鴨川日記

本の紹介を中心に活動しています。

『殯の森』

殯の森』(2007,河瀨直美)

 河瀨直美監督の代表作。カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。カンヌ国際映画祭での受賞は、カメラドールを受賞した『萌の朱雀』以来自身2度目。『萌の朱雀』でデビューした尾野真千子が本作の主演を務めた。私にとって最も好きな部類の作品ではないが、既に4度ほど鑑賞しており、当然傑作だと思っている。なお、現時点においてはYOUTUBEで「The mouring forest」「mogari no mori」などと検索すると、全編にわたる動画を観ることができる。
 この映画は森を風が駆け抜けてゆく静謐な映像から始まる。画面は静かに葬式行列へと移って行くが、そこでは弔いという営みが如何に森とともにあるかが暗に示されている。葬列の準備には森から切り出した樹を用いているし、葬式行列は茶畑の間を抜けて森へと入っていく。画面から人がいなくなり再び森が主役になったとき、観客はそこに霊的なものを読み込まざるを得ない。霊と人間を結ぶ場所としての森と、そこで為される弔いの営み。本筋と無関係である冒頭のシークエンスだけで、何も語ることなく、物語の舞台設定、主題設定を終えてしまう技量は素晴らしい。なお、伝統文化を取り入れた作品は、文化庁の後援を得るためなのか、近年も散見される(例えば、先日レビューを掲載した『四月の永い夢』では染め物が取り上げられていた)が、『殯の森』は数少ない成功例である。伝統的なモチーフと映画の主題が見事に連動しており、単なる「芸術的な映像」やら「日本の文化の紹介」としてぎこちなく映画の中に組み込まれているわけではない。
 本作は奈良の山深いところにある老人ホームを舞台とし、妻の三十三回忌を迎える老人・しげきと、幼い息子を亡くした介護士・真千子との交流とそれぞれの弔いを描く。登場人物の心情の変化や、「死」という主題を描く上で、かなりの程度台詞に頼っており時に説明的に過ぎると感じる程である。そのため、物語の展開自体は非常に明快で、この映画が描こうとしているものを推察することはそれ程困難ではない。しかし、それでもやはり、初めて観る際にはなかなか理解が難しい場面もあるように思われる。ここでは、そうした場面の中から、二人が川を渡る場面を取り上げる。
 本作を「難しい」と感じてしまう理由は幾つかあるように思われるが、真千子がどのような仕方で息子の死を抱えているのかに関する情報が最小限しか与えられていないことは、一つの理由だろう。関連すると思われる場面は、第一に、彼女が自室で息子の遺影に線香を具えている場面、第二に、彼女が夫から「なんで手を離したの、なんで自分が生きていて息子が死ぬんだ」と怒りをぶつけられる場面の、わずか2回だと言ってよい。どちらも短く、また老人ホームの喧騒に比して音が少ないため、観客にとってやや印象の薄い場面となってしまってもおかしくはない。しかし、彼女が直接的に息子の死について発言する場面などはないため、この2つの場面の内容、つまり彼女は息子の死を自分の責任だと感じていることが、彼女の死に対する態度を理解する上で決定的に重要であることは疑いない。例えば、彼女の業務態度がやや硬かったり、失敗に対して「すみません」という言葉を口にすることは、単に我々が日常的に慣れ親しんでいる業務上の行動として理解するだけでは不適切である。彼女が夫に叱責される場面で、花を投げつけられた彼女が俯きかげんで「ごめん」と口にすることと重なり合う部分があると考えるのが適切だろう。
 このような彼女の状態に対する理解が決定的に重要であるのが、二人が川を渡る場面である。真千子はしげきに付き添って、彼の妻の弔いのために森を訪れる。しげきは途中転倒しつつも、雨の森をずんずん奥へと進んでゆく。二人は森の中を流れる小川に差し掛かる。川を渡って向こう岸に行こうとするしげきに、真千子は声を荒げ、川を渡らないで、行かないでと泣き喚く。しげきはその静止を振り切って川を渡ろうとするが、雨のため水量が増えてしまう。森が弔いの場所であるならば、川を渡るという行為は当然霊的な世界と接触を持つことを意味している。妻の弔いのために森を訪れているしげきの行動はこの点と関連するが、真千子の行動の理解のためには、これに加えて、彼女の台詞にもある通り「川が危ない」ことが決定的に重要である。彼女の夫が、彼女が「手を離した」ことで息子が死んだと言っていたことを踏まえると、彼女の息子は水難事故で亡くなったのだろうと推測が立つからだ。この場面は、しげきが死んだ妻との交流へと向かう姿を描いているだけではなく、真千子が息子の死に直面している場面でもある。この点を理解しないと、何故彼女が泣きながら「ごめん」と叫んでいるのかさっぱりわからない。しげきは真千子の様子に気付いて彼女のもとに戻り、方丈記の冒頭「行く川の流れは絶えずして…」をささやいた後、肩や頭を撫でて彼女の慰める。私は高校時代「古典」の授業が大嫌いで、当然方丈記の冒頭の文句などは理解する気にさえならなかった。「日本人の死生観」やら「日本人の美意識」やらをありがたいものとして押し付けられているような気がして、古典と名の付くものはどうも好きになれなかった。しかし、「川」にかけた洒落た引用を通して作品がもつ死生観を見事に表現し、遺された者たちの心のつながりを描くことにも成功している点で本当に感動した。方丈記が描こうとした世界観をどこか垣間見たような心持にさえなった。
 この映画は、二人が弔いを終えることをもって終わる。しげきが持参したオルゴールの音を鳴らしながら、真千子が森を仰ぎ見る。笑い声を漏らす彼女が見えなくなると、画面はまた森へと帰っていった。(HRK)

『四月の永い夢』


 中川龍太郎監督は、東京国際映画祭に出品された『愛の小さな歴史』『走れ、絶望に追いつかれない速さで』は鑑賞済みだが、どちらも好きな映画ではない。『愛の小さな歴史』に関しては端的に面白くなかったし、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』も(監督の実体験に基づくとのことだったのでこういう言い方は失礼だろうが)ありふれた筋書で、あざとさのようなものすら感じてしまった。しかし、全く記憶に残らなかったと言うと嘘になる。2本とも、失われた過去を乗り越えられない若者が今を生きるために過去に向き合う話だが、この筋書自体は嫌いではない(私が 2017年映画ベスト と題した記事で『光と血』を高く評価していることを見よ)。特に、一方で喪失を乗り越えなければならないものとして描くのではなく、他方でそこに耽溺すればよいものでもなく、むしろ向き合うことで今をより良く生きることができる源泉として描く姿勢は好みだった。気を遣った言い方をすれば「もう少し洗練されれば良いのに」というのが、彼の映画について思っていたことだ。そして、「この作品は洗練されているのでは?」というのがトレーラーを観た時点で、本作に持ったイメージだ。主演の朝倉あきが喪服を着て大写しになったポスターも印象的で、正直かなり期待していた。モスクワ映画祭で2部門受賞。

 結果としては、『四月の永い夢』も Not For Me だった。致命的だったのは、最大の見せ場で頭に「?」が浮かんでしまったこと。主人公・初海は元カレの死を引きずっており、そのショックから音楽教師の職を辞している。終盤、元カレの実家にやってきた初海は、彼の母親と二人で彼のアルバムを眺めている時に、突然「実は彼が死ぬ四か月前に別れているのです」と告白して涙を流す。これをきっかけに彼女の中で止まったままになっていた時間が動き始めることからも、これがこの映画にとって最大の山場と考えてよいと思う。しかし、何故「彼が死ぬ時まで恋人だったわけではなかったこと」を告白することで彼女が楽になるのかはとっさに推測できなかった。恋人としての彼を失ったと感じていたが、彼とはもう別れていたと告白すること、つまり彼の恋人ではない自分自身を取り戻すことで彼の死に対する感情に整理をつけたというのが恐らく正解に近いところなのだろうが、クライマックスを理解するために与えられている情報、あるいはクライマックスを予告する助走などの配慮が少なすぎる気がした。
 そもそも鼻につく無理やり感満載の設定が多い(例えば、あんな古風な部屋に住んでいる人がいるのか…?)のだが、演出も多く好みではなかった。手紙の文面をそのまま画面に表示する演出は、映画で、少なくとも山場でやることではないと思う。映画の冒頭に置かれたナレーションは文章が小説のようで苦手だが、終盤で同様の演出が繰り返される点は魅力的。冒頭では喪服姿だった彼女が終盤では明るい衣装に身を包み、彼に宛てて手紙を読み上げる。しかし、何故終盤では冒頭同様の構成を採用しなかったのか……細かく切り替えて彼女以外の人物を見せるのではなく、彼女だけに絞ってどっしりと見せた方が好ましかったのではないか。絶望的にセンスがないと思う。なお、初海に想いを寄せる男性が初海に教えてもらった曲をリクエストして、初海がそれをラジオできいて笑う場面でこの映画は幕を閉じる。エンドロールが映画の続きになっている(つまり、初海のためにかけられた音楽を初海が新しい恋を感じながら聴いているということを意識しながら聴かなければならない)という演出は好み。彼女が「一人で音楽を聴いていると沈んでしまうこともあるが、ラジオで聴くと勇気づけられる」と言っていたこともこのラストに対する伏線である。

ただし、エンドロールが本編の続きになっているという演出はありふれたもので、例えば『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の例は有名だし、2015年にカンヌ国際映画祭に出品された『アクエリアス』も記憶に新しい。(HRK)

『シェイプ・オブ・ウォーター』

NOT For Me。金獅子賞受賞の報に期待を膨らませていたがために、うまく楽しめなかったのは残念極まりない。アカデミー作品賞受賞。清掃員であるイザベラと、施設に収容されている半魚人との恋愛を描く。
 『美女と野獣』『シザー・ハンズ』など従来の異種婚姻譚では内面の美しさに女性が惹かれていくものも多いのに対し、本作ではむしろ外見の美しさが女性の恋愛感情を掻き立てている(イライザは彼を一目見て惹かれている)。これは少し思い切った戦略だと思うし、個人的にはこの戦略が鑑賞の大きな障壁となった。外見が恋愛の中心に据えられた場合、観客が登場人物の外見をどのように思うかが、観客が二人の恋愛に夢中になれるかと密接に関係するように思われる。イザベラの外見の評価はともかく、未知の生物の外見を観客が恋愛対象として魅力的だと思うかどうか……個人的には、異種婚姻譚には向かない方針だと思う。
 もっとも、この戦略は「野獣が王子様に戻らない『美女と野獣』を目指した」という監督の覚悟として受け止めるべきなのだろう。また、上述の楽しめなかった理由はいちゃもんの範囲を出ないと思われる。外見だけを重視する「軽薄」な恋愛と対置すれば、外見よりも内面を重視する恋愛は「真剣」に受け止められるかもしれない。しかし、こうした立場は男性にとって都合の良いストーリー構成ともいえる。例えば、『シザー・ハンズ』で、男性主人公は奇妙な容姿をしているにも関わらず、女性主人公は街で評判の美人として描かれている。外見よりも内面を重視した恋愛という立場は、時に男性にとってのみ都合の良いものになりがちである。私も女性が美人に設定されているせいで恋愛観に説得力を感じないという理由で『美女と野獣』も『シザー・ハンズ』も好きな映画ではない。この点、本作では女性が冴えない女性として描かれるだけではなく、半魚人はその外見の神々しさも強調されている。このことにより、そもそも奇妙な容姿/美しい容姿の二分法が、従来の作品が前提としてきたものなのかを問い直す構成になっているように思われる。この問いかけは、外見の魅力が分からなかったから作品についていけなかったという感想と関係していると思われる。つまり、私自身はこの問いに対して、従来の作品で前提とされてきたものという回答を感覚的に行い、映画の描こうとしたものとディスコミュニケーションに陥ってしまったのだろう。作中で、イザベラは二人の関係性をこのように語っている ——— When he looks at me, he doesn't know how I am incomplete. He sees me as I am. 
 何はともあれ、鑑賞している最中の私は、二人の恋愛にやや置いてけぼりを喰らってしまっていた。それ故に、二人の恋愛が運命づけられたものであることを補強する要素に随分と助けられた。特に、イライザの設定に工夫が見られたのが良かった。声帯に障害を抱え話すことができないこと、冒頭で「声を無くしたプリンセス」と紹介されていること、川に捨てられているところを発見されたと紹介されていることなどから、イライザと人魚姫の繋がりが想起される。イライザの首筋に引っかき傷があるのも、鰓を模すための設定だろう。イザベラが実際に人魚であるかどうかは別として、彼女が人魚と関連付けられていることは疑いなく、半魚人と恋に落ちることを自然に感じる上でこの設定が果たす役割は大きいように思えた。この点に関連して、イザベラと半魚人の恋を描く際に「水」が重要な役割を果たしている。半魚人が泳ぐ研究室の水槽から、イライザが浸かっているバスタブ、さらに卵を茹でるガラス製の鍋へと流れていく「水」に纏わるシークエンスが非常に印象的(茹で卵は二人の恋愛にとって象徴的な役割を果たす)。ここでは、水を通してイライザの生活に彼とのつながりが感じられるようになってきたことが示されている。なお、このシークエンスの中にバスタブが挿入されていることは非常に重要。映画の冒頭では主人公が朝バスタブで日課である自慰行為を行う様子が描かれているが、この一連の映像にバスタブが挿入されることで彼の存在が性的に意識されていることが暗示されている。このことを受けて、彼との性交渉を描く場面でもバスタブが設定に絡んでくる。(HRK)

WHY I LOVE VOC@LOID

 VOCALOIDを追いかけ続けて10年がとうに経ちました。春先に作ったATBですが、せっかくなので記事にしました。文章を書かなくても成立する記事は有難いです。なお、自己紹介用に作った直近の10選にも入れた楽曲には★をつけました。何かのご参考に。YouTubeにも公開されている楽曲も、引用はニコニコ動画に統一しました。
 
【2008】
フキゲンワルツ

 

★サジタリアス

NEVER CROSS U

 
【2009】
magnet

Mrs.Pumpkinの滑稽な夢

 
【2010】
メランコリック

ラセンナワタシ

思慮するゾンビ

月翅

 

【2011】

メテオ

★Blue Bird

 
【2012】
あなたのおもひで

恋のI・RO・HA教えます

★君の夢をみたよ

ウィンター・ハッピーナイト

 
【2013】
★蜜月アン・ドゥ・トロワ

melting snow

★特急ひとめぼれ

 
【2014】
世界が愛した数式を理解することが、私にとっては困難だ

ミルククラウン・オン・ソーネチカ

この声のその理由は

エレキキュレーター

柑橘ネコぱんち

 
【2015】
永遠なんて知らないよ

パズルガール

メリュー

唯々なりレイデエ

 
【2016】
キドアイラク

Alice in 冷凍庫

ライアーダン

★七つ夜空の願いごと

 
【2017】
★シグナル

ネイビーブルー

ピニャコラーダ

Ordinary

★オータムリーブス小春日和

 
【2018】

ゆらゆら

読書ノート

牛田徳子『アリストテレス哲学の研究 - その基礎概念をめぐって』(創文社, 1991) 

アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

 

 以前より、何かを論じるだけでなく「過程に属するもの」の中から特に印象に残ったものを公開する場としてもこのブログを使いたいと思っていた。最近論文がうまく読めないとずっと悩んでいたが、かつて楽しみとして読んだ論文の読書ノートでよく書けているものがあった。答えは自分の中にあったと気付くと同時に、これは公開するのに適当だろうと思い、この機会に公開しておく。NICHICAと『形而上学』を読んでいた頃のもの。また読書会をやりましょうね。

 第一章では実体概念を扱う。牛田は「実体」を筆頭とする範疇の不完全枚挙がアリストテレスの全著作中に数多く登場することに着目する。このことから「範疇の第一位にあるもの」という実体の標識は無視できない。「範疇」という語はギリシア語において「述語」に連なる。このことから、「実体」は述語の一種の分類の第一項であるとみなすことができる。一方で、『範疇論』*1 に基づき、実体は主語的な性格のものであるとする根強い解釈がある。しかしながら、実体が主語的な性格のものだとしたならば、それは述語という原義を持つ範疇に入らないことになり、範疇の第一位は空位になってしまう。この点、実体を主語的にとらえる論者は『範疇論』において実体(ウーシア)が第一実体と第二実体とに区別されたことに着目する。第一実体とは個別的なものであり、第二実体は実体の種や類のことを指す。つまり、第二実体は第一実体に対してそれの普遍主語とみなされる。この第二実体を範疇のなかに含め、一方で主語的な第一実体を範疇の外におくのである。第一実体と第二実体という呼称は『範疇論』以外の著作には見出されないが、ここで示された実体の二重性格は他の著作の解釈にも根を下ろしている。範疇の第一位にあるものはウーシアの他、「トデ・ティ」(「或るこれ」と訳す)と「ティ・エスティ」(「何であるか」と訳す)とも呼ばれる。D.Ross は『形而上学』ゼータ巻の冒頭に登場するこの二つの呼称を次のような実体理解の中で位置づける*2 。すなわち、「何であるか」は事物の中にあって最も真にあるもの(=普遍的本質)であり、「或るこれ」はいかなるもののうちにもなく、それ自身によって存在するがゆえにもっとも真にあるもの(=個物)であると。これを図式的に整理すると以下のようになる。

実体 ー 第一実体 主語 個  基体 或るこれ

   ー 第二実体 述語 普遍 本質 何であるか

 牛田はG.R.G.Mure の議論を紹介しながら、こうした「実体」概念の自家撞着性を問題とする。第一に、個別的実体が主語の座におかれるなら、それはそれ自体としてなにものでもなくなる。つまり、特定のものからその「何であるか」を差し引いた場合、そこに残るのは「これ」と指さされるほかはない無名の「もの」だ。これをD.Ross が「それ自身によって存在するがゆえに真にあるもの」と評価したのは、誇大妄想ではないか。第二に、『範疇論』がのちになって「第二実体」の概念に重大な修正を行っていることも注目に値する。つまり、種とか類は、実態の質や性格を表すことによって実体を限定しているとされるのだ。これはアリストテレスの他の著作に見られる「普遍実体否定説」と明らかな食い違いを生じさせる*3 。このことは、「第二実体」さえもが第一の範疇の座から滑り落ちてしまう結果になることを意味する。以下では、上で見てきた「実体」が主語的か述語的かという問題について、論理的な検討がなされる。

 はじめに、牛田は第一の範疇の呼称に着目し、これが実体の主語的な解釈を支持するかを検討する。まず、アリストテレスが複数の範疇を列挙している箇所を用い、そこで用いられている第一範疇の呼称の種類と頻度数を調べる。この際、列挙される範疇の数と種類は流動的であるが、呼称から判断して、実体と非実体の区別は確定的になされている。第一範疇の呼称のうち「ウーシア」「トデ・ティ」「ティ・エスティ」についてその単独での使用の頻度数を見ると、全著作を通して「ウーシア」は16か所、「トデ・ティ」は21か所、「ティ・エスティ」は18か所である。これら三呼称は同様に実体を指すに足る市民権を得ていると言える。このことから、『範疇論』で区別された「第一実体」と「第二実体」に対応するような実体の呼び方の区別は、他のほとんどすべての範疇列挙の箇所には見られないといえる。次に、牛田は「トデ・ティ」と「ティ・エスティ」が現れている場合に着目し、この二つの呼称が文脈の中で主語的ないし述語的に用いられているものを探す。この結果、「トデ・ティ」は主語的にも述語的にも、「ティ・エスティ」は述語的に用いられることが分かり、また述語的に用いられた「トデ・ティ」は「ティ・エスティ」と同じ扱いを受けることができるとする。従って、「トデ・ティ」が常に主語的に用いられるとは限らない。最後に、牛田は第一範疇の呼称として上で扱ったもの以外に疑問詞「ティ」と不定詞「ティ」が同じ用法を担うことを紹介する。その上で牛田はこれらを「トデ・ティ」「ティ・エスティ」との関連で検討する。「トデ・ティ」は指示詞「トデ」と不定詞「ティ」が組み合わされているが、不定詞「ティ」がしばしば省略されることから「ティ」を一種の不定冠詞、「トデ」を指示代名詞とみなしてよい。また、「ティ・エスティ」は疑問詞「ティ」と動詞で組み合わされているが、動詞が省略され疑問詞が単独で用いられることがある。従って、実体範疇の呼び方は、指示的な「トデ」と疑問詞的な「ティ」と不定的な「ティ」の三種類に整理できる。このような指示的、疑問詞的、不定的な範疇の呼称は「実体」の他にも「性質」と「分量」においても確認されることから、三様の呼称はただ範疇を指し、それぞれは語の意味機能(指示的であるか、疑問詞的であるか、不定的であるか)においてのみ差を有すると解される。従って、実体呼称に関する限り、「実体」を主語的に解釈する十分な典拠はみあたらないとされる。

 続いて牛田は、A.N.Whitehead の実体概念理解を批判する。彼は実体は属性を担う基体でありながら、その属性によって記述されなければそれ自体あることができないようなものであるとした。このように実体と属性の関係を相関的に捉えることは、実体が属性述語の基体であることと、実体がそれ自体であることを同一視することを意味した。しかし、そのように解すると、実体が属性Fをもつとき、「FであらぬものはFである」という明らかな矛盾が生じる*4 。従って、実体がそれ自体であることと属性述語の基体であることは混同されてはならない。また、牛田はこの実体と属性の関係をアリストテレスが言い表した箇所を整理し、実体に対する属性の依存関係が明らかにする。すなわち、実体はそれ自身以外の何物にもよらずにそれ自体であることができるものである一方、属性はそれ自身以外のなにものかによってそれであることができるものだ。ところで、以上のように実体と属性の関係を理解することが、実体の主語的性格について理解する鍵になる。アリストテレスの著作には「実体は他のものについての述語にならず、かえって他のものがそれについての述語になる」と類似する表現が無数に見出される。ここに示されることに従えば、実体は主語的性格をもつもので、実態にとって「他のもの」は存在しない。一方で、属性は実体であるところの「他のもの」にかかわる。このことから、ここにいう「他のもの」とは、「当のもの自身以外のもの」という意味だとわかる。さてここで、実体にとって「他のもの」が存在せず、従って実体が「他のもの」の述語にならないのは、実体が自ら以外のものであることなく、まさにそれであるところのものであるからだ。この根拠なしに上に挙げた有名な表現を理解するのであれば、実体概念にとっては破壊的なことである*5 。そこで、牛田は先の有名な表現では実体がそれ自身についての述語になることが妨げられていないことに着目し、この問題点を克服する。「他のものについて述語になる」という述語の用法に留まる限り、実体は主語的性格のものであるが、「他のものについて」という限定は実体の自己規定性を前提とするものだということだ。このとき、実体は第一義的に自己述語的な性格を持つのではないか。

 牛田は『分析論後書』から「自ら自身についての述語になる」という表現を含む部分を検討し、「自ら自身についての述語」「「何であるか」を表す述語」「それ自体とは異なるものではなくそれと言われるまさにそのものと言われるもの」はそれぞれ等しく同じものを指しているとする。また、このうち、「何であるか」「それ自体とは異なるものではなくそれと言われるまさにそのものと言われるもの」は実体表現である。従って、「自ら自身についての述語」とは「何であるか」「まさにそれであるところのもの」を表す述語である。なお、文法的連関から「何であるか」と「まさにそれであるところのもの」は同じ意味で使われる。次に、牛田は「まさに或るこれであるところのもの」(『形而上学』1030a3-6)という表現に着目する。これは先の三つの表現と同じものを指している。「まさに或るこれであるところのもの」という表現は「まさにXであるところのもの」のなかに、実態の呼称である「或るこれ」が述語として挿入されたものである。 ここで牛田は『形而上学』ゼータ巻にみられた「実体的疑問文」を検討する。「或るこれは、何であるか」はいまや「或るこれは、まさにそれであるところのものであるか」と読み替えることができる。そして、この疑問文に対する回答は「或るこれは、まさに或るこれであるところのものであるか」という肯定文が対応する。この肯定文は実体が自己の述語であることを我々に理解させる。ここまでくれば、「まさにXであるところのもの」という表現が当然注目される。これは、Xであるものがあるとすれば、当のXそのものと、Xであるそのことが一致していることを意味している。「それぞれのものは自らの実体にほかならないと考えられ、そして本質はそれぞれのものの実態であると言われる」(『形而上学』1031a17-18) はこのことを表している。ここにおいて、実体はそれぞれのもの「それ自体」でありかつ「本質」でもあるようなものとして構想されている。このすぐあとで、アリストテレスプラトンイデアについて言及している(『形而上学』1031b11-15)。アリストテレスの実体概念はプラトンイデア概念から影響を受けたものであることは決定的である。プラトンイデア的表現「それぞれのものがまさにそれであるところのもの自体」「まさにそれぞれのものであるところのもの自体」とアリストテレスの実体的表現は構文と内容において一致しているのだ。

 第一章第五節は、第一章においては補論であると同時に、第三章への導入という役割も果たしている。このことから、第三章に言及する機会があれば、そこで触れたいと考えている。

 

*1 牛田はこれを偽作とみなす立場に立つ。第六章第二節参照。

*2 例えば、” なぜならわれわれは「これはどのような〔性質の〕ものか」と言えば、「善いものだ」とか、「悪いものだ」と述べて、「三ペーキュスある」とか、「人間だ」とは述べないが、「何であるか」と言えば、「白いものだ」とも、「熱いものだ」とも述べないで、「人間だ」とか、「神だ」と述べるからである ” (『形而上学』1028a10-18 以下、特に断わりがない場合を除き牛田の引用を孫引き)。この引用にみえる「何であるか」という問いは、「これは何であるか」と読み替えることができる。これは「或るこれ」を主語に、「何であるか」を述語に見立てて出来上がっているかのようにみえる。これを「或るこれ」と「何であるか」がともに実体を指しながらそれぞれ主語的または述語的に使われているとする見方に当然牛田は距離をおくが、ここでこうした疑問文を「実体的疑問文」と名付けている。

*3 本書第六章第二節参照。

*4 牛田はこのことをパルメニデスの「存在」概念に関するアリストテレスの記述に基づき、アリストテレスの代弁者としてこの矛盾を指摘する。つまり、「存在」が「まさに存在であるところのもの」を意味しないのであれば、「存在」はなんらかの基体に付帯する属性述語でなければならない。そうすると、その存在述語が付帯するところの当の基体自体は存在ではないことになる。従って、存在ならざるものが存在であることになる。パルメニデスは「あらぬものがあることはけっして証しされないであろう」というのであるから、これは拒否されるべき結論である。なお、このことから、本文においてこの指摘の後に続く「従って」以下の一文は、牛田がそうする通り、アリストテレスの立場を示すものだとして問題ない。

*5 G.R.G.Mure の批判を参照。また、『形而上学』1029a10-12参照。

 

 私は特に検討を行うこともなく「常に述語される」という主語的性格のみをもって実体概念を理解していたので、冒頭で範疇の語義から実体概念の述語的性格が指摘された時点で自らの理解が一面的なものに過ぎないことに気付かされた。第三節以降の記述には自らの理解が正しくはどのような意味だったかを教えられた。これらにより、漠然と感じていた実体概念のブレをある程度クリアに把握することができるようになった。また、その内容が示される過程では、論理とテクストが両輪とされており、哲学史研究のひとつの理想というような印象を受けた。

『天国はまだ遠い』

 2015年、濱口竜介監督の長編『ハッピーアワー』が映画ファンで話題となった。一般参加者を中心にしたワークショップを母体に制作されたこと、三部構成で5時間以上に及ぶ大作であること、そして何より演技の経験がなかった主演女優4名がロカルノ映画祭で高く評価されたことが注目された。私は2017年に鑑賞の機会をもち、今でも大切な作品だと思っている。たっぷりとした時間を生かして登場人物の様々な側面が描かれ、ままならない中を生きようとする登場人物たちを描こうとする姿勢に好感を持った。設定の強引さはやや目だったが、その人となりがしっかりと描かれているからか、自分の知らないだけで世界にはきっとそういう人がいると受け止めてしまう。面白い映画だなと思った。今年濱口監督の『寝ても覚めても』がカンヌ国際映画祭に出品され、名実ともに日本映画界の未来を背負う存在となった。ここでは、『天国はまだ遠い』の感想を残しておく。

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『天国はまだ遠い』は次のような映画。物語は、男・雄三はアダルトビデオの編集を仕事としている場面から始まり、それをそばで少女が眺めている姿が写される。雄三のもとに、五月から連絡が届く。彼女は、かつての高校の同級生で在学中に殺人事件に巻き込まれて亡くなった女子生徒・美月の妹である。五月は映画学校の卒業制作として、美月の関係者へのインタビューをもとに、ドキュメンタリー映画を作ろうとしている。雄三が共に暮らしている少女が美月の幽霊であることが二人の会話から明かされ、彼女の言葉を受けて男はインタビューに応じることにした。
 撮影当日、カメラを挟んで雄三と五月が座る様子が五月側から写されるという画面構成。つまり、雄三を撮影する五月の立ち位置にカメラが置かれる。この時、美月は部屋にいる設定だが、画面から外れている。実は男は生前の美月とはほとんど関わりがなかった。五月の意図は、雄三が美月の死後に美月の名で男子生徒に告白をした背景を聞き出すことにあった。すると、雄三は美月の霊に憑かれていて今まで一緒に暮らしてきたと説明する。そして、霊媒師のように美月として、五月に語りかけ始める。五月はこれに半信半疑で美月として対応するが、幼い頃の話の齟齬などから、からかわれたと感じて激怒する。しかし再び男が美月として五月に話しかけたとき、五月は彼に美月に対する想いをぶつけ、二人は抱擁し合い、五月は泣きじゃくる。二人が抱き合うのをやめ、男が「よい画がとれたんじゃない?」と声をかけると、五月は「使えるわけないでしょ」とこれに返す。五月と別れた帰路で彼は美月に唐突に恋愛感情を告白し、雨の中で二人が並んで家路につく。「天国はまだ遠い」と美月のナレーションで映画が終わる。

 30分足らずの作品で異様な世界観をうまくまとめきった傑作だと思う。クライマックスにあたる雄三と五月との会話において、非常に難しい演出をしている。
 この映画の前半、つまり、雄三と美月との生活の描写において、また五月と雄三が初めて出会う場面において、美月は幽霊として存在しているものとして描かれる。「男に幽霊が憑いている」という設定が、幽霊の姿をはっきりと写すことで示されている。
 この前提がドキュメンタリー映画の撮影の場面では崩れる。まず、美月が画面にほとんど登場しない。そして、五月は美月がいるという世界観を共有していない。例えば、雄三が自分に美月が憑いていると説明したことを悪意ある嘘だと受け止めて屈辱的だと思っている。
 このことにより、観客は、「男に幽霊が憑いている」という前半の理解を相対化して、「男が幽霊が憑いているという妄想を信じている、あるいは幽霊が憑いていると嘘をついている」という話なのではないか?と疑わざるを得なくなる。この線をなぞるように、五月が雄三にからかわれたと憤り「どうやって(美月を騙るために)私やお姉ちゃんのことを調べたの?」と問い詰めると、「今の時代調べる方法はいくらでもある」と男は返事をしている。
 しかし、五月には真実の確かめようがないように、観客にとってもどちらの物語が正しいのかははっきりとしないまま映画が終わっていく。もちろん、仮説を立てて解釈を進めることはできるが、物語は美月が「いる」とか「いない」とか、つまり男は「幽霊が憑いている」のか「幽霊がいるという妄想に憑かれている」のかという疑問に答えを出すところとは別の次元で進んでいるように思える。むしろ男に「幽霊が憑いている」のか「幽霊がいるという妄想に憑かれている」のか分からないことこそこの映画の肝であるように感じた。
 五月は美月の幽霊が男に憑いているという話を疑っている。「使えるわけないでしょ」という彼女のセリフが示すように、彼女は美月の幽霊がいるという話を心のどこかではばかげた話だと思っている。しかし、一方で美月に想いを伝えたいという気持ちも持っている。そして、五月は結局この気持ちに身を委ねる。つまり、雄三を美月として扱う。このように、彼女は信じたくないという気持ちと共に、信じたいという気持ちも持っていて、その狭間で揺れ動いている。これは「男に幽霊が憑いている」のか「男は自分に幽霊が憑いているという妄想に憑かれている」のか答えが出ないからこそ成立する状態だ。分からないからこそ感情の高ぶりにまかせて、自分の理性に反した行動をとることができる。
 観客もこれを追体験させられる。雄三の話の真偽を五月の側に立って(まさにカメラがそこに置かれたように!)探るからこそ、五月がのめり込むように美月への想いを語り男を抱きしめる場面にも、その後五月が自分の行動に戸惑い自嘲する場面でも、寄り添うことができる。

 さて、作り手の側に立てば、これが如何に大変な作業かがよくわかる。「幽霊が男に憑いている」ことを疑いもしない観客に、男は「幽霊に憑かれている」のか「幽霊が憑いているという妄想に憑かれている」のかという問いを突きつけながら、しかし観客にその問いの前で宙づりになってもらうことで初めて、五月の感情の機微を観客に読み取ってもらうことができる。この点、30分ではさすがに不十分だったようにも思われるが、よく考え抜かれていた。
 まず、観客に「幽霊が男に憑いている」ことを信じさせる仕方が上手だった。前半部では美月が基本的に常に画面に写っている。中盤になるまで彼女の正体が分からないため、観客は「彼女が誰なのか」に疑問を持っている状態になっており、「彼女は男に取り憑いた幽霊である」という説明がその疑問に対応しているため、観客はその少し変わった設定を受け入れることができる。また、美月が幽霊であることを明かされる場面は、五月と雄三との長尺で動きのない会話劇の直後であるが、この会話劇は設定に重きが置かれ、物語の進行が一旦止まっているために観客は刺激、つまり物語の具体的な展開を欲している状態に置かれる。従って、美月が幽霊だという物語の根幹にかかわる動きを観客は歓迎しやすい状況に置かれているのだ。さらに言えば、この場面は初めて美月にセリフがあてられる。それは雄三を口悪く罵るものであり、ここに現在の美月の人物像が示される。このように、ここで美月に関する情報が一度に明らかになることで、幽霊であるという設定が相対化され受け入れやすいものになっている。
 五月が露骨に疑うので「いる」か「いない」かの問題化自体は特に問題がないが、その問いの解答が不可能であり焦点は別の場所にあると観客に悟らせるのは限界があったかと思う。私としては、話がごたごたしていく様子は、五月自身自分の行動をうまく制御できていない印象と重なって好印象だった。

 時間がとれておらず、未見なのだが、『寝てもさめても』に期待している。

追記:『寝ても覚めても』を拝見したが、非常に退屈な映画でした。脚本でやりたいことが多すぎて、どうもパンクしていたという印象。(HRK)

朝日新聞の誤訳を糾弾する

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昨日(2018/10/16)付の朝日新聞の記事を見ていたら,かわいそうなくらい馬鹿な誤訳に思わず鼻で笑ってしまったので、それを記事に書こうと思う。

その記事とは,米大統領、失踪記者巡り国防長官をサウジへ ならず者関与示唆」とかいうもの。

 これはどうやらいくつかのロイターの記事からまとめた日本語訳のようなのだが、この記事を読んでみよう。この記事を読むと、先日のサウジアラビアの記者失踪事件について、トランプ大統領が「ならず者の殺害者が関与している可能性もある」と言い、それを受けてとある民主党議員が「『ならず者の殺害者』という馬鹿げた見解にサウジは同調するだろう」と批判ツイートをしたなど、「ならず者の殺害者」というフレーズが目に着く。しかし、「ならず者の殺害者」が云々と言われたところで、何が何だかよくわからない。だれもが、「それ、誰やねん!?」と突っ込みたくなるだろう。

その上常識的に考えて、普通新聞の見出しに「ならず者の関与」なんて変なフレーズが踊るだろうか? いや、そもそも人殺しとはすべからくならず者のなせるワザでは無いのか? となると、「ならず者の殺害者」など、同新聞社の天声人語同様、何か言っているようで何も言っていないのと変わらない、何が何やら分からない怪文書なのだ。

さて、謎解きといこう。以下にロイターの元記事の一つのリンクを貼っておく。

www.reuters.com

見出しにもある通り、「ならず者の殺害者」とはトランプ大統領の "I sounded to me like maybe there could have been rogue killers. Who knows?"*1という一昨日のコメントから訳したものだろう。確かに "rogue" は直訳すると「ならず者」だし、北朝鮮みたいな国を "rogue state" 「ならず者国家」と言い習わす。*2したがって、自分では英語ができると自惚れている(だろう)朝日新聞の海外特派員か誰かが、 "rogue killers" を「ならず者の殺害者」と直訳したことは容易に想像がつく。だが、そもそも "rogue" は名詞である "killers" の前に置いてあるのだから、常識的に考えて形容詞として解釈すべきだ。*3そして形容詞の "rogue" の意味は、インターネットの無料辞書にさえ乗っている。辞書くらいきちんと引いてほしいものだが、勉強不足の朝日記者のために代わりに載せて置いてあげよう。以下の引用はアルクの「英辞郎」からである。

rogue

【形】

  1. 〔動物が凶暴で〕群れから離れた
  2. 〔人が孤立して〕自分勝手に行動する、面倒を起こす

 ここでは明らかに2の意味で解釈するべきだろう。ドナルド・トランプ大統領が言いたかったのは、要するに「サウジ政府の意向と関わりなく勝手に行動した奴らが失踪した記者を手にかけて殺したのかもしれない」、ということだ。こう読まないと、なぜ、このトランプの「馬鹿げた見解にサウジが同調する」(某民主党議員)という批判があるのかがわからない。ちなみにその理由とは、朝日の記事の後半にも一応きちんと書かれている通り、サウジアラビア政府にとって同政府が関与していないという見方は、つい先日にトランプから「サウジが失踪に関与してたらサウジ潰す」(意訳)的な脅迫をされていたので、願ってもないものだからである。ああ、悲しいかな、ここら辺の事情を実はよく理解しないままに記事を訳していたことが、透けて見えるのだ。

この日本を代表する全国紙の残念な誤訳は、同紙の記者が英語がわかっていなかっただけでなく、政治的文脈にさえも疎いままに記事を書いていたことの証左に他ならない。普段から「トランプは馬鹿」(意訳)的なことを繰り返し書いてきた朝日新聞が、その馬鹿なトランプ大統領の言葉すらも理解できなかったというところに、この新聞社の悲哀がある。このブログ『鴨川日記』もネットメディアであるから、既存の新聞がネットより質が低いという流行りの言説も、あながち間違いなどではないのである。*4

 

SPQR

*1:訳すると「私見では、多分一匹オオカミ的な殺し屋たちがいたってのもあり得るように思われるが、一体誰に真相がわかろうか?」くらいになる。

*2:厳密にはこれも後述の理由により誤訳。

*3:かりに名詞として取るとしても「ならず者をターゲットにして殺しをする殺し屋」くらいの意味にしかならない。そしてこの苦しい解釈も後で確認する通り、文脈に合わない。

*4:ちなみにこの記事を書いているSPQRブルジョワ朝日新聞よりも左翼だから、そこのところは誤解しないように、賢明な読者の皆々様に冀う。