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鴨川日記

本を紹介していきます。

なぜ『それ町』は<廻っている>のか?

  漫画『それでも町は廻っている』を読み終わった者は、誰しもあの最終話に違和感を持つだろう。129話「少女A」は主人公・嵐山歩鳥が「よいオチが思いつかない」と叫ぶシーンで終わっている。このセリフをメタ言及、つまり作者が『それ町』のオチが思いつかなかったことを主人公の口を借りて告白しているのだと解釈すると、綿密に積み重ねられてきた本編を締めくくるのには少し物足りない気がする。一体どのように受け止めればよいのだろうか。

 単行本の読者ならすぐに気が付くことだが、この作品にはきちんとオチがついている。単行本に収録されているエピローグ「それから…」を読む限り、作者はこの作品のオチを思いついている。それまで従来の関係性を維持することを強く望んでいた歩鳥だが、エピローグでは貴女が小説家であると知っていると告げ、亀井堂静との関係を自ら変えていく。歩鳥の言葉に対する亀井堂の反応にも胸が熱くなる素敵なオチだ。従って、最終話の歩鳥のセリフをメタ言及と捉える解釈は成立しないことになる。
 それではなぜ、「少女A」が最終話なのだろう。勿論あのセリフがメタ言及でないからといって最終話として全く機能していないわけではない。128話「嵐とともに去りぬ」とこれ以上繋がりのよい話は他に見当たらない。しかし、この大作を締めくくるのによりふさわしいエピソードが他にあったのではないか……この想いに駆られた者は誰しも、この作品では時系列がシャッフルされていることに思い至る。129話「少女A」はたまたま時系列シャッフルで一番最後に来ているだけであり、本当の<最終回>はどこか別の場所に配置されてしまったというわけだ。それでは、どのエピソードが本当の<最終回>なのか。
 真っ先に確認したくなるのは、時系列を整理したときに最後に来るエピソードである。丁寧に読み返せば、111話「夢幻小説」がそれにあたることが分かる。歩鳥が「自分が生まれなかった世界」を訪れた<夢>を思い出そうとするエピソードで、タッツンこと辰野トシ子が冷え性で受験勉強を中断していることとシーサイドがメイド喫茶ではないことから高校3年生の冬が舞台だと判断できるからだ。このエピソードが<最終回>でもおかしくないと私は思う。歩鳥の話から回想パートが128話「嵐とともに去りぬ」の後日談であることが示唆されており、歩鳥の3年間の物語は少なくともバッドエンドではなかったことが分かるからだ。また、回想パートで亀井堂と歩鳥の関係性が重要な役割を果たしており、エピローグとの繋がりも良い。
 しかし、111話が<最終回>だとここで決めるのは聊か短絡的ではないか。それは次の二つの理由からである。一点目は先ほど129話を<最終回>にふさわしくないとしたのと同じ理由だ。例えば127話「至福の店フォーエバー」こそ<最終回>にふさわしいのではないか。『それ町』は歩鳥とタッツンがメイド喫茶シーサイドで働き始めることで幕を開ける。タッツンがバイトを辞める「至福の店フォーエバー」ならば、1話と対応することができる。また、127話は『それ町』屈指の名エピソードである。『それ町』全編通して唯一の見開きページには二人の思い出が散りばめられている。「楽しかったね」と手を取りあう二人。誰もが認める感動回であろう。この127話と比べた時、111話にどれだけ分があるだろうか。しかし、一点目に勝って重要なのは、二点目である。つまり、ここで111話を<最終回>としてしまっては、時系列シャッフルに関して疑問が残るのだ。時系列順にエピソードを並び替えた時に最も後にくるものが自動的に<最終回>なのであれば、時系列シャッフルは111話を読者に探すように促すために存在していたことになる。勿論時系列シャッフルがこれ以上何か別の意味を持たなければならないということはない。また、歩鳥が推理小説を愛読し探偵を目指していることを踏まえれば、このようなパズルが仕掛けられていたとしても驚くに値しない。しかし、本当にそれだけのために、10年間以上時系列シャッフルという足枷を自らはめてきたのだろうか。本当に時系列シャッフルについてこれ以上の解釈ができないものか。
 作品をどのような形で読めばよいかという問題を読者の裁量にゆだねる目的があったのではないか。これがこの問題に対する私の仮説だ。本作をどのように読み進めればよいかという問いに対して、我々は時系列や作者の決めた順番という正解を持たない。本作を読み進める際に時系列に沿って読む必要はない。何しろ作者がそう強いてくるのだ。作者が行った作品の並べ方もあくまで一例に過ぎない。たまたま129話が最終話だったように、時系列順で最も後にくるエピソードがたまたま111番目に描かれたように、目の前に並んでいる『それ町』のエピソードはたまたまその場所に収まっているにすぎない。つまり、我々は本作をどのように読み進めても、あるいはどのように読み返してもよいことになる。裏返せば、我々は本作をどのように読み進め、あるいはどのように読み返すか自分で考えなければならない。『それ町』は読者ひとりひとりのその時々の読み方によってシャッフルされ続ける不思議な構造を持った作品なのだ。
 この構造を踏まえれば、読者が<最終回>を自由に選んでよいことは明らかだろう。読者が自分なりの読み方を大事にしながら<最終回>を選び、それを<最終回>にふさわしいと思う位置に置きながら自分だけの『それ町』を作っていくことができる。編集作業を行うにあたって、111話や127話を<最終回>にしたいのであればそれを最終話にすればいい。紺先輩との関係を主軸に読むなら、11話「猫少年」を冒頭に125話「紺先輩スペシャル」を最終話に持ってきていい。同じく紺先輩との関係を主軸に置いていても、<最終回>は76話「歩く鳥」という人もいよう。さらに言えば、<最終回>が最終話である必要はない。<最終回>である76話の後ろに後日談として125話をつけても構わない。
 ここで足を止めても構わない。しかし、私はせっかくここまで来たのだから、もう一歩踏み出してみたい誘惑にかられる。読者がそう思うならそれが<最終回>であるのであれば、どのエピソードが<最終回>でも構わないだろう。1話から129話まで全て<最終回>といえない回はなくなる(これまで散々けなしてきた129話がどうして<最終回>でないといえようか。本稿の冒頭で129話が最終回であることをどう受け止めればよいのかと問いを立てたがこれがその答えである)。本当の<最終回>はどれかという問いに対して、すべてのエピソードが等しく正解ということだ。ここに至れば、このような疑問が頭を過るはずだ。果たして本当にその問いに取り組まなければならないのか。
 驚いたことに、この問いに否と答えることは作品と向き合う上で消極的な意味を持つわけではない。むしろそう答えたくなることこそがこの作品の肝だと私は考える。ここまで歩いてきた我々はもう<最終回>など選ばなくてよいのだ。全てのエピソードが<最終回>になり得る。もっといえば、1コマ1コマが<最終回>に等しい輝きをもって作品の中に組み込まれている。時系列シャッフルは、このような読み方を読者に提案する仕掛けなのではないかと私は考えている。
 この読み方は、すべての瞬間が平等に尊いという人生観を想起させるように思われる。感動に胸をいっぱいにさせている時も、トラブルに巻き込まれて葛藤している時も、親しい人と一緒に過ごす大切な時間も、一人で漫然と過ごしている時でさえ、<最終回>と呼ぶにふさわしい重さを持っている。勿論我々は日常的に自分の歩んできた時間に重みづけを行い、自分の人生を解釈する(だからこそあの場所で足を止めても構わない)。しかし、その作業の果てで、すべてが光って見える瞬間がやってくるのだ。もはや『それ町』は単なる日常系ギャグ漫画ではない。嵐山歩鳥が歩んだ3年間である。(HRK)

哲学・哲学史にこれから入門する人向けのごく私的な文献案内

 大学入学当初、いままで足を踏み入れたことがなかった新書コーナーで、私はあたふたしてしまっていた。哲学入門と称する本があまりに多すぎる!大学生協の小さなフロアに「最良の哲学入門」が何冊もある!!いったいどいつが本物なんだ!!!……本稿は、あの時の私と同じ思いをしている人(私の妄想の中にしかいないかもしれないが)に向けて、哲学入門書のブックリストを提供するものである。
 もっとも私が読む本には当然偏りがある。全ての哲学入門書を読んだわけでもない。以下で具体的に挙げる本は、一例に過ぎないし、最良のものでもないだろう。多少詳しい人の目から見れば、あの本もない!この本にも触れていない!けしからん!ということになるのは書き始める前から目に見えている。しかし、本稿が目指すのは、既刊書の総覧ではない。概ねこういうものがある、こういうものを読んでおく必要がある、という大枠は示すことこそが目指される。類書と目の前の本との異同を把握し、自分に必要な本を選び取れるようになるためにも、現在に至るまで作られてきた哲学入門書(および哲学を学び始めるために役立つ一般書)の全体像について一定のイメージをもっておくことは有意義なことだ。これから旅に出る方々のアトラスとして機能することが、本稿の最終目標である。
 
0.概観を始めるために
 私は哲学の入門書は、それが答えようとする問いの違いによって、2タイプに大別できると考えている。すなわち「なぜ哲学的な問題が問題なのか」と「哲学的な問題はいかに問題とされてきたのか」の2つである。前者では、哲学がいかなる問いに対してどのように取り組んできたかが示される。その結果、読者はそれらの本を読み確かに哲学的な問いが解決されるべき問題だと実感することができるはずだ。後者は、端的に言えば哲学史の知識を与えてくれるものだ。
 残念ながら、実際には綺麗に2タイプに分かれるわけではない。自分にあった哲学入門書を見つける際に類書との異同を把握する手助けをする目安として、この分類が意味を持つと考えている。以下ではこの分類に従って整理を進めていきたい。
 
1.なぜ哲学的な問題が問題なのか
①哲学とは何か
 哲学とは何かという問いに直接答えようとする入門書がある。哲学とは何かという問うことは、哲学に何ができて何ができないのかを考えることだ。哲学が何をもたらすのかを把握することで、哲学の営みとはどのようなもので、どのような意味があるのか理解できるようになるはずだ。
 このタイプの典型例として、永井均『<子ども>のための哲学』講談社(現代新書, 1996)が挙げられる。この本では、著者が実際に子供のころから哲学をしてきた経験を振り返ることで、実践の中に哲学的思考とは何かが示される。実際に哲学的な問いを感じたことがある人に、その問いと真剣に向き合う勇気を与えてくれるはずだ。永井の哲学観そのものだが、哲学は哲学的問題を抱いてしまった人のためのものであることが作品全体を通じて伝わってくる。
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

 

 一方、鷲田清一『哲学の使い方』岩波書店(新書, 2014)も、同じく哲学に何ができるかについての考察だ。困難な問題に対して結論を留保し、二項対立を前に考えを深めやがてその対立の外にでることこそ知性の役割であり、そうした態度を身に付けることが哲学の役割だとしている。

哲学の使い方 (岩波新書)

哲学の使い方 (岩波新書)

 

 この2冊を見るだけでも、哲学に何ができるかについて様々な見解があることは予想がつくだろうと思う。最初は自分なりの入り口を見つければいいと思う。学習が進んだ後でそれを相対化する機会をもてばいい。

②哲学の問題群
 哲学的な問題のカタログと、それに対する回答群を提示する本がある。これらの本では往々にして日常生活では取り立てて疑問を挟むことがない事柄が取り上げられる。当たり前だと思っていることを一度立ち止まって考えてみることが、哲学を始める第一歩となる。
 このタイプの典型例は、野矢茂樹『哲学の謎』講談社(現代新書, 1996)だ。哲学の根本的な問題を対話形式で紹介していく。雑談から哲学的な対話へ発展していくスタイルは、初学者にも親しみやすい。結局明確な答えにたどり着くわけでは無いが、読者自身で問いに取り組んでみることを誘ってくれる。

 一方で、野矢の本は、読者に対する親切さという点でいくつかの弱点を抱えている。まず、何章か読まないと二人のキャラクタがうまく掴みにくく対話に入り込みにくいこと、論点同士の関連性が端的に言って分かりにくいことだ(これについては著者自身も最後のほうで課題として言及している)。また、記述に際してどのような哲学者を参考にしたか一切言及がないのも、勉強を次に繋げる際に弱点となるかもしれない。

哲学の謎 (講談社現代新書)

哲学の謎 (講談社現代新書)

 

 こうした弱点を見事に克服しているのが、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』筑摩書房ちくま学芸文庫, 2007)だ。中学生の翔太と、猫のインサイトが、哲学的な問いについて会話をするというスタイルの入門書。読み始めればすぐにわかるが、この本では猫のインサイトが案内役になるという構成が明確で読み進めやすい。また、各章の最後では哲学者に言及がなされ、彼らの思想の一端が今までの議論を踏まえて自然に解説されている。さらに、前の章で扱われた内容が後の章で繰り返し参照されるように構成されており、著者の中で前の問題と後の問題に如何なる関係があることが明確になっている。これは問いの立て方にも反映されていて、たった4つの問いで多くの論点を扱うことに成功しているのも魅力的だ。

 一方で、断定ととることもできる部分も多く、読者によっては説明が不十分だと感じると思う。また、傍論としていかにも永井らしい哲学観がちりばめられているが、説明が具体的なレベルでなされておらず、読者によっては困るポイントだろう。それに、この本は入門書としては内容のレベルが高いと思う。ある程度、哲学(史)に馴染みがないと理解が難しいのではないかと思わされる記述も多い。

 ここまでの2冊は対話形式の入門書だった。実は、対話篇を読みづらいと感じる人が意外と多いようだ。論理関係を追いにくいし、時に議論の流れが錯綜することもある。

 対話篇だと読みにくいから散文になっている方がいいという人には Th.ネーゲル『哲学ってどんなこと?』昭和堂(1993)や加藤尚武『現代倫理学入門』講談社講談社学術文庫,1997)が薦められると思う。Th.ネーゲルのものは、野矢の本と似通った論点について、やさしく読者をリードしてくれるはずだ。加藤のものは倫理学の入門書になるが、哲学的な議論についても参考になる。
哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

 

 

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

 

 麻生博之・城戸淳(編)『哲学の問題群』ナカニシヤ出版(2006)は若手の研究者を中心に、26の論点を設定して論じている。哲学者の議論を紹介・検討していくスタイルで、先に挙げたものとは雰囲気が多少違うと思う。哲学者の議論に関心のある方には入門書として重宝するだろうが、逆に哲学者の名前を持ち出されることに抵抗を感じる人には苦しいかもしれない。各章の終わりに簡単な文献案内があり、参考になる。

哲学の問題群―もういちど考えてみること

哲学の問題群―もういちど考えてみること

 

 西脇与作『現代哲学入門』慶應義塾大学出版会(2002)も教科書としては独特の雰囲気を持っている。科学史の知識を盛り込んで議論を展開しているのが特徴的だ。また、演習問題やまとめ、充実したコラムなど学習に役立つ工夫も随所に見られ、教科書として完成度が高いと思う。一方で、科学や数学の議論、それから論理記号にアレルギーがある人には難のある一冊だろう。この本も哲学者を適宜紹介していくスタイルで、先に紹介したネーゲルも簡潔に扱われている。

現代哲学入門

現代哲学入門

 

 ちなみに、哲学的問題のカタログという形式をもつ入門書は品揃えがよい。それぞれ工夫を凝らしたものが毎年出版されている。それらの工夫だけをもって斬新で今までにない入門書だと調子づかれても正直困るのだが、何とかして間口を広げようという姿勢には頭が下がる。古典的には、野矢茂樹『哲学・航海日誌』(全2巻)中央公論新社(中公文庫,2010)が有名だし、最近のものでは、八木沢敬『「不思議の国のアリス」の分析哲学講談社(2016)が目についた。

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)

 

 

哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

 

 

『不思議の国のアリス』の分析哲学

『不思議の国のアリス』の分析哲学

 

 哲学的な問題を1つ2つに絞り、じっくり議論を試みるものもある。興味を持ったテーマがある人には、まずこうした著作に取り組んでみることをおすすめする。例えば時間論には、滝浦静雄『時間』岩波書店(新書, 1976)や 加地大介『なぜ私たちは過去へ行けないのか』哲学書房(2003)がある。

時間―その哲学的考察 (岩波新書 青版)

時間―その哲学的考察 (岩波新書 青版)

 

 

なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)

なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)

 

 金杉武司『心の哲学入門』勁草書房(2007)のように、あるテーマについて考える上で触れておいた方がいい主要な論点を網羅的に概説していく教科書もある。特定の関心分野が既に決まっている場合は、こうしたものにあたることが勉強をさらに前に進める上で有効だと思う。

心の哲学入門

心の哲学入門

 

 ここまで紹介した著作にあたってみた後で、是非手に取ってほしいのが、永井均ほか編『事典 哲学の木』講談社(2002)だ。読む事典として構想されており、関連項目に従って枝から枝に飛び移るように読んでいくことができる。哲学の問いの広がりと、壮大さを感じられる一冊だと思う。

事典・哲学の木

事典・哲学の木

 

 

③考えていくために

 哲学において自分で考えることはとても大切なことだ。今まで挙げてきた多くの本も読者にそうすることを薦めて終わっている。
 ソクラテス以来思考は対話と重ねられ、内的対話として語られてきた。思考が対話である以上、決して対話者を失くすことがないようにしなければならない(もっと直接的な言い方をすれば、自分の思い込みに振り回されて、何も考えていないのにも関わらず考えたつもりになることがないようにしなければならない)。自分勝手な結論ではなく、自分なりの魅力的な結論を提出するためにも、考えるためのツールを磨くことは決して遠回りではない。
 
 伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』筑摩書房ちくま新書, 2005)の目指す「健全な懐疑主義」は、目指すべき姿の一例を示してくれていると思う。哲学的な問題を考える際に必ず付きまとう懐疑主義を直接的に扱い、懐疑主義を飼いならす著者なりの仕方を紹介してくれる。ちなみに、この本は通読した限りクリティカル・シンキングのための本だが、組み替えると懐疑主義の概説書としても読め、懐疑主義それ自体に関心を持つ人にも嬉しい洒落た仕掛けが施されている。
哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

 

 ちょっと変わった倫理学入門書として界隈では有名な一冊だが、A.ウェストン『ここから始める倫理』春秋社(2004) も参考になる。倫理について自分で考えるにはどうすればいいか、に力点を置いており、倫理学に向き合う態度から、設定した問題を創造的に問題を解決していく時の心構えまでコンパクトにうまくまとめあげている。

ここからはじまる倫理

ここからはじまる倫理

 

 思考を対話だと考えた時、論理的であることは非常に重要になってくる。野矢茂樹『論理トレーニング101題』産業図書(2001)に代表されるように論理的に考えられるようになるための本は多く出ているので、それらを活用されたい。

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

 

 戸田山和久『新版 論文の教室』NHK出版(NHKブックス, 2012)など論文の書き方を解説した本や、苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社講談社+α文庫,2002)のように思考法一般について解説した本に目を通してみる事も大切だと思う。ここに挙げた2冊はいずれも読みやすいだけでなく、類書の基本的な内容がコンパクトに詰め込まれており、手に取って損はない一冊だ。少なくともこうした類の本を一冊でも二冊でも携えておくことは大学で勉強をしていく最低限の準備だと思う。学問的な問いをどのように発展させていけばいいかについて重要な示唆を与えてくれるからだ。

新版 論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス No.1194)

新版 論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス No.1194)

 

 

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

 

 問いを前にした時に、単にロジカルなだけでは少し心もとない。すでに挙げたものの中では、永井『翔太と猫のインサイトの夏休み』に見られるように、哲学には哲学特有の道具があり、時に絶大な効力を発揮することになる。それらについて解説したものとして、J.バッジ-ニ, P.フォスル『哲学の道具箱』共立出版(2007)と同『倫理学の道具箱』共立出版(2007)が役に立つだろう。また、通読には前提知識や慣れが必要かと思われるが、現代哲学の知識を総覧した 田辺秋守『ビフォア・セオリー』慶應義塾大学出版会(2006)も役立つだろう。

哲学の道具箱

哲学の道具箱

 

 

倫理学の道具箱

倫理学の道具箱

 

 

ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”

ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”

 

 思考の際に使われるのは、学術的な道具立てや論理だけではない。分類や系統づけも大きな役割を果たしている。こうした向きに関心のある方には、三中信宏系統樹思考の世界』講談社講談社現代新書, 2006)を優れた入門書として紹介しておきたい。

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

 

 思考は対話だと先に書いたが、コミュニケーションに関する実用書も手に取るといいと思う。実際に他者と対話する際にも役に立つはずだ。D.ストーンほか『話す技術・聞く技術 ー 交渉で最高の成果を引き出す』日本経済新聞出版社(2012) をここでは挙げておきたい。この類の本は、実際のコミュニケーションの場に出てみて「どうしてうまく議論ができないのだろう」と自問しながら読むと、もやもやした印象が言語化されて実りが多いだろうと思う。

話す技術・聞く技術―交渉で最高の成果を引き出す「3つの会話」

話す技術・聞く技術―交渉で最高の成果を引き出す「3つの会話」

 

 

2.哲学的な問題はいかに問題とされてきたか
哲学史に馴染む
 哲学史の教科書を開いてみると、まずソクラテスがどんなことを考えたかが解説されるわけである。ソクラテスのソの字どころか、古代ギリシャって何ぞやという感じだった大学入学当時の私は、「ソクラテス?なんでこんなやつのことを勉強しなくちゃならないんだ?」と、哲学史の本を数ページで放り出してしまった記憶がある。私のように軟弱な方は少ないかもしれないが、哲学者に親しむ、なぜ哲学者について勉強するといいのかを知る、そこから始めてみたい。
 個人的な経験からすると、鷲田清一永江朗『哲学個人授業』筑摩書房ちくま文庫, 2011)が役に立った。その哲学者について学んだことのある人が楽しく感想を喋っているのがやはり一番関心をそそられるものだと思う。この本は、印象論も多く、親しみやすい。 
哲学個人授業 (ちくま文庫)

哲学個人授業 (ちくま文庫)

 

 佐伯啓思『西欧近代を問い直す』PHP出版(PHP文庫, 2014), 『20世紀とは何だったのか』PHP出版(PHP文庫, 2015)のように、哲学をつかって現代政治を分析するものも親しみやすいと思う。古典を読むことが、現代社会を生き、現代社会の問題について語る上でもつ威力を実感させてくれる。時事評論に慣れ親しんだ人や現代社会の問題について考えたい人が哲学に慣れ親しむきっかけになるだろうし、哲学を「使う」際の一つの例を提供してくれる意味でも好ましい。ただし、特定の政治哲学を背景にしているように読める箇所もあるので、特に結論に関しては人を選ぶ本だと思う。

西欧近代を問い直す (PHP文庫)

西欧近代を問い直す (PHP文庫)

 

 

20世紀とは何だったのか (PHP文庫)

20世紀とは何だったのか (PHP文庫)

 

 J.ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』筑摩書房ちくま学芸文庫, 2016)も読みやすい。不正や腐敗がいかにして生じるかを道徳命題についての独自の整理を行いながら論じていく。哲学にも関心のあるインテリが政治や経済について談笑している現場に臨席している雰囲気が味わえる。

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

 

 文化評論に哲学を使っている本もある。政治や経済の動向に関心がない向きにはこちらの方が親しみやすいかもしれない。東浩紀『弱いつながり』幻冬舎幻冬舎文庫, 2016)はその好例だ。現代人に親しみやすい題材について哲学の知識を応用して論じていく。東氏の著作はいずれも議論を巻き起こしており、内容については賛否両論があると思うが、ここでは親しみやすく入手しやすいという点をもって肯定的に評価したい。ちなみに、現在「哲学カフェ」が広まってきているが、東氏も積極的にそのような活動に取り組んできた。そうした場に足を運んでみることが、哲学に親しむ最新のスタイルになりつつあるのかもしれない。

  哲学に造詣の深い著者による文芸評論として、柄谷行人日本近代文学の起源講談社講談社文芸文庫, 1988)を挙げておきたい。また、岩波書店刊行の『思考のフロンティア』シリーズ として刊行された小森陽一レイシズム』(2006)は、思想にも関心をもつ文学者による論考で、文学の可能性を感じさせてくれていてとても面白い。

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

 

 

レイシズム (思考のフロンティア)

レイシズム (思考のフロンティア)

 

 所謂人生相談・人生哲学ものの中から、ここでは那須恵理子『フレンチ ラヴ・ポトフ』アンドリュー・プレス(2004)を挙げる。精神分析家が臨床の経験をもとに、恋愛相談を行っている。読みやすい。

フレンチ ラヴ・ポトフ

フレンチ ラヴ・ポトフ

 

 先に、哲学的問題を概観する著作を見た。それとの関係で、ここでは一つの問題に絞り、哲学者の議論を時代順に追ってみていく問題史とよばれるスタイルの本を紹介したい。品川哲彦『倫理学の話』ナカニシヤ出版(2015)や 松枝啓至『懐疑主義京都大学学術出版会(2016)などが比較的新しい。問題に関心を寄せるものにとっては、いろいろなアプローチの違いとしてみることができ、理解が深まる。自分の意見と似通った哲学者が見つかるかもしれない。

倫理学の話

倫理学の話

 

 

懐疑主義 (学術選書)

懐疑主義 (学術選書)

 

 この節は本稿の中で最も不十分なものである。個人個人に合わせて、より多様な入り口があり得るからだ。例えばここで取り立てて触れなかったが、歴史に関心があれば、歴史哲学に関する本が入り口となってくれる。旅が好きな人には、異国の哲学者がどのような街で思索をしていたのか調べてみるのもいい。気長に探していただくのが、自分だけの入り口への最短ルートだと思う。この節ではその取り組みの一例を示したに過ぎない。哲学者に関心が持てないという悩みを共有する方に、この節が参考になれば幸いである。

 
哲学史を概観する
 哲学史を概観するのに適した教科書的な著作を見ていきたい。ここで哲学史というとき、私が念頭に置いているのは、哲学を語る上で重要な哲学者たちについての解説をコンパクトにまとめたものである。そのため、歴史研究の水準にはばらつきがある。また、上で紹介したものの中には政治哲学や経済思想に関連するものもあり、そうしたものに特化した政治思想史や経済思想史関連の著作もあるが、ここでは直接扱わない。
 と言っておいてなんだが、実は私自身は哲学史を学び始めるにあたって哲学史の教科書を必要としなかった。そうした本よりも先に、哲学史の講義を受ける機会に恵まれたからだ。そのため、入門者の立場になって紹介できるか怪しい。そのことを一応断ったうえで、自分なりにとっつきやすそうなものを紹介してみたい。
 
 高校倫理の参考書は哲学史を勉強する上で参考になる。中川雅博『センター試験のツボ倫理』桐原書店(2009)は、信頼のおける研究者による高校倫理の解説である。
センター試験のツボ倫理

センター試験のツボ倫理

 

 高校倫理はちょっと…という方には、貫成人『図説・標準 哲学史新書館(2008)は取っつきやすいと思う。要点を簡潔にまとめてある上、図も多用されているのでわかりやすい。

図説・標準 哲学史

図説・標準 哲学史

 

 思想史の大家によって書かれた、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書も概観として優れている。中高生向けに書かれたものだが、ヘレニズムとヘブライズムを軸に構成されており、哲学史をこれから見ていきたい人にとっては誰でも非常に参考になると思う。

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

 

 現代の哲学者まで目配りがきいているものとして柘植尚則(編)『入門・倫理学の歴史』梓出版社(2016)は信頼がおける。重要な哲学者についての概説がなされており、コラムも含めれば現代英米哲学に至るまで哲学史の主要な論点について一通り触れることができると思う。

入門・倫理学の歴史 24人の思想家

入門・倫理学の歴史 24人の思想家

  • 作者: 柘植尚則,西村洋平,武富香織,菅原領二,秋保亘,吉田修馬,石田京子,水野俊誠,西川耕平,西山晃生,金成祐人,長門裕介,村上暁子,五味竜彦,花形恵梨子,圓増文
  • 出版社/メーカー: 梓出版社
  • 発売日: 2016/03/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 熊野純彦『西洋哲学史』(全2冊)岩波書店岩波新書, 2006)も挙げておきたい。初学者にいきなりこれは読みにくいと思うのだが、テキストの引用を軸に哲学者の思考を追っており、実際に自分の頭の中で哲学史を作っていく際に非常に参考になるはずだ。 

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

 

 

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

 

 現在、最もスタンダードな教科書は、中央公論新社刊行の『哲学の歴史』(全12巻+別冊1巻)である。古代から現代まで、ビッグネームからマイナーな哲学者に至るまで、信頼できる執筆陣による紹介に触れることができる。文献案内も充実しており、勉強を本格的に始める際には是非手に取っておきたい。また、個別の思想家についてはNHK出版刊行の『思想のエッセンス』シリーズや、講談社刊行の『現代思想の冒険者たち』シリーズは、読み応えがある入門書として定評がある。

 残念ながら、現在の出版状況では「この1冊」といえる定番の入門書は存在していない。複数冊にあたりながら、自分なりに哲学史を構築していくしかないのが現状だと思う。
 なお、個人的には、小野紀明『西洋政治思想史講義』岩波書店(2015)に付された学部学生のための文献案内が大いに役に立ったので、一度手に取ってみてもらいたい。 
西洋政治思想史講義――精神史的考察

西洋政治思想史講義――精神史的考察

 

③古典に挑戦する

 哲学史を学ぶには何といっても哲学者自身の著作に触れるのが一番だ。自分で哲学書と向き合ってみることで、自分の中で哲学史を再構築していくことが求められる。
 しかし、である。自分らしく哲学書を読むことと、自分勝手に読むことはやはり違う。最後に、古典を如何に読めばよいかを考えるための著作を紹介して、この記事を終えたい。
 
 本を読むこと自体を考察した本は、P.バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房ちくま学芸文庫, 2016),P.メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』フィルムアート社(2015)など多く出版されている。
 余談だが、私は最初なぜ古典を読まなければならないのか理解できなかった(今も正直しっくり来ていない)。P.バイヤールのものはそうした問題を考えていく上でも参考になると思う。
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

 

 本を実際にどう読むかについては、多くのハウツー本が出回っている。私はこの手のものをあまり読んでおらず、研究者が本をどのように読んでいるかを参考にしている。芦名定道氏(キリスト教学・京都大学文学部教授)のHPでは「書評のすすめ」(http://tillich.web.fc2.com/sub9e.htm)として、読書の方法について言及がある。小田川大典氏(政治思想史・岡山大学法学部教授)も「本の読み方を教えてください」という質問に回答したことがある(本の読み方を教えて下さい。 | ask.fm/odg700)。

 古典に特化したものとしては、小野紀明『古典を読む』岩波書店(ヒューマニティーズ, 2010)がある。自分の中でしっくりくるものにはいまだ出会っておらず、十分な紹介はできない。私が見た限り、類書が乏しいことも原因としてあると思う。

古典を読む (ヒューマニティーズ)

古典を読む (ヒューマニティーズ)

 

  ちなみに、有名な哲学者に関する限りでは、個別に解説があることもある。例えば加藤信朗『初期プラトン哲学』東京大学出版会(1988)の中では、プラトンの読み方が考察の対象となっており、学生としては非常にうれしい。

初期プラトン哲学

初期プラトン哲学

 

 歴史哲学について学ぶことは過去のテクストと向き合う上で参考になる。歴史哲学の入門書としては、小田中直樹歴史学って何だ?』PHP研究所PHP新書, 2004)が優れている。また、文学理論に触れておくことも参考になるかもしれない。取り敢えず丹治愛『知の教科書 批評理論』講談社講談社選書メチエ,2003)を挙げておく。

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

 

 

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

 

  哲学者のテクストに添って思想を解説している参考書や、注釈書があればそれらは多く参考になる。そうしたものとして、以前別稿で紹介した B.フィンク『「エクリ」を読む』人文書院(2015)を挙げておきたい( 文字に添って - 鴨川日記 )。哲学者個人個人の入門書・研究書などについては稿を改めて紹介する機会をもつかもしれない。

 古典といえどむやみやたらに全部読まなければならないというわけではない。選書をすることも大切だ。鷲田・永江『哲学個人授業』では各章で鷲田による原典の文献案内が簡単になされているほか、『哲学の歴史』シリーズの別巻には哲学研究者たちへのインタビューも収録されている。これも参考になるはずだ。
哲学の歴史〈別巻〉哲学と哲学史

哲学の歴史〈別巻〉哲学と哲学史

 

 問いに取り組む上での必要に応じて本を読むためには、戸田山『論文の教室』の他、佐藤文香氏(ジェンダー論・一橋大学社会学部教授)のHP(hitotsubashi)が有用だと思う。学術的に問いに取り組む心構えと技術について学ぶことができる本が紹介されている。

 西洋哲学史の古典を読むうえで、西洋史の知識は必須だ。『大学で学ぶ西洋史』(全2冊)ミネルヴァ書房(2006, 2011)が概説書として、一つの目安になる。この2冊が難しいと思う人のために、巻末に優れた初学者向けの文献案内を付したものとして、『人文学への接近法』京都大学学術出版会(2010)をお勧めする。

大学で学ぶ西洋史―古代・中世

大学で学ぶ西洋史―古代・中世

 

 

大学で学ぶ西洋史 近現代

大学で学ぶ西洋史 近現代

 

 

人文学への接近法 ―西洋史を学ぶ

人文学への接近法 ―西洋史を学ぶ

 

 

3.おわりに
 ここで提出する大枠を提出する際、こだわったことは2つある。一つは、「これはさすがに分かるでしょ」は禁句にすること。もう一つは自由に勉強することと自分勝手に勉強することをはき違えないでもらうようにすること。そうした想いがどこまで反映できたかは、この記事の読者の判断に委ねることにする。
 今後、ここで提出した枠組み自体の変更を含む改善を行っていきたい。誰かが自由な読書を通じて自分なりの入り口が見つけていく際のお手伝いができたならば、それは私にとって望外の喜びである。
追記:2月8日に内容を更新しました。(HRK)

ソクラテスとホメロスのあいだで

藤澤令夫「プラトン的対話形式の意味とその必然性 - 文学と哲学」『藤澤令夫著作集Ⅱ イデアと世界』(岩波書店)所収
藤澤令夫著作集〈2〉イデアと世界

藤澤令夫著作集〈2〉イデアと世界

 

 言葉のもつ危うさを批判しながら、それでもなお言葉で綴る。プラトンはそうした形であの膨大な著作群を書き残した。誰の頭にも当然のことのように、なぜプラトンがそれらを書いたのかという問いが浮かぶ。その正確なところを探ることは私の力量を超えるので、ひとまずプラトンが書くことに対して何らかの意味を見出していたと回答しておくとしよう。むしろ本稿が問題にしたいのは、なぜプラトンは自身の著作に対話篇という形式が採用されたかということだ。この問いに答えることは、なぜ一方で書き言葉を批判したプラトンが自身文章を書いたのか考えるうえでも非常に参考になる。この問いに正面から取り組んだ論文を簡単に紹介しながら、 詩論する詩・試論~シェイクスピア・ソネット85番~ - 鴨川日記 に対するささやかな応答を試みたい。なお、本稿では都合上、孫引きなど本来避けられるべき行為を行うことがある。その都度指摘するようにするが、ご容赦願いたい。

 この論文は初め『岩波講座 文学 4 表現の方法1 - 世界の文学 上』(岩波書店)に寄せられた(以下、この岩波講座版を参照しながら書き進める。先に『藤澤令夫著作集』を挙げたのは新しさを考慮してのことである)。

  哲学者をめぐる論考がどうしてと違和感を抱くかもしれないが、プラトンの書いたものに触れたことがあれば、これはそれほど驚くことでもないはずだ。プラトンの対話篇では、個性豊かな登場人物たちが、具体的な「とき」と「ところ」において、生き生きと議論を交わしており、十分に文学的と呼べる。アリストテレスも『詩学』の中で、プラトンによる「ソクラテス対話篇」をミーメーシス(言葉による描写)による創作、つまり叙事詩などと同様に文学であると考えていたと藤澤は指摘する。しかし、一方で『詩学』以外のテクストにおいてアリストテレスプラトンを哲学者として扱っている。ホワイトヘッドの言を俟つまでもなく、我々はプラトン著作を哲学書として読み、彼の哲学をこそその中に見ようとしてきた。ここにプラトンのテクストが二重性を持つものとして現れる。すなわち、「文学」のテクストであると同時に、「哲学」のテクストでもあるのだ。この点について藤澤は次のように問いを立てる。

 こうしてわれわれは、通常、プラトンの対話篇は哲学書であると同時に文学書であるとか、文学的要素の加味された(あるいは「芸術的香気に包まれた」)哲学書であるとか言って事をすませている。しかしこれは多くの場合、怠惰な答というべきであろう。いったい、いうところの「文学的要素」とは、正確には何を指すのか。プラトンの対話篇のもっている性格の、どこまでがどのような意味で「文学」であり、どこまでがどのような意味で「哲学」であるのか。(p280)
 藤澤は、プラトンの対話篇の本質的性格を見定めるための作業を行うとして、ホメロスからギリシア悲劇に至る文学の歴史を辿り直している。この作業が、プラトンの文学性を歴史の中に位置づけることを可能にすると同時に、哲学のはじまりを文学との関連の中で考える素材を我々に提供してくれるのである。この視角から、古代ギリシャにおける文学の歴史は「ディアロゴス性ともいうべきものが、しだいに現実化されて行く過程」(p302) と特徴づけられている(ディアロゴスとは対話のことである)。このように歴史を眺めたとき、ソクラテスは「叙事詩から悲劇に至る動きと、それを受け継ぐ「ロゴスが主役になる」という悲劇そのものにおける動きの先に、その最後の段階を - 純粋対話ともいうべきものによって - 完成させるべく登場した人物」(p301) と評される。彼が対話による哲学を実践したのも、思考が同時に自分自身との対話であるからに他ならない。
 その先にプラトンの対話篇が現れる。プラトンにとって、ソクラテスの「純粋対話」の精髄は「ディアレクティケー」に見出される。それはすなわち、「前提と帰結の積み重ねによる推論が、対話者どうしの相互確認を通じて一歩一歩厳密に進められていく過程」(p302) である。プラトンにおいて、ディアレクティケーに基づいて行われるソクラテスの思考実践はイデア的な真実在へ近づこうとする努力、すなわち「哲学」だと考えられた。以下の引用に見られるように、このようにして成立したプラトンの「哲学」は必然的に「文学」と区別されると藤澤は指摘する。
 しかしながら、すべてこうしたモチーフは、それが文学のたどってきた動きの家庭の行き着く窮極に成立したものでありながら、いっさいの感覚的継承を振り捨てるという点において、それ自身は文学と本誌的にそのあり方をことにするものであり、それゆえに、それら「文学」の総体に対する対決と否定を必然とするような性格のものである。 (p303)
 このことを踏まえて、ソクラテスに立ち返ろう。ここで理由を問うことは控えたいが、「哲学」を体現していたソクラテスは何も書き残さなかった。「「物を書く」ことには、不可避的に「慰戯」的な要素が伴わざるをえない」(p305, 『パイドロス』274C以下参照として、藤澤が訳出している部分を孫引きした) のではないかという考えがそこにあったのかもしれない。この立場からすれば、プラトン自身のテクストもまた、ミメーシスに過ぎないのではないだろうか。このことを彼自身も肯定するだろう、と藤澤はいう。それは他ならぬ彼の立場なのだから(上の引用が『パイドロス』によっていることを確認してほしい)。むしろその問いの先に、いかなる態度で書くかを問題としなければならないだろう。藤澤は『パイドロス』の同じ箇所を参照しながら、書く人自身が哲人的な人間とそうでない人間とに区別されることに注意を促していると指摘する。
 書く当人が書かれたもの以上のものをもち、真実そのものがいかにあるかを知っていて、書かれた言葉の限界とその慰戯性を自覚している場合には、彼が書くものが何であっても、その人は「哲学者」と呼ばれるべきであり、これに対して、「書かれた作品以上に価値のあるものを自己の中心にもっていない人」、ひいては書かれた言葉の中に「何か高度の確実性と明瞭性が存する」と思い込んでいる人は、それぞれ書きものの性格に応じて「作家(詩人)」とか、「作文家」とか、「法律起草家」と呼ばれるべきである。(p306)
 ここから、プラトンがどうして対話篇という形式を選択したのかが見えてくる。藤澤は一人称による論文形式を「多くの場合それと意識されないミーメーシス」(p307)とし、それではなく、「ミーメーシスであることの明確な自覚のもとに置かれた対話篇という形式」(p307) をプラトンが選んだとするのである。ここに対話篇が「ホメロスからソクラテスに至る「ロゴス」の営みがたどった動きの先において、「考えること」自体がすでに対話であることの見定めと、「書くこと」自体がすでにミーメーシスであることの自覚とが相まって生み出された、それ自身必然的な表現形態」(p307-p308) として立ち現れてくるのである。
 廣川洋一『プラトンの学園 アカデメイア』(岩波書店 のちに講談社学術文庫)は、藤沢の論文も参照しながら、この問題について彼なりの整理を行っている。 
プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)

プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)

 

 廣川は藤澤がプラトンの対話篇の特徴として描き出したディアレクティケーとミネーシスの結婚関係を見事に捉え返している。

  生命を持ち、魂のうちに響きあう言葉〔…〕は、事柄をまともに知ることを意図して、ディアレクティケーの技術を用いながら〔…〕ふさわしい魂を相手に得て、たがいの精神の内部にかわし合うものであった。これこそ真の情熱に値する原物に他ならない。書かれた言葉がいかなるものであれ、原理上すべて模像、影にすぎないものではあっても、プラトンがその影像性を十分に自覚したうえで、詩や劇や弁論や論文の形式をふまず、あえて対話という形式を採ったのは、やはり積極的な意図からであったと思われる。対話・問答形式による書き物こそは、プラトンにとってあの「真の情熱に値する原物」 - 知性の領域においてかわされるディアレクティケー - におそらく最もよく似た模像であった。(岩波書店版 p187)

  最後に、本稿が先日SPQRが投稿してくれた詩論に触発されて書かれているものだということを思い出しておこう。シェイクスピアのあのソネットもまた、プラトンと同じく言葉を非難しつつ言葉に自らの内面を託すものであった。SPQRも藤澤もこの点に着目し、この自己言及をどのようにとらえるべきなのかと問いをたてている。ここで面白いのは、言葉を用いて自分の想いを綴っていること、すなわち内容が言葉に縛られていることが、単純に内容に対する言葉の優位を示さないという点である。言葉を使う以上、我々は言葉のもつ限界から逃れることはできないだろうが、プラトンにおいては内容に対する姿勢こそが彼の言葉を救っている。SPQRが文章の最終段落を「そうではない」と始めたのは、プラトンとその希望を共有するが故だ。しかし、内容に対する姿勢は万能な免罪符なのだろうか。言葉の限界は、ロゴスの批判者である彼ら自身に一番痛切に自覚されてしまう。こうしてSPQRの論考と同じように、ここでも問題ははじめに戻ってしまうことになる。

 ソクラテスの内的対話とホメロスのミネーシスの間でもがくこと。それが言葉に対する懐疑を持ちながらなお書き続ける者の宿命なのだろう。そのことを描き出したところに、SPQRの論考の特筆すべき美点がある。 (HRK)

文字に添って

B.フィンク『「エクリ」を読む』(人文書院, 2015)
「エクリ」を読む: 文字に添って

「エクリ」を読む: 文字に添って

 

  現代思想の諸テクストの中でも、『エクリ』(1966)は読まれることを拒むかのような難解さをもって鳴る。著者は J.ラカン(Jacques Lacan, 1901-1981)。彼は独自のフロイト解釈で知られる精神分析家であるが、その影響力は精神病理学だけにとどまらず、現代思想にも大きな足跡を残した。ラカンはもっぱら彼のセミネール(セミナー)において口頭で自身の理論を展開していたため、彼自身が執筆したテクストはあまり多くない。そのような状況下でラカンを理解するにあたって、彼の思想のエッセンスが凝縮された『エクリ』にあたることは非常に大きな意味を持つ。しかし、彼の講義録(現在『セミネール』の名で刊行されている)にあたることができる現在においてもなお、『エクリ』を読むことは、こと初学者や専門外の者にとっては難しい。

 本書は『エクリ』の英訳を長年手がけてきた B.フィンク(Bruce Fink)によるラカン解説書である。本書の白眉は、第3章と第4章であろう。これら二つの章では明確に、副題「文字に添って」のとおり、ラカン自身によるテクストを紐解いていくスタイルをとっているのだ。『エクリ』所収の重要論文の中から、第3章では「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」、第4章では「フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法」が扱われている。ラカンの晦渋なテクストの読解作業に一級の解説者が併走してくれる贅沢な一冊だと思う。

 今まで、思想家のエッセンスを抽出して読者に提示したり、思想家の思索の流れを追う形で作品の簡単な解説を行ったりするものが概説書だと勝手に思い込んでいた。しかし、この本が試みるように、テクストの精緻な読解だけを読者に提供することは、マクロな視点からラカン像を明確に記述することを断念することでもある。私にとって、原文を解きほぐすことでラカンに接近していく本書との出会いは一つの衝撃だった。本書は極めて簡潔ながらも注釈書としての性格を有しており、仏文原典や英訳と読み合わせながら取り組むことができる。読者を原典に向かわせることに成功しているのは、二次文献としては特筆すべき美点であろう。また、読了後に私も驚いたのだが、概念の整理が行き届いていて理解がすっきりしている。良質な解説書は、思想家のテクストそれ自体と向き合うことがもつ意味を原典以上に教えてくれるのだ。
 勿論、これ一冊で十分というわけではない。シニフィアン連鎖や欲望論は非常に重要であるが、それらはラカン山脈の一つの嶺に過ぎない。また、4章では欲望のグラフの解説を集中的に行っているが、そこに登場する「欲動」など中期以降のラカンにとって重要となる概念について詳しく展開されていない。しかし、当然この責を本書に押し付けるのはお門違いであり、十分にラカンの思想を理解するためには、自分で他の本をあたる必要があると思う。例えば、最新のものとして向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫 2016)がよいと思う。
ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

 

 概念の解説が豊富で、ラカン関係の文献にあたる上での基本知識を一通り獲得することができる。フィンクの著作に当たる前に該当箇所を一読しておくと理解が深まると思う。決して平易ではないが、熟読しようとすれば自分の理解が試されるような読み応えのある文章なので、長く付き合うことを前提に読み始めるといいかもしれない。ちなみに、『ラカン入門』でも第3章で「フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法」の詳細な読解を行っているので、読み比べてみると面白いと思う。(HRK)