽さ>を生き方に関する「重さ/軽さ」へと読み替えていく。「軽い」人生において、我々は生まれてこなかったも同然である。初めから人生の意味を問う必要が欠落しているのだから、我々は自由奔放に生きることができる。本作では、このような生き方はサビナに代表されている。彼女にとって、生きることとは他者の前で何かしらの役割を演じ続けることであり、真実/演技という二項対立を持たない彼女はその状況を素直に楽しんでいる。それゆえ彼女は自由なのだ。一方で、「重い」人生では、我々は二項対立から逃れることができない。本作ではテレザがこれを代表しているが、彼女は自分の顔を眺めることで身体(現象)に心(本質)が現れていることを確認しようとする。テレザは「本質/現象(虚偽)」の二項対立を「心/身体」に重ね、真に存在する自己という仮想に囚われているのだ。
 この小説の主人公はトマーシュという男性だ。彼はサビナに惹かれ、享楽的に生きようとしている。しかし、最終的にはテレザとの愛に命を落とす。重荷から解放されて「軽さ」を生きるためには、サビナのような強さが必要であった。トマーシュにはそれが欠落していたので、「軽さ」に惹かれつつも「重さ」への郷愁を卒業できなかったのだ。小野がトマーシュにこそ魅力を感じるように、また「どちらを選ぶべきか」という問いで始めた物語に作家が愛の死という結末を用意したように、この弱さは必ずしも否定的な意味を持たない。「重さ」とそれに伴う弱さは、もっと言えば「重さ」と「軽さ」の間で懊悩することは、自己意識(本当の自分、他者との差異と言い換えてもよい)に囚われてしまった人間の宿命なのかもしれない。
 
 
 これを踏まえて『1925』に戻ろう。先ほど ”1925” の恋愛観として想定した考えは、ちょうど「軽さ」に対応するかのようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。我々に提示されているのが言葉である以上、それを素直に受け取ることは時に危険だ。
 『存在の耐えられない軽さ』を用いて我々が確認したことによれば、「軽さ」のもとに生きているのであれば、「愛」の本質を問うことに意味を見出すことができないはずだ。しかし、先ほど見た通り、「アイ」とは何ぞという問いに対し彼女はそれは「ワタシ」と回答を行っている。これは、その問いが前提としている二項対立(真実の愛/虚偽の愛)に立っていなければできないことだ。彼女は特定の誰かを求める恋愛関係と自らのしている行為を二項対立的に捉えて、それに虚偽の愛/真実の愛という二項対立を重ねていたのだ。私は次に挙げる1番Aメロの歌詞も同種の証左だと考える。
繰り返す問答 答えなら無用
嫌い、嫌い 縛らないで

 彼女は、恋人が繰り返す問い(例えば「本当に僕のことを愛しているのか?」)をはっきり束縛だと感じており、否定的な感情で突っぱねることで、その問いに回答することを無理矢理回避しようとしている。つまり、彼女は決して「軽さ」に対応する人物ではない。こうして浮かび上がる ”1925” 像とは、「重さ」から逃れられない女性だ。

 それでは彼女はどうして、そしてどのようにして「軽い」人物を演じているのだろうか。この問いに答えることは本稿の目的を達成する上で重要だ。上に挙げた1番Aメロの歌詞にその理由と仕組み見ていくことにしよう。
 先ほど私は「繰り返す問答」を恋人からの呼びかけとして説明した。一方で、彼女が自らに突き付けているとも読める。つまり、「私は相手のことを本当に愛しているのか?相手は私のことを本当に愛してくれているのか?」と自分の中で問い返し続けているのだ。この問いの反復が彼女を傷つけるものであることは我々の経験から了解可能であろう。そこで彼女は自分自身の「重さ」から逃避し「軽さ」の幻想に身をゆだねることで身を守ろうとする。これが彼女が「軽い」人物を演じる理由だ。
 さらに、この「繰り返す問答」に関する2つの読みを接合することで、彼女が「軽さ」を演出する手法が見えてくる。つまり、彼女は「軽さ」と完全に一致しようとして、自分の中にある「重さ」を自分ではないもの(例えば自分の恋人、自分とは関係のないカップル)に押し付けてしまうのだ。
 このように、自らの「重さ」に耐えかねた彼女は、「軽さ」へと逃避して「重さ」から身を守ろうとする。そして、その試みを完全なものにするために、「重さ」を外部に押し付けてしまう。これはこの曲の中で、特にAメロ、Bメロ部分に頻出する構造である。例えば、2番Bメロの次の歌詞にもこれを見ることができる。
間違い探しのペアルック
あれとこれとそれとどれ

 「ペアルック」は特定の相手を前提としている点で、「重い」愛を連想させる。特定の相手に限定された恋愛関係とは、特定の相手に本質を、それ以外の恋愛対象に虚偽を重ねる点で、必然的に二項対立的なものであるからだ。「ペアルック」をしているのが彼女ではないとするならば、彼女は傍観者である。互いに相手に本質を見ているカップルに向かって綻びを指摘していくことは、彼らが行っているその想定に揺さぶりをかける行為である。しかし、「ペアルック」をしているのは彼女である。彼女が「間違い探し」を始めてしまうのは、相手と本質を重ね合わせてよいのか不安に思っているからだ。つまり、この部分は上で見たのと同じように、自分自身に対して「私は相手のことを本当に愛しているのか?相手は私のことを本当に愛してくれているのか?」と問うている場面である。この部分をあたかも「軽く」読むことができるのは、自分自身の中にある「重さ」を自分ではない誰かに押し付けているからである。そして、「軽さ」に逃避するように、2番サビを軽やかに歌い上げるのだ。このように、我々が最初想定した軽薄な ”1925” イメージは彼女が作り上げた鎧であることがわかる。

 
 
 本稿の目的は、”1925” が持つ軽いイメージを崩すことであった。これは、ここまででほぼ達成されたように思われる。以下では、「重い」 ”1925” 像を採用しながら、部分的に解釈を行ってみたい。SPQRとの会話の中で、以下の箇所をどう読むか最後まで紛糾した。
遮るものをあげるならば
心と道徳、法律か
お高い壁も遠回りを
したならば ほら
こんにちは

  ここで「遮るもの」として挙げられているものは全て二項対立に関係する。「心」はテレザにもみられた「心/身体」の二項対立を想起させるし、道徳は「道徳/不道徳」、法律も「合法/違法」に繋がる。この点、これら「お高い壁」が破壊されるのではなく、「遠回り」によって回避されることは、彼女が「重さ」からは決して自由になることができないことと整合性がとれる。ここまでくれば、「重さ」がうむ痛みを回避することで、つまり「軽さ」を装うことで初めて他者と出会うことができると読むのが素直だろう。

 この箇所でもう一つ大切なのは、「遠回りをしたならば」と言っているのが彼女自身であることだ。彼女は自らが「重さ」を抱えており、それから逃れることはできないのだと自覚していることが読み取れる。
 
 
 最後に、もう一度次の箇所を取り上げよう。
「アイ」とはなんぞと問われれば
それは「ワタシ」と答えようぞ
ひび割れしにくいだけなので
ダイヤなどいらないのです
 先ほど私はこの前半部分を「ワタシ」のしていることが「愛」とは何かを体現していると読むことを提案した。当然この箇所は別の読み方をすることもできる。SPQRは、彼女の「愛」の対象が「I」である、つまり彼女の自己愛を歌った部分だと読む。「愛とは何か」という問いは、決して抽象的な愛の定義を問うだけではない。「あなたにとって愛は誰に対する感情か」という問いと読み替えることも許されよう。また、「愛」から「I」を連想していることも、愛を自分と密接に関係のあるものと考えている証拠になる。
 また、SPQRは「ダイヤ」から彼女が「ひび割れ」を連想したことに着目する。彼女が「ダイヤ」と「ひび割れ」を結びつけたのは、「ダイヤ」の他に何かひび割れしやすいものが存在するからだろう。「ダイヤ」が「重い」愛を象徴するものだと思い起こすとき、彼女はひび割れしやすくても良いから誰かに愛されたがっていたのだと気付けるはずだ。
 ここで私は二番サビを思い出したい。
飽きたらガムを捨てるように
新たな恋を探す道理 

 目の前にある恋に飽きているはずなのに新たに恋を探し続けている。ひょっとしたら飽きてしまったというのも自分を守るための嘘で、実際は彼女が飽きられ捨てられたのかもしれないのに。次はきっと本当に愛してもらえるはずと信じて。SPQRが自己愛を歌った箇所とした歌詞を、私は「愛とは私に向けられるはずのもの、私が本当に求めているもの」と読みたい。同じ愛=「重さ」から逃れることができない存在として、私は彼女に共感する。「軽さ」への熱狂は、相手への愛なしにただダイヤを贈ることに近い。「重さ」に寄り添う本稿なら少しは彼女の役に立つと思うのだが、果たして彼女は受け取ってくれるだろうか。

TVアニメ『絶園のテンペスト』の考察

 

                                All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
Shakespeare, As You Like It, II. vii. 139-40

       すべて世界は舞台であって、
男も女のみな、役者にすぎぬのだ。
シェイクスピア『おきに召すまま』拙訳

  

 

1.シェイクスピアと世界劇場

 

絶園のテンペスト』にはシェイクスピアからの引用、シェイクスピアへのアリュージョンが多い。作中のセリフには『ハムレット』のほか、タイトルにもある『テンペストからしばしば引用されるし、また直接の引用でなくとも、孤島の魔法使いをはじめ、作中の様々なモチーフも上記の二冊に負うているものが数多くある。いわゆる「御柱」が消失した際、空に舞う多くのアゲハ蝶を見た吉野の真広への言葉—―「胡蝶の夢とも言うね。この世は夢かうつつかわからない。これまで俺たちがみてきた世界は都合のいい偽物だって言っているのかもしれない」―—このとても東洋的な趣のするセリフさえ、シェイクスピアの『テンペスト』の有名なセリフに通じるところがある。

 

                                    These our actors,
As I foretold you, were all spirits and
Are melted into air, into air;
And like the baseless fabric of this vision,
The solemn temples, the great globe itself,
Yea, all which it inherit, shall dissolve
And, like this insubstantial pageant faded,
Leave not a rack behind. We are such stuff
As dreams are made on, and our little life
Is rounded with a sleep.
Shakespeare, Tempest, IV. i. 150-9

              あの役者たちは、
前にも言っておいたようにみんな妖精なのだ、
それで大気の中に溶けてしまった、大気の中に、みんな。
だがなあ、なんの土台もないままの幻想の世界と同じに、
雲を戴く尖塔も、豪奢な王宮も
荘厳な寺院も、そうとも、巨大な地球そのもの、
この地球上にあるすべてのもの、それはみんな消え失せてしまう。
実体のない余興が消え失せたように、
あとには雲の一筋も残りはしない。私たちは
夢と同じものでできている、ほんの束の間の一生は
眠りで閉じられる。
シェイクスピア『あらし』大場健治訳(研究社)

 

真広と吉野が、彼らのいた「始まりの木」に支配されていた世界を造られたニセモノかもしれないと言っていたその言葉ように、(彼ら二人がそれを本気で信じていないところにアイロニーがあるのは言うまでもないが、)『テンペスト』における上のプロスペローのセリフも、劇中劇や彼のいる世界が劇というニセモノである事を『テンペスト』という舞台の観客に意識させる。(『テンペスト』においてはプロスペローのセリフは劇中劇(劇の中で演じられる劇)の直後のものとなっていて、プロスペローの言う「役者たち」や「なんの土台もないままの幻影の世界」がすなわち劇中劇のことを意味している。)さて、この劇中劇の効果とは観客に「劇中劇というニセモノを見ている劇の世界もニセモノなら、劇というニセモノを見ている自分たちもニセモノなのかもしれない」と思わせるところにもあるだろう。つまり、私たちが生きている世界は劇場で、私たち自身役者であるかもしれないのだ。この考えはラテン語でtheatrum mundi(世界劇場)というもので、シェイクスピアが生きたエリザベス朝における一つの世界のとらえ方であった。

 

そしてこの作品『絶園のテンペスト』は、劇中劇の手法を効果的に用いたという意味でシェイクスピアの末裔であるといえる。「始まりの木」に支配されていた世界は、二人が「都合のいい偽物」かもしれないという通り、一種の劇中劇的世界となっているからだ。このこと詳しく見てみよう。絶園の魔法使いであった愛花は、「倒されるために存在する神」である「始まりの木」の司る「理(ことわり)」のためにーー真広と吉野を葉風に会わせ、「始まりの木」を倒すように行動させるためにーー死を選んだ。彼女は言う、「私は始まりの木を倒すのが使命の絶園の魔法使い。倒す道を選ぶために私の死が必要なら、自ら死を選ぶことは理屈に合っている」と。彼女の行動原理はまさに、「始まりの木」を倒すための「理」という台本の通りに絶園の魔法使いを生きて(そして死んで)いくことであった。つまり彼女は、役者であると同時に舞台監督としての役割を担っていたのである。だからこそ、最期に残したビデオレターで「舞台上の役者は、シナリオを無視して勝手に動くわけにはいきません。美しく退場してこそ、役目を果たせたといえます」と言うのである。それに対して「始まりの木」が無くなった後、劇中劇の台本を演出し、自らも役者として生きた愛花の墓を前に真広は語りかける。「お前にとって人生は誰かに決められたシナリオ通り演じ、その通り終わらせるもの。だから、シェイクスピアのセリフをやたら口にしてたんだな。. . . 誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ」と。しかし、かく言う真広のあり方もアニメーターが絵を描き、そして台本の通り声優が演じている劇にすぎないのは明白である。視聴者の私たちは、劇中劇構造をもつアニメの視聴者なのだ。分かりやすいように括弧を用いて包摂関係を表すと、【≪[劇中劇]を観ているアニメ≫を観る視聴者】という立場にいるのである。そしてもちろんこの構造は、劇中劇というニセモノを見ているアニメの世界もニセモノなら、アニメというニセモノの世界を見ている自分たちの世界もニセモノなのかもしれない、と思わせる。つまり、シェイクスピア同様、私たち視聴者に対し、あなたたちの人生も演劇なのではないか、と問いかける構造になっているのだ。

 

2.運命、そして愛とは?

 

絶園のテンペスト』ではこの世界劇場の構造を用いて、運命(とその対極にある自由意志)というテーマを論じているが、この観点からキーとなるのは愛花である。それは彼女が単に劇中劇にきれいに収まる人物ではなく、むしろ『絶園のテンペスト』において最もメタな視点を持ち合わせた、世界劇場における運命を最も意識していた人物であるからだ。彼女は葉風に向かって、自分たちをプロスペローに言葉や知識を教わった奴隷のキャリバンに例えて言う。「わたしたちも同じです。二つの木を送り込んだ連中に、少しばかり特別な知識や力を与えられはしても、結局はその奴隷にすぎません。. . . 彼らの望むようにすれば、とりあえず幸せに終わるんですから」と。すなわち彼女は、彼女ら登場人物の「始まりの木」を倒すための行為は、アニメ制作者という「二つの木を送り込んだ連中」が作り上げた「理が働いている、導かれた運命」に支配された物語のなかの自由意志を持たない「奴隷」の行為であると仄めかしているのである。そして突き詰めれば、物語の中の登場人物が作者の意思/シナリオという運命に縛られ、その意味で自由意志を持たないという事実は、救いようもなく正しい。ゆえに真広が愛花に「誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ。俺は誰かの舞台劇をなぞるみたいな結末はつけねえ」というとき、彼はアニメ登場人物としては持っているはずのありえない自由意志を信じていることになる。もちろんそれを視聴者が見ているのであるが、この劇中劇の構造を先ほどのように括弧を用いて示すと【≪[自由意志を持たぬと悟っている愛花]を見ている、実は自由意志を持っていないのに持っていると信じている真広≫を見ている視聴者】という風にあらわされる。そしてもちろん、自由意志を持たないにもかかわらず持つと信じている真広の姿は、視聴者も自らを重ねることになるであろう。私たちは普段自由意志を無根拠に信じているが、果たして私たちはそれを持ちえるのか、と。

 

このように『絶園のテンペスト』では運命(とその対極にある自由意志)が大きなテーマであり、運命と主要な登場人物の恋愛模様とが絡み合って物語は進んでいく。例えば、吉野への恋愛感情に戸惑う葉風が「これは何か? ラブコメか? 世界の命運をかけたラブコメなのか?」と言う場面。(このセリフの面白さは、視聴者が究極的に葉風の恋が作者の意思という運命にに縛られたラブコメであることに想いをいたす事にあるのだか、)恋だとか愛だとかいうテーマはアニメの世界でだけでなく、私たち自身もしばしば運命とともに語るものであろう。以下の葉風と順一郎の会話は私たちの現実世界でも日々聞かれるものである。

 

葉風「まさか吉野に恋するなど、こんなの予定にないぞ」

順一郎「予定して恋するのもどうかと思うけどね」

 

彼らが言っている通り、恋はその当事者が自らの意思に基づいた予定にかかわりなく落ちてしまうものなのだ。恋に落ちる瞬間というものは往々にして運命的な力によるものと感じられる。(ここで興味深いのは、二人が「予定」と言っている点で、これは神が予め人間の魂の運命を定めていると言う、キリスト教プロテスタントの予定説を彷彿とさせる。)そしてさらに、愛と運命について劇中で印象的に用いられているシェイクスピアの『ハムレット』からの引用もある。

 

For ‘tis a question left us yet to prove,
Whether love lead fortune, or else fortune love.
Shakespeare, Hamlet, III. ii. 190-1

愛が運命を導くか、それとも運命が愛を導くか、
それはわれらの人生がめいめい試さねばならぬ問題だ。
シェイクスピアハムレット』野島秀勝訳(岩波文庫

 

この格調高いセリフの引用は、視聴者である私たちめいめいに語りかけるもので、このような手法でこの物語は私たちのとある思考に投資している。すなわち愛と運命について考えることへと誘っているのだ。あなたたちの人生では、愛が運命を導きましたか、それとも運命が愛を導きましたか、どちらでしたか、と。『絶園のテンペスト』はかくして、劇中劇的構造や愛という主題を通して、視聴者に運命というテーマから作品を観させるのと同時に、メタプレーヤーたる視聴者自らを支配する運命(もちろんあるとも、ないとも言い切れない)というものについて考えさせるように仕向けてあるのである。

 

3.「ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

  

そして、この運命という問題に対して『絶園のテンペスト』は、終わるということをもって一つの結論を出しているように思われる。物語を描くこと、それが愛花の言うように作者が登場人物を作者の意思/シナリオという運命の「奴隷」として縛ることであるのならば、物語を終えることは彼らを解放することになるのではないだろうか。実際このアニメの下敷きになっている、シェイクスピアの『テンペスト』でも、プロスペローは拍手でもって劇を終えることで彼を「解放」するように観客に頼んでいる。それと同じように、終わることで初めて『絶園のテンペスト』の中の登場人物も自由な意思を手に入れると言える。真広、吉野とも愛花に対する、作者の意思/シナリオという運命に導かれた愛に縛られていたが、物語の終末にはそれぞれが新しい愛に向かって歩き出している。吉野は葉風と結ばれ、真広は彼が助けた女の子と結ばれるのである。物語が終わり、彼らの愛がこれからの白紙の運命を、つまりアニメのシナリオでは描かれていない運命を導いていく。いわば「運命が愛を導く」から「愛が運命を導く」への転換がなされているのだ。この物語は、シナリオに支配された愛花の避けられない死、という悲劇の通奏低音を響かせながらも、その結末は(シェイクスピアの喜劇しかり結婚で終わる喜劇のコンベンションを受け継いで)、登場人物らが新しい愛とともに歩んで行くことを予感させる喜劇である。これは愛花が葉風に、物語は「とりあえず幸せに終わる」と予言した、その伏線の通りである。ところで、先ほども指摘した通り愛花は最もメタな視点を持った登場人物であった。となると、かつて彼女が吉野や葉風に「これもいつかは美しい結末の伏線になる」や「とりあえず幸せに終わる」と言った時の「美しい」、「幸せ」という価値の判断基準は彼女の利害を離れて、『絶園のテンペスト』に出てくる他の登場人物の、というよりその世界を画面越しに眺めているメタプレーヤーである、私たち視聴者の視点と一致しているように思われる。さらにアニメの結末に聞こえて来る、「始まりは終わり、終わりは始まり。ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」という愛花のナレーションは、他の登場人物が聞いていないところでの、いわば独白である。(役者の観客への独白で終わると言うのも、『テンペスト』しかりエリザベス朝演劇のコンベンションであった。)そのため、確かに愛花のナレーションは、物語が終わった後に登場人物らが新たな愛を手に自ら運命を切り拓いていくことを言っていると解釈しうるだけでなく(そしてこの解釈もおそらく全くもって正しいと評価されよう)、それよりもメタプレーヤーたる私たち視聴者に直接語り掛けているものに思われるのだ。「あなたたちは運命に支配されているかもしれない。それでも、これからは物語を観終えたあなたたちが、あなたたち自身の物語を、彼らのようにひたむきに描いていきなさい。そうしたら、いつか愛があなたの元に訪れて、あなたも愛を手に運命を切り開いて行けるでしょう」、と。

 

(SPQR) 

クラウド9の研究(改)

 

Cloud 9

Cloud 9

 

 

この『クラウド9』という演劇、なかなかけったいなものなの。男が女を演じ、白人が黒人を演じる。およそ<リアル>とは程遠いわ。みんながリアルよりも<リアル>なリアリティーを追いかけまわしている(とわたしには思われる)今日、ウケル作品かと言えばちょっと違うかもしれない? じゃあどうして、作者は作品のリアリティーを傷ものにするようなことをしたのかしら? そうそう、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)先生はBrecht on Theatre (Eyre Methuen, 1978)でこんなことをおっしゃっていたわ。

too much heightening of the illusion … that gives the spectator the illusion of being present at a … ‘real’ event, create such an impression of naturalness that one can no longer interpose one’s judgement … and must simply conform by sharing in the experience and becoming one of ‘nature’s objects’. The illusion created by the theatre must be a partial one, in order that it may always be recognised as an illusion.(p.219)

言い換えると、あまりにも<リアル>な演劇をしてしまうと、観客はリアルに居合わせているつもりになって何も考えずに満足しちゃうから、観客に何かを問いかけたいときには<リアル>にするのもほどほどにね、ということよね。つまり、リアリティーがほつれているところに、観客は解釈と価値判断の手がかりを見出すということ。逆に、観客にとっての当たり前を、その通りに描いても、彼らが当たり前だと思っている制度を相対化することはできない。では実際、どのように作者のチャーチルさんがこの作品のリアリティーをズタズタにしているのかを、冒頭の場面で見てみましょう・・・。舞台はヴィクトリア朝南アフリカ。ここではClive(夫)とBetty(妻)が夫婦で、両人とも男性俳優が演じているわ。

CLIVE This is my family. Though far from home
We serve the Queen wherever we may roam.
I am a father to the natives here,
And father to my family so dear.

He presents BETTY. She is played by a man.

My wife is all I dreamt a wife should be,
And everything she is she owes to me.
BETTY  I live for Clive. The whole aim of my life
Is to be what he looks for in a wife.
I am a man’s creation as you see,
And what men want is what I want to be. (p.1)

クライブ  これが私の家族だ。故郷からは遠けれど、
    どこを征こうと我らは女王に仕えん。
    私はここの現地人どもの父であり、
    いとしい家族の父である。

    彼はベティ―を示す。彼女は男が演じる。

    妻は私が望んだすべてをそなえ、
    妻はすべてを私に負うている。

ベッティー 私はクライブのために生き、私の人生は
    彼が妻に求めるものになること。
    私はご覧の通り男が作ったもの、
    男が欲するものにこそ私はなりたいの。(拙訳)

なんとなくこの演劇の雰囲気がつかめたかな? ここではすべてセリフが英雄詩体二行連句(heroic couplet)というたいそう仰々しい詩形で書かれていて、弱強×5のリズムに加え、二行一組できれいに韻を踏んでいるの。日本で言うなら五七五のリズムに加え、掛詞・縁語なりを駆使しながらお話ししているようなもの。現実でこんなしゃべり方をする人たちがいる確率は、たぶんタイプライターをサルに与えたらハムレットを書く確率並みに低いでしょうから、セリフを聞いている観客は、「あ、<リアル>じゃないな」と思うわけ。その文脈の中で男が演じる妻Bettyとか、(上の引用部にはないけれど)白人が演じる黒人奴隷のJoshuaとかが紹介されているの。こうした俳優の身体性と役の<ズレ>というのは、英雄詩体二行連句通奏低音の上で強調され、否が応でも観客は意識させられてしまう。これは<リアル>が欲しい観客にとってたいそうおさまりが悪いから、彼らはその<ズレ>に意味づけを与えようと考えることが必要になってくるわね。だからあえて作者がリアリティーを損ねていたのは、観客が欲しがっている<リアル>について、<ズレ>に立ち止まって考えることで、もう一度その本当の価値を判断させよう、っていう意図あってのことなのね。そうしてみると、Bettyが父権的な価値観を内在化させている様子が透けて見えてこないかな? そうBettyは言うの。「私はご覧の通り男が作ったもの」。この戯曲を読み解くカギは、こうして提示されているわけ。

多くの人がフェミニズムを思い浮かべただろうけど、実はこの戯曲はフェミニズムのワークショップから誕生したもので、観客に父権的な社会や価値観について考え直してもらいましょう、というのを目的にしているのよね。だからこの戯曲がわざと”下手に”描こうとしている<リアル>は父権制社会。「<リアル>じゃないから、くだらない」って頭ごなしに否定するのは、女性蔑視と散々たたかれても反省しないドナルド・トランプ大統領くらいじゃないかしら? それにそう読んでしまうと、この戯曲は何も面白くなくなっちゃうのよね。だって、始めっから<リアル>じゃない方向を志向しているのだから。彼みたいに金儲けにばっかり精を出していると、たぶん物語は読めなくなるんでしょうね。<リアル>でない世界の意味を考えるのが楽しい戯曲なのに・・・。

さあ無駄話は切り上げて、<リアル>でない世界を志向するわたしたちは、先ほどの<ズレ>とやらに与える意味づけを一つ考えましょうか。それはつまり、男が女を演じることは、女が<女>を演じてきたことのメタファーだという事。ピンと来た人もいるんじゃないかな。長ーーーい名前のシモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908-1986)の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉もあるけど、つまりこの<ズレ>は、女性が<女性らしさ>を演ずることで<女性>になってきた、という命題を提出していると思わない? 具体例を示しましょう。

CLIVE Don’t squeamish, Betty, let me have my joke.
And what has my little dove done today?
BETTY  I’ve read a little.
CLIVE Good. Is it good?
BETTY  It’s poetry.
CLIVE You are so delicate and sensitive.
BETTY  And I played the piano. Shall I send for the children? (p.3)

クライブ   ショックを受けないでベティー。ジョークさ。
    いとしい君は今日何をしたのかい?
ベッティー  読書を少し。
クライブ   よろしい。よかったかい?
ベティー   詩を読みましたの。
クライブ   君は本当に優美で繊細だ。
ベティー   それにピアノを弾きましたわ。
   子供たちをお呼びしましょうか? (拙訳)

さっきのp.1の引用と合わせてみてみると、このBettyという人が夫Cliveのために「詩を読む」とか「ピアノを弾く」とか、<女性らしい>繊細さを一生懸命手にしようとしているけなげな姿が見て取れるよね。(実は彼女には他の個所で大胆さを求める葛藤があったりもするけど、それを押し殺してもいるんだ。)そうした行為を通して、彼女は一人の<女性>を作りあげていっているの。そしてこの<女>というジェンダーが<女らしい>行為のもとになるのではなく、逆である、つまり行為を通してジェンダーが形成される、という主張はジュディス・バトラー(Judith P. Butler, 1956-)の理論そのものでもあるの。Gender Troubleという本からの長い引用になるけど、根気のある人は読んでみてね。

Gender ought not to be construed as a stable identity or locus of agency from which various acts follow; rather, gender is an identity tenuously constituted in time, instituted in an exterior space through a stylized repetition of acts. The effect of gender is produced through the stylization of the body and, hence, must be understood as the mundane way in which bodily gestures, movements, and styles of various kinds constitute the illusion of an abiding gendered self. (The Norton Anthology of Theory and Criticism版, p.2552)

ここでは<ズレ>が、女が<女>を演じることのメタファーになっているという見方を紹介したけれど、これは今の流行り(?)の「女子力」にも通じるところがあるのよね。その意味で1981年に初演されたこの演劇は四半世紀と半分くらい過ぎた今も全然古びていない。それはともかく、この戯曲には不倫もあるし、ゲイ・レズビアンの問題も含まれているし、それに植民地支配の問題もあるし、まだまだ突っ込みどころがたくさん。それに男性の皆さん、<リアル>な世界では決して意識化されない、あなたたちの”いやらしい”視線さえも意識化される仕掛けがあるのよ(疲れたから書かないけど)。ただ残念なのは、翻訳書が絶版になっていること。それに日本での上演はそうそうないでしょうね。まあ、英語自体は簡単なので暇でもあれば。それではまた、ご機嫌よう。

 

参考(女装した男の演じるBettyに注目)