鴨川日記

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Ted Hughes, 'Macaw and Little Miss' とは一体全体何についての詩なのか?

原文(左)

Hungarians in Babel :: Hughes, Ted: Macaw and Little Miss 

1.性的トラウマ

この詩に登場する少女は明朗闊達な印象を与える女の子として登場する。

    The old lady who feeds him seeds

Has a grand-daughter. The girl calls him ‘Poor Polly’, pokes fun.

‘Jolly Mop.’ (3. 1-3)

 しかしこの少女がただならぬ内面を抱えている存在であることは、次のセンテンスの冒頭の逆接 ‘but’ 以降によって鮮やかに示される。

                     But lies under every full moon,

The spun glass of her body bared and so gleam-still

Her brimming eyes do not tremble or spill

    The dream where the warrior comes, lightning and iron,

    Smashing and burning and rending towards her loin: (3. 3-7)

ここでは、夢を少女が見ている場面が展開されている。その夢の中で少女は、粗暴な戦士に襲われており、いかにもフロイト的なファリック=シンボルである尖ったもの、つまり ‘lightning and iron’ でもって暴行され、強姦されそうになっている。ここの描写では、稲光や戦士が持っている武器が男根の象徴として描かれているとするならば、それに対応するように、少女の側には、円のイメージがついて回る。彼女が夢を見るのは’full moon’ の夜であり、彼女の身体は ‘spun glass’ に例えられており、また、「彼女の目は、まばたきすることなく見開いて」 ‘Her brimming eyes do not tremble’ 涙を溢れんばかりにためているようだ。こうした円のイメージは、フロイト的には当然女性器のイメージに重なる。

 さて、彼女は昼間こそ陽気な少女である。しかしながら、夢は無意識への王道であって、強姦される夢は、彼女を苛んで放さない何かしらの性的トラウマの表出のように思われる。現時点においてこれは想像に過ぎないが、この詩において少女の両親、殊に父親が存在しないこと、そして少女が祖母の家に女二人で住んでいるように思われることから、少女がかつて父親、あるいは本来保護者たるべき大人たちから性的な虐待を受け、祖母の家に身を寄せた可能性があるのではないかと疑っても良いだろう。その問題を検討するために、まずは少女とオウムとは如何なる関係があるのか、このことを検討していく。

 

2.ファルスとしてのオウム、籠の鳥としてのオウム

ここでオウムはファルスを象徴するものとして描かれているということを指摘したい。まず、オウムを照応する指示代名詞には he が使われており、オウムは雄として描かれている。また、オウムは尻尾が長い鳥であるので、細長いく尖ったフォルムがフロイト的にはファルスと言えよう。その上で、彼女の夢の中の強姦シーンとオウムの描写の間の、幾らかの対応する点(すなわち、オウムが火と関連づけられていること (1. 2-3; 1. 5; 2. 1-3) と、鉄の拷問具に似ていると言われていること (1. 6) 、さらには ‘thunderous’ (2. 5) なものと関連づけられていること、これらは ‘lightning and iron,/Smashing and burning and rending towards her loin’ に対応する)から、オウムと少女の夢の世界の強姦者との間には強い関連性があると言えそうだ。少女がかつて性的暴行を受けた経験があるのであるならば、彼女の兵士に襲われると言う夢は、いわゆる夢の検閲を受けて思い出された過去になるだろう。

 ここで、 ‘The old lady who feed him seeds/Has a grand-daughter’ (3. 1-2) という記述を思い出してみたい。そうすると、オウムが一体全体どういう存在なのか、有効な解釈を提示し得るのではなかろうか。つまり、もしも ‘feed him seeds’ するのが少女の祖母であるのなら、これをもってオウムが祖母の息子、すなわち少女の父親、あるいは少なくとも少女の父親世代の男性権力の象徴であると解釈する根拠にすることも可能なのではなかろうか。そうであるならば、この詩の無意識的根底には父/父親世代による娘への性的虐待に類するがあったのではなかろうか。

 ところで、この詩におけるオウムと少女の権力関係とは、夢のシーンが示すように、常にオウム>少女というわけではない。ある時には、オウムは逆に少女から性的被害にあっているとも言える。オウムは ‘a cage of wire-ribs/The size of a man’s head’ (1.1-2) に囚われた籠の鳥であり、その籠の中で少女の性的な響きのある言動の対象になっているのだ。

‘Polly. Pretty Poll’, she cajoles, and rocks him gently.

She caresses, whispers kisses. The blue lids stay shut.

She strikes the cage in a tantrum and swirls out: (4. 3-5)

ここには声かけから、愛撫、キス、そして無視されると、暴力に至るといった、いかにも現実世界にありそうな性的搾取の一連の流れを見て取ることができる。つまり、少女の一連の行為は、オウムという存在を、性的に収奪しようとしているものである。ところで、そもそもオウムが籠に囚われるのは「観賞用」だからであるが、「観賞用」の籠の鳥として囲われ、男性権力にその存在を性的に収奪されてきたのは歴史的に見て女性という存在であった。そうであるのならば、ここにはオウムと少女との類似点を見出しうる。すなわち、少女がいじめるオウムとは、父親からの性的虐待を受けた少女その人をも象徴するものとなりうる。したがって、オウムは男性性の象徴であるだけでなく、むしろここでは女性性の象徴である。かつて少女は、今オウムが ‘wire-rib’ という肉の牢獄に囚われているように、男性権力(父親であることが強く示唆される)に女性として肉体的に囚われていた。また、‘an aspidistra succumbs/To the musk of faded velvet’ (1. 4-5) というオウム/少女が住まう環境についての描写も、植物的ではなく動物的であること、言い換えると性的であることを望まなくとも、女性が否応なく性的な存在に還元されてしまうような、父権性社会的におけるミソジニーの因習を象徴するかのようだ。そうすると、オウムが怒り狂うということは、少女の内面あるいは言動が、性的虐待の経験のために興奮していることを反映していると言えるだろう。

 

3.ヒステリー

さて、性暴力を受けた少女が興奮状態を示すと周囲の関心をいやが応にも集めてしまうだろうが、オウムは「人目を引く」 ‘staring’ 様子で羽を逆立てメラメラと怒っている (1.2-3)。そして、その怒りを焚きつける存在、すなわち  ‘stolking devils of his eyes’ (1. 3) とは、オウムにとってはオウム自身を「観賞用」として囲っている人間の鏡像、またオウムが少女を象徴するとみなすならば、彼女を性的に虐待した男性権力(父親はそのうちの一人)の鏡像と捉えることもできよう。しかしオウム/少女の怒りは、初めこそ今にも復讐しようと決意した拷問具のように激しい (1.6-8) ものであると語り手に思われても、徐々に弱まってゆき、じきに休火山のようにくすぶり続ける (2.1-4) もの、そしてやがては、ほうほうの体で逃げ出してきた亡命貴族に例えられているとおり、簡単に飼いならし得るもの (2. 4-8) に例えられている。これはオウムの怒りが落ち着いていく様子、あるいは少女が性的に虐待された体験を抑圧し、意識の下に沈めていく様子を徐々にたどっているかのようだ。そう読めば、第三スタンザの少女の夢は、彼女がトラウマ的体験の抑圧に成功し、無意識の領域に押しやることに成功したことを反映しているように思われる。

 しかしながら、無意識の領域に押しやられた体験は、精神分析によると、さまざまな症状をもたらすものとして理解される。実際、この少女は性格がコロコロと変わるヒステリーのような症状が見られる。これは先の2での議論でも見たとおり、彼女が初めは可愛がっているオウムを、些細なことで癇癪を起こして暴行する事実に見て取れる。

 さて、女性がヒステリーを起こすということ、こう言った表象はある意味ではステレオティピカルな偏見を再生産しているということになるだろう。しかし、別の見方をすれば、ヒステリーを起こすこととは、男性権力に対する女性の叛逆と見ることができるかもしれない。この詩の最後に、「籠の鳥」であるオウムは、「飼い主」たる立場の孫娘から性的に搾取、暴行されるがままになっているかのように見えた直後、

Instantly beak, wings, talons crash

The bars in conflagration and frenzy,

    And his shriek shakes the house. (4. 6-8)

と、大変怒り狂っているが、オウムが少女を象徴するものであるのだから、同じく「籠の鳥」として収奪されてきた女性性を象徴しうるものであるのは明白だ。そしてオウム/女性のヒステリーは、普段は従属している相手である「飼い主」たる立場の存在に対し、全く無力だということは決してない。なぜならば、オウムの怒りのヒステリカルな絶叫は「家」を、すなわち家父長制的な社会を構成する単位を、揺るがしているのだから。

 

4.結論

以上の論点を整理すると、この詩においては男性権力による少女の女性性の収奪とそれに対する反抗が描かれていると言える。その中で、オウムは時に男性権力の象徴、時に籠の鳥たる女性性の象徴となっている。女性性の収奪は暴力を伴う非常に性的なやり方で行われているが、搾取された少女の側は、そのトラウマ的性体験に対する怒りや混乱を沈め、その経験を抑圧し無意識の領域、夢の領域に追いやった。しかし、トラウマ的性体験は完全に抑圧されて消えるようなものではなく、むしろヒステリーという症状として少女の性格のうちに出現してきているように思われる。このヒステリーには、女性の男性権力に対する叛逆としての積極的評価を下すことができ、実際に、女性性を象徴するオウムは、表向きにはされるがまま従っているように見えても、その実、ひとたび歯向かえば、­家を単位にした家父長制を揺るがす力をもっているように描かれている。

SPQR

マルクスと読むテッド・ヒューズ,あるいは観念論の敗北と唯物論の勝利について:'The Hawk in the Rain' 論

0.

「かつてある健気な男がいて、人が水に溺れるのは人が重力の思想に取り憑かれているせいだと思い込んだ。この表象を、例えば、それは迷信的な表象だ、宗教的な表象だと言明するといったやり方で人の頭から叩き出せば、あらゆる水難は免れるのだそうな。」(『ドイツ・イデオロギー』 p.15)

 

genius.com

 

1.

Ted Hughesの ‘The Hawk in the Rain’ は、唯物論の観念論に対する勝利を謳った詩である。文学史において鷹は神のメタファーであり、過去の詩人は強風の中悠然と空を舞うその姿に神を見出してきた。[1]ヒューズはそれを大地の上に引き摺り下ろした。

 まず、神と人間との<眼差し>の交換は文学の重要なテーマの一つだった。そこから、詩の解釈を始めよう。ヒューズもまた、過去の詩人と同様に<眼差し>の交換をこの詩に描いている。この詩の語り手は、 ‘the hawk / Effortlessly at height hangs his still eye’ (「鷹は/悠々と高みにその動かぬ目を吊るしている」)と、高みを悠然と飛ぶ鷹の瞬きしない<目>を見上げているが、当の本人の<目>はと言えば、 ‘banging wind [. . .] / Thumbs my eyes’ (「撃ちかかる風が/僕の目を親指で潰す」)が示すように、必死に暴風雨に耐え忍んでいる。鷹が丸々とした<目>を大きく見開いているのに対して、「私」はおそらく<目>を細め、しょっちゅう瞬きをしている様子が容易に想像できる。<眼差し>の交換のひとつをとっても、 ‘hold all creation’ (「全ての被造物を掴んでいる」)している、神たる地位にいる鷹と、 ‘I drawn in the drumming ploughland’ (「僕はピチャピチャ音を立てる耕地で溺れる」)にある通り、ぬかるみに文字通り溺れそうになり、自分の質料たる ‘clay’ に帰らんとしている人間の「私」との間には明確な区別が存在する。

 さて、この両者の関係は、救うものと救われるものという関係に敷衍されてゆく。

 

                                                                  the hawk hangs

The diamond point of will that polestars

The sea drowner’s endurance:

(              鷹は

海で溺れたものの忍耐力を導く

北極星のように輝くダイヤモンドの意思の点を吊るしている)

 

鷹の<目>を指すメタファーである「ダイヤモンドの意思の点」は、海で漂流した船乗りが<見る>ことで方角を把握し、陸への一縷の望みをかけて粘る、そうした忍耐を導く北極星のように、畑で溺れそうになっている「私」に希望を与えるものであると語り手には思われているようだ。鷹の<目>の光は救済の希望の光である。そしてここにも<まなざし>の交換があるが、両者の関係は対等ではない。神たる鷹の視点は上にあり、被造物である人間の視点は下にある。語り手は鷹の<目>という非常に限られた一点を見つめているのに対し、鷹の<目>に映る語り手は1 / all creationにすぎない。

 

2.

ここまでは文学的伝統にそのまま乗っかり、鷹を神として描いているようにも思える。そこで鷹の<目>についてもう少し詳しく見ていきたいと思う。まず、鷹の<目>はダイヤモンドに例えられているが、このメタファーが示唆するのは、鷹の<目>が輝いていることよりも、鷹の「意思」の硬さである。そして、鷹が現在暴風雨の中にいるということを踏まえた上で、なぜ意思が硬くないといけないのかを考えてみると、「暴風雨には負けないという固い意志で飛んでいるので、困難にも耐え、悠々と飛ぶことができるのだ」と言う精神論に行き当たる。唐突に will と言う便利な語を出してくる辺り、少なくとも鷹自身もそう思っているようだ。もしこのように意志が具現化するのなら、溺れないと思っていれば溺れないのである。ここでの鷹は空の上から、冒頭 0 の引用にある「重力の思想叩き出せ」にも似た観念論を溺れている語り手に啓示している。

 しかし、ダイヤモンドが非常に硬いが靭性が弱く衝撃を受ければ壊れやすい鉱物であるように、観念論はありありと現実を目前にした時には粉砕されざるを得ない。なぜなら観念論は「ただ世界を様々に解釈してきたに過ぎ[ず、むしろ]肝要なのは、世界を変革することである」(同書 p. 240)からだ。現実の危機を解決するには観念論は使えない。そうではなくて、現実に働きかけねばならない。語り手も、 ‘last-moment-counting’ (「最期の瞬間まで数えている」) という差し迫った危機にあるので、一生懸命 ‘strain’ (「踠いて進み」)し、現実の世界の在りようを変えようともがく。そして、語り手が現実の世界でこのように行動した瞬間、観念論の魔法は解け、今までまやかしの意思の力で飛んでいたはずの鷹も、唯物論の文脈で語られるに至る。 ‘the master- / Fulcrum of violence where the hawk hangs still’ (「支配者たる/嵐の猛威のテコの支点。鷹はそこにまだ留まっている。」)という句は、鷹がホバリングしていられる理由を、気流の関係か何かで「嵐の猛威の釣り合うところ」にいるからだと説明している。すなわち、鷹と支配者たるテコの支点は同一ではない。鷹がたまたまそこにいたまでだ。その鷹に、語り手がさまざまな観念を抱いていたまでだ。かくて今や、鷹という存在に神秘性はなく、鷹も自然の中の物質的諸条件に規定される存在に過ぎなくなった。

 

3.

この天上的な観念論から地上的な唯物論への転落は ‘Fall from his eye’ (「目からの転落」)であると言えるだろう。今までは鷹の<目>は鷹の意思を象徴するものであり、意思があったからこそ鷹は飛べたはずであったのだから。さらに eye を ‘The centre of a vortex or eddy; esp. the calm centre of a hurricane or storm.’ (Shorter OED) と解するならば、この句はさらに、鷹は以前占めていたはずの「ハリケーンの<目>」の位置から転落しただけだ、と言う唯物的な説明も示唆する。そうして大地に向かって落下、激突した結果、 ‘the round angelic eye / Smashed’ (「まるい天使のような目が/砕かれた」)とあるように、観念論を啓示した<目>も物理的に破壊されてしまった。今や、泥濘に溺れる語り手同様、鷹も ‘mix his heart’s blood with the mire of the land’ (「地面の泥と心臓の血を混ぜる」)しているのである。

 さて、鷹という神的存在と観念論とがこのように敗北しているとするのであれば、この詩においてその後釜に座っているのは、鷹を破壊した ‘the weather’(「天気」), ‘the air’(「大気」), ‘shires’ (「大地(正しくは行政区としての郡)」)それに ‘rain’ (「雨」)といった自然と呼ぶべきもであることは明白だ。人間を支配しているのは観念ではなく自然である。これはなんとも面白くない結論に思うかもしれないが仕方がない。いつだって鷹や人間などの ‘all creation’ を支配してきたのは、こうした自然の力を始め、物質的に還元できるものだけなのだから。

 

[1]代表的な例は、Hopkins, 'The Windhover' など。

 

参考文献

Ted Hughes, The Hawk in the Rain. London: Faber and Faber, 1957.

マルクスエンゲルスドイツ・イデオロギー廣松渉訳 東京:岩波書店 2002

 

SPQR

WHY I LOVE VOC@LOID

 VOCALOIDを追いかけ続けて10年がとうに経ちました。春先に作ったATBですが、せっかくなので記事にしました。文章を書かなくても成立する記事は有難いです。なお、自己紹介用に作った直近の10選にも入れた楽曲には★をつけました。何かのご参考に。YouTubeにも公開されている楽曲も、引用はニコニコ動画に統一しました。
 
【2008】
フキゲンワルツ

 

★サジタリアス

NEVER CROSS U

 
【2009】
magnet

Mrs.Pumpkinの滑稽な夢

 
【2010】
メランコリック

ラセンナワタシ

思慮するゾンビ

月翅

 

【2011】

メテオ

★Blue Bird

 
【2012】
あなたのおもひで

恋のI・RO・HA教えます

★君の夢をみたよ

ウィンター・ハッピーナイト

 
【2013】
★蜜月アン・ドゥ・トロワ

melting snow

★特急ひとめぼれ

 
【2014】
世界が愛した数式を理解することが、私にとっては困難だ

ミルククラウン・オン・ソーネチカ

この声のその理由は

エレキキュレーター

柑橘ネコぱんち

 
【2015】
永遠なんて知らないよ

パズルガール

メリュー

唯々なりレイデエ

 
【2016】
キドアイラク

Alice in 冷凍庫

ライアーダン

★七つ夜空の願いごと

 
【2017】
★シグナル

ピニャコラーダ

Ordinary

★オータムリーブス小春日和

Ding-Dong Belflower

 
【2018】

ゆらゆら

読書ノート

牛田徳子『アリストテレス哲学の研究 - その基礎概念をめぐって』(創文社, 1991) 

アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

アリストテレス哲学の研究―その基礎概念をめぐって

 

 以前より、何かを論じるだけでなく「過程に属するもの」の中から特に印象に残ったものを公開する場としてもこのブログを使いたいと思っていた。最近論文がうまく読めないとずっと悩んでいたが、かつて楽しみとして読んだ論文の読書ノートでよく書けているものがあった。答えは自分の中にあったと気付くと同時に、これは公開するのに適当だろうと思い、この機会に公開しておく。NICHICAと『形而上学』を読んでいた頃のもの。また読書会をやりましょうね。

 第一章では実体概念を扱う。牛田は「実体」を筆頭とする範疇の不完全枚挙がアリストテレスの全著作中に数多く登場することに着目する。このことから「範疇の第一位にあるもの」という実体の標識は無視できない。「範疇」という語はギリシア語において「述語」に連なる。このことから、「実体」は述語の一種の分類の第一項であるとみなすことができる。一方で、『範疇論』*1 に基づき、実体は主語的な性格のものであるとする根強い解釈がある。しかしながら、実体が主語的な性格のものだとしたならば、それは述語という原義を持つ範疇に入らないことになり、範疇の第一位は空位になってしまう。この点、実体を主語的にとらえる論者は『範疇論』において実体(ウーシア)が第一実体と第二実体とに区別されたことに着目する。第一実体とは個別的なものであり、第二実体は実体の種や類のことを指す。つまり、第二実体は第一実体に対してそれの普遍主語とみなされる。この第二実体を範疇のなかに含め、一方で主語的な第一実体を範疇の外におくのである。第一実体と第二実体という呼称は『範疇論』以外の著作には見出されないが、ここで示された実体の二重性格は他の著作の解釈にも根を下ろしている。範疇の第一位にあるものはウーシアの他、「トデ・ティ」(「或るこれ」と訳す)と「ティ・エスティ」(「何であるか」と訳す)とも呼ばれる。D.Ross は『形而上学』ゼータ巻の冒頭に登場するこの二つの呼称を次のような実体理解の中で位置づける*2 。すなわち、「何であるか」は事物の中にあって最も真にあるもの(=普遍的本質)であり、「或るこれ」はいかなるもののうちにもなく、それ自身によって存在するがゆえにもっとも真にあるもの(=個物)であると。これを図式的に整理すると以下のようになる。

実体 ー 第一実体 主語 個  基体 或るこれ

   ー 第二実体 述語 普遍 本質 何であるか

 牛田はG.R.G.Mure の議論を紹介しながら、こうした「実体」概念の自家撞着性を問題とする。第一に、個別的実体が主語の座におかれるなら、それはそれ自体としてなにものでもなくなる。つまり、特定のものからその「何であるか」を差し引いた場合、そこに残るのは「これ」と指さされるほかはない無名の「もの」だ。これをD.Ross が「それ自身によって存在するがゆえに真にあるもの」と評価したのは、誇大妄想ではないか。第二に、『範疇論』がのちになって「第二実体」の概念に重大な修正を行っていることも注目に値する。つまり、種とか類は、実態の質や性格を表すことによって実体を限定しているとされるのだ。これはアリストテレスの他の著作に見られる「普遍実体否定説」と明らかな食い違いを生じさせる*3 。このことは、「第二実体」さえもが第一の範疇の座から滑り落ちてしまう結果になることを意味する。以下では、上で見てきた「実体」が主語的か述語的かという問題について、論理的な検討がなされる。

 はじめに、牛田は第一の範疇の呼称に着目し、これが実体の主語的な解釈を支持するかを検討する。まず、アリストテレスが複数の範疇を列挙している箇所を用い、そこで用いられている第一範疇の呼称の種類と頻度数を調べる。この際、列挙される範疇の数と種類は流動的であるが、呼称から判断して、実体と非実体の区別は確定的になされている。第一範疇の呼称のうち「ウーシア」「トデ・ティ」「ティ・エスティ」についてその単独での使用の頻度数を見ると、全著作を通して「ウーシア」は16か所、「トデ・ティ」は21か所、「ティ・エスティ」は18か所である。これら三呼称は同様に実体を指すに足る市民権を得ていると言える。このことから、『範疇論』で区別された「第一実体」と「第二実体」に対応するような実体の呼び方の区別は、他のほとんどすべての範疇列挙の箇所には見られないといえる。次に、牛田は「トデ・ティ」と「ティ・エスティ」が現れている場合に着目し、この二つの呼称が文脈の中で主語的ないし述語的に用いられているものを探す。この結果、「トデ・ティ」は主語的にも述語的にも、「ティ・エスティ」は述語的に用いられることが分かり、また述語的に用いられた「トデ・ティ」は「ティ・エスティ」と同じ扱いを受けることができるとする。従って、「トデ・ティ」が常に主語的に用いられるとは限らない。最後に、牛田は第一範疇の呼称として上で扱ったもの以外に疑問詞「ティ」と不定詞「ティ」が同じ用法を担うことを紹介する。その上で牛田はこれらを「トデ・ティ」「ティ・エスティ」との関連で検討する。「トデ・ティ」は指示詞「トデ」と不定詞「ティ」が組み合わされているが、不定詞「ティ」がしばしば省略されることから「ティ」を一種の不定冠詞、「トデ」を指示代名詞とみなしてよい。また、「ティ・エスティ」は疑問詞「ティ」と動詞で組み合わされているが、動詞が省略され疑問詞が単独で用いられることがある。従って、実体範疇の呼び方は、指示的な「トデ」と疑問詞的な「ティ」と不定的な「ティ」の三種類に整理できる。このような指示的、疑問詞的、不定的な範疇の呼称は「実体」の他にも「性質」と「分量」においても確認されることから、三様の呼称はただ範疇を指し、それぞれは語の意味機能(指示的であるか、疑問詞的であるか、不定的であるか)においてのみ差を有すると解される。従って、実体呼称に関する限り、「実体」を主語的に解釈する十分な典拠はみあたらないとされる。

 続いて牛田は、A.N.Whitehead の実体概念理解を批判する。彼は実体は属性を担う基体でありながら、その属性によって記述されなければそれ自体あることができないようなものであるとした。このように実体と属性の関係を相関的に捉えることは、実体が属性述語の基体であることと、実体がそれ自体であることを同一視することを意味した。しかし、そのように解すると、実体が属性Fをもつとき、「FであらぬものはFである」という明らかな矛盾が生じる*4 。従って、実体がそれ自体であることと属性述語の基体であることは混同されてはならない。また、牛田はこの実体と属性の関係をアリストテレスが言い表した箇所を整理し、実体に対する属性の依存関係が明らかにする。すなわち、実体はそれ自身以外の何物にもよらずにそれ自体であることができるものである一方、属性はそれ自身以外のなにものかによってそれであることができるものだ。ところで、以上のように実体と属性の関係を理解することが、実体の主語的性格について理解する鍵になる。アリストテレスの著作には「実体は他のものについての述語にならず、かえって他のものがそれについての述語になる」と類似する表現が無数に見出される。ここに示されることに従えば、実体は主語的性格をもつもので、実態にとって「他のもの」は存在しない。一方で、属性は実体であるところの「他のもの」にかかわる。このことから、ここにいう「他のもの」とは、「当のもの自身以外のもの」という意味だとわかる。さてここで、実体にとって「他のもの」が存在せず、従って実体が「他のもの」の述語にならないのは、実体が自ら以外のものであることなく、まさにそれであるところのものであるからだ。この根拠なしに上に挙げた有名な表現を理解するのであれば、実体概念にとっては破壊的なことである*5 。そこで、牛田は先の有名な表現では実体がそれ自身についての述語になることが妨げられていないことに着目し、この問題点を克服する。「他のものについて述語になる」という述語の用法に留まる限り、実体は主語的性格のものであるが、「他のものについて」という限定は実体の自己規定性を前提とするものだということだ。このとき、実体は第一義的に自己述語的な性格を持つのではないか。

 牛田は『分析論後書』から「自ら自身についての述語になる」という表現を含む部分を検討し、「自ら自身についての述語」「「何であるか」を表す述語」「それ自体とは異なるものではなくそれと言われるまさにそのものと言われるもの」はそれぞれ等しく同じものを指しているとする。また、このうち、「何であるか」「それ自体とは異なるものではなくそれと言われるまさにそのものと言われるもの」は実体表現である。従って、「自ら自身についての述語」とは「何であるか」「まさにそれであるところのもの」を表す述語である。なお、文法的連関から「何であるか」と「まさにそれであるところのもの」は同じ意味で使われる。次に、牛田は「まさに或るこれであるところのもの」(『形而上学』1030a3-6)という表現に着目する。これは先の三つの表現と同じものを指している。「まさに或るこれであるところのもの」という表現は「まさにXであるところのもの」のなかに、実態の呼称である「或るこれ」が述語として挿入されたものである。 ここで牛田は『形而上学』ゼータ巻にみられた「実体的疑問文」を検討する。「或るこれは、何であるか」はいまや「或るこれは、まさにそれであるところのものであるか」と読み替えることができる。そして、この疑問文に対する回答は「或るこれは、まさに或るこれであるところのものであるか」という肯定文が対応する。この肯定文は実体が自己の述語であることを我々に理解させる。ここまでくれば、「まさにXであるところのもの」という表現が当然注目される。これは、Xであるものがあるとすれば、当のXそのものと、Xであるそのことが一致していることを意味している。「それぞれのものは自らの実体にほかならないと考えられ、そして本質はそれぞれのものの実態であると言われる」(『形而上学』1031a17-18) はこのことを表している。ここにおいて、実体はそれぞれのもの「それ自体」でありかつ「本質」でもあるようなものとして構想されている。このすぐあとで、アリストテレスプラトンイデアについて言及している(『形而上学』1031b11-15)。アリストテレスの実体概念はプラトンイデア概念から影響を受けたものであることは決定的である。プラトンイデア的表現「それぞれのものがまさにそれであるところのもの自体」「まさにそれぞれのものであるところのもの自体」とアリストテレスの実体的表現は構文と内容において一致しているのだ。

 第一章第五節は、第一章においては補論であると同時に、第三章への導入という役割も果たしている。このことから、第三章に言及する機会があれば、そこで触れたいと考えている。

 

*1 牛田はこれを偽作とみなす立場に立つ。第六章第二節参照。

*2 例えば、” なぜならわれわれは「これはどのような〔性質の〕ものか」と言えば、「善いものだ」とか、「悪いものだ」と述べて、「三ペーキュスある」とか、「人間だ」とは述べないが、「何であるか」と言えば、「白いものだ」とも、「熱いものだ」とも述べないで、「人間だ」とか、「神だ」と述べるからである ” (『形而上学』1028a10-18 以下、特に断わりがない場合を除き牛田の引用を孫引き)。この引用にみえる「何であるか」という問いは、「これは何であるか」と読み替えることができる。これは「或るこれ」を主語に、「何であるか」を述語に見立てて出来上がっているかのようにみえる。これを「或るこれ」と「何であるか」がともに実体を指しながらそれぞれ主語的または述語的に使われているとする見方に当然牛田は距離をおくが、ここでこうした疑問文を「実体的疑問文」と名付けている。

*3 本書第六章第二節参照。

*4 牛田はこのことをパルメニデスの「存在」概念に関するアリストテレスの記述に基づき、アリストテレスの代弁者としてこの矛盾を指摘する。つまり、「存在」が「まさに存在であるところのもの」を意味しないのであれば、「存在」はなんらかの基体に付帯する属性述語でなければならない。そうすると、その存在述語が付帯するところの当の基体自体は存在ではないことになる。従って、存在ならざるものが存在であることになる。パルメニデスは「あらぬものがあることはけっして証しされないであろう」というのであるから、これは拒否されるべき結論である。なお、このことから、本文においてこの指摘の後に続く「従って」以下の一文は、牛田がそうする通り、アリストテレスの立場を示すものだとして問題ない。

*5 G.R.G.Mure の批判を参照。また、『形而上学』1029a10-12参照。

 

 私は特に検討を行うこともなく「常に述語される」という主語的性格のみをもって実体概念を理解していたので、冒頭で範疇の語義から実体概念の述語的性格が指摘された時点で自らの理解が一面的なものに過ぎないことに気付かされた。第三節以降の記述には自らの理解が正しくはどのような意味だったかを教えられた。これらにより、漠然と感じていた実体概念のブレをある程度クリアに把握することができるようになった。また、その内容が示される過程では、論理とテクストが両輪とされており、哲学史研究のひとつの理想というような印象を受けた。

『天国はまだ遠い』

 2015年、濱口竜介監督の長編『ハッピーアワー』が映画ファンで話題となった。一般参加者を中心にしたワークショップを母体に制作されたこと、三部構成で5時間以上に及ぶ大作であること、そして何より演技の経験がなかった主演女優4名がロカルノ映画祭で高く評価されたことが注目された。私は2017年に鑑賞の機会をもち、今でも大切な作品だと思っている。たっぷりとした時間を生かして登場人物の様々な側面が描かれ、ままならない中を生きようとする登場人物たちを描こうとする姿勢に好感を持った。設定の強引さはやや目だったが、その人となりがしっかりと描かれているからか、自分の知らないだけで世界にはきっとそういう人がいると受け止めてしまう。面白い映画だなと思った。今年濱口監督の『寝ても覚めても』がカンヌ国際映画祭に出品され、名実ともに日本映画界の未来を背負う存在となった。ここでは、『天国はまだ遠い』の感想を残しておく。

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『天国はまだ遠い』は次のような映画。物語は、男・雄三はアダルトビデオの編集を仕事としている場面から始まり、それをそばで少女が眺めている姿が写される。雄三のもとに、五月から連絡が届く。彼女は、かつての高校の同級生で在学中に殺人事件に巻き込まれて亡くなった女子生徒・美月の妹である。五月は映画学校の卒業制作として、美月の関係者へのインタビューをもとに、ドキュメンタリー映画を作ろうとしている。雄三が共に暮らしている少女が美月の幽霊であることが二人の会話から明かされ、彼女の言葉を受けて男はインタビューに応じることにした。
 撮影当日、カメラを挟んで雄三と五月が座る様子が五月側から写されるという画面構成。つまり、雄三を撮影する五月の立ち位置にカメラが置かれる。この時、美月は部屋にいる設定だが、画面から外れている。実は男は生前の美月とはほとんど関わりがなかった。五月の意図は、雄三が美月の死後に美月の名で男子生徒に告白をした背景を聞き出すことにあった。すると、雄三は美月の霊に憑かれていて今まで一緒に暮らしてきたと説明する。そして、霊媒師のように美月として、五月に語りかけ始める。五月はこれに半信半疑で美月として対応するが、幼い頃の話の齟齬などから、からかわれたと感じて激怒する。しかし再び男が美月として五月に話しかけたとき、五月は彼に美月に対する想いをぶつけ、二人は抱擁し合い、五月は泣きじゃくる。二人が抱き合うのをやめ、男が「よい画がとれたんじゃない?」と声をかけると、五月は「使えるわけないでしょ」とこれに返す。五月と別れた帰路で彼は美月に唐突に恋愛感情を告白し、雨の中で二人が並んで家路につく。「天国はまだ遠い」と美月のナレーションで映画が終わる。

 30分足らずの作品で異様な世界観をうまくまとめきった傑作だと思う。クライマックスにあたる雄三と五月との会話において、非常に難しい演出をしている。
 この映画の前半、つまり、雄三と美月との生活の描写において、また五月と雄三が初めて出会う場面において、美月は幽霊として存在しているものとして描かれる。「男に幽霊が憑いている」という設定が、幽霊の姿をはっきりと写すことで示されている。
 この前提がドキュメンタリー映画の撮影の場面では崩れる。まず、美月が画面にほとんど登場しない。そして、五月は美月がいるという世界観を共有していない。例えば、雄三が自分に美月が憑いていると説明したことを悪意ある嘘だと受け止めて屈辱的だと思っている。
 このことにより、観客は、「男に幽霊が憑いている」という前半の理解を相対化して、「男が幽霊が憑いているという妄想を信じている、あるいは幽霊が憑いていると嘘をついている」という話なのではないか?と疑わざるを得なくなる。この線をなぞるように、五月が雄三にからかわれたと憤り「どうやって(美月を騙るために)私やお姉ちゃんのことを調べたの?」と問い詰めると、「今の時代調べる方法はいくらでもある」と男は返事をしている。
 しかし、五月には真実の確かめようがないように、観客にとってもどちらの物語が正しいのかははっきりとしないまま映画が終わっていく。もちろん、仮説を立てて解釈を進めることはできるが、物語は美月が「いる」とか「いない」とか、つまり男は「幽霊が憑いている」のか「幽霊がいるという妄想に憑かれている」のかという疑問に答えを出すところとは別の次元で進んでいるように思える。むしろ男に「幽霊が憑いている」のか「幽霊がいるという妄想に憑かれている」のか分からないことこそこの映画の肝であるように感じた。
 五月は美月の幽霊が男に憑いているという話を疑っている。「使えるわけないでしょ」という彼女のセリフが示すように、彼女は美月の幽霊がいるという話を心のどこかではばかげた話だと思っている。しかし、一方で美月に想いを伝えたいという気持ちも持っている。そして、五月は結局この気持ちに身を委ねる。つまり、雄三を美月として扱う。このように、彼女は信じたくないという気持ちと共に、信じたいという気持ちも持っていて、その狭間で揺れ動いている。これは「男に幽霊が憑いている」のか「男は自分に幽霊が憑いているという妄想に憑かれている」のか答えが出ないからこそ成立する状態だ。分からないからこそ感情の高ぶりにまかせて、自分の理性に反した行動をとることができる。
 観客もこれを追体験させられる。雄三の話の真偽を五月の側に立って(まさにカメラがそこに置かれたように!)探るからこそ、五月がのめり込むように美月への想いを語り男を抱きしめる場面にも、その後五月が自分の行動に戸惑い自嘲する場面でも、寄り添うことができる。

 さて、作り手の側に立てば、これが如何に大変な作業かがよくわかる。「幽霊が男に憑いている」ことを疑いもしない観客に、男は「幽霊に憑かれている」のか「幽霊が憑いているという妄想に憑かれている」のかという問いを突きつけながら、しかし観客にその問いの前で宙づりになってもらうことで初めて、五月の感情の機微を観客に読み取ってもらうことができる。この点、30分ではさすがに不十分だったようにも思われるが、よく考え抜かれていた。
 まず、観客に「幽霊が男に憑いている」ことを信じさせる仕方が上手だった。前半部では美月が基本的に常に画面に写っている。中盤になるまで彼女の正体が分からないため、観客は「彼女が誰なのか」に疑問を持っている状態になっており、「彼女は男に取り憑いた幽霊である」という説明がその疑問に対応しているため、観客はその少し変わった設定を受け入れることができる。また、美月が幽霊であることを明かされる場面は、五月と雄三との長尺で動きのない会話劇の直後であるが、この会話劇は設定に重きが置かれ、物語の進行が一旦止まっているために観客は刺激、つまり物語の具体的な展開を欲している状態に置かれる。従って、美月が幽霊だという物語の根幹にかかわる動きを観客は歓迎しやすい状況に置かれているのだ。さらに言えば、この場面は初めて美月にセリフがあてられる。それは雄三を口悪く罵るものであり、ここに現在の美月の人物像が示される。このように、ここで美月に関する情報が一度に明らかになることで、幽霊であるという設定が相対化され受け入れやすいものになっている。
 五月が露骨に疑うので「いる」か「いない」かの問題化自体は特に問題がないが、その問いの解答が不可能であり焦点は別の場所にあると観客に悟らせるのは限界があったかと思う。私としては、話がごたごたしていく様子は、五月自身自分の行動をうまく制御できていない印象と重なって好印象だった。

 時間がとれておらず、未見なのだが、『寝てもさめても』に期待している。(HRK)

朝日新聞の誤訳を糾弾する

「朝日新聞 社旗」の画像検索結果

昨日(2018/10/16)付の朝日新聞の記事を見ていたら,かわいそうなくらい馬鹿な誤訳に思わず鼻で笑ってしまったので、それを記事に書こうと思う。

その記事とは,米大統領、失踪記者巡り国防長官をサウジへ ならず者関与示唆」とかいうもの。

 これはどうやらいくつかのロイターの記事からまとめた日本語訳のようなのだが、この記事を読んでみると、先日のサウジアラビアの記者失踪事件について、トランプ大統領が「ならず者の殺害者が関与している可能性もある」と言い、それを受けてとある民主党議員が「『ならず者の殺害者』という馬鹿げた見解にサウジは同調するだろう」と批判ツイートをしたなど、「ならず者の殺害者」というフレーズが目に着く。しかし、「ならず者の殺害者」が云々と言われたところで、何が何だかよくわからない。だれもが、「それ、誰やねん!?」と突っ込みたくなるだろう。

その上常識的に考えて、普通新聞の見出しに「ならず者の関与」なんて変なフレーズが踊るだろうか? いや、そもそも人殺しとはすべからくならず者のなせるワザでは無いのか? となると、「ならず者の殺害者」など、同新聞社の天声人語同様、何か言っているようで何も言っていないのと変わらない。何が何やら分からないのだ。

さて、答え合わせといこう。以下にロイターの元記事の一つのリンクを貼っておく。

www.reuters.com

ならず者の殺害者」とはこの元記事を見るにトランプ大統領の "I sounded to me like maybe there could have been rogue killers. Who knows?"*1という一昨日のコメントから訳したものだろう。確かに "rogue" は直訳すると「ならず者」だし、北朝鮮みたいな国を "rogue state" 「ならず者国家」と言い習わす。*2したがって、自分では英語ができると自惚れている(だろう)朝日新聞の海外特派員か誰かが、 "rogue killers" を「ならず者の殺害者」と直訳したことは容易に想像がつく。だが、そもそも "rogue" は名詞である "killers" の前に置いてあるのだから、常識的に考えて形容詞として解釈すべきだ。そして形容詞の "rogue" の意味は、インターネットの無料辞書にさえ乗っている。辞書くらいきちんと引いてほしいものだが、勉強不足の朝日記者のために代わりに載せて置いてあげよう。以下の引用はアルクの「英辞郎」からである。

rogue

【形】

  1. 〔動物が凶暴で〕群れから離れた
  2. 〔人が孤立して〕自分勝手に行動する、面倒を起こす

 ここでは2の意味で解釈するべきだろう。ドナルド・トランプ大統領が言いたかったのは、要するに「サウジ政府の意向と関わりなく勝手に行動した奴らが失踪した記者を手にかけて殺したのかもしれない」、ということだ。こう読まないと、なぜ、このトランプの「馬鹿げた見解にサウジが同調する」(某民主党議員)という批判があるのかがわからない。ちなみにその理由とは、朝日の記事の後半にも一応きちんと書かれている通り、サウジアラビア政府にとって同政府が関与していないという見方は、つい先日にトランプから「サウジが失踪に関与してたらサウジ潰す」(意訳)的な脅迫をされていたので、願ってもないものだからである。ああ、悲しいかな、ここら辺の事情を実はよく理解しないままに記事を訳していたことが、透けて見えるのだ。

この日本を代表する全国紙の残念な誤訳は、同紙の記者が英語がわかっていなかっただけでなく、政治的文脈にさえも疎いままに記事を書いていたことの証左に他ならない。普段から「トランプは馬鹿」(意訳)的なことを繰り返し書いてきた朝日新聞が、その馬鹿なトランプ大統領の言葉を理解できなかったというところに、この新聞社の悲哀がある。このブログ『鴨川日記』もネットメディアであるから、既存の新聞がネットより質が低いという流行りの言説も、あながち間違いなどではないのである。*3

 

SPQR

*1:訳すると「私見では、多分一匹オオカミ的な殺し屋たちがいたってのもあり得るように思われるが、一体誰に真相がわかろうか?」くらいになる。

*2:ちなみにこれも後述の理由により誤訳と思われる。

*3:ちなみにこの記事を書いているSPQRブルジョワ朝日新聞よりも左翼だから、そこのところは誤解しないでね。

The flower of love fades before love fades

(もうだいぶ前に勉強ついでに書いてみたルネッサンス趣味の詩の習作をメモした紙切れを,今日本棚の整理をしていたらふと見つけてしまった。さして文学的価値などあろうはずも無く[まず今日にあってフェミニズム批評に耐えるものではない],出すべきところもない。とは言え,このまま眠らせてしまって永遠に忘れ去られるのもかわいそうだ。そう言うわけで,インターネットの海に漂流させることにした。英語ができる諸兄は,不明点や間違いがあったら指摘してほしい。)

 

The flower of love fades before love fades;

The nectar of friendship anon turns sour.

Therefore, my soul, fail not to seize the days*1,

And deny me not, when thou'rt a flower.

Time that this way comes is a wickéd thing

And he devours still our loving leisure;

So I would thee thy coyness away fling;

Else, senescence would rob thee of thy pleasure.

Had we forty thousant years to embrace,

They would not, with all their loves' quantity,

Make up the sum of this evanescent space*2,

The fineness of which lies in quality.

      My love, I cuddle thee closely all the more,

      For I know thy frailty's not mine e'ermore.

 

愛の花は愛そのものより先に枯れ

友情という甘露もほどなく饐えてしまう。

だから君は毎日を草花を摘むように大事に生きて

そして花のように美しいいま、拒むこと勿れ。

こちらにやって来る「時」は邪悪な輩で

いつでも二人が愛し合うための時間を貪り食う。

だから、はにかみは今すぐ捨ててほしい

老けがお前から悦楽を奪わぬうちに。

幾世もの間の抱き合う時があろうとも

そしてその愛をみな寄せ集めたとしても

このいまつかの間の愛にはとうてい敵うまい

この愛の素晴らしさは、その本質に宿るのだから。

  恋人よ、わたしがお前を抱きしめるこの腕の力は

  永遠にお前の脆さを我が物とできぬ分、強くなるのです。

 

*1:ラテン語で Carpe diem と言われる伝統を踏襲。訳すると「日を摘め」となる。意味するところは、この瞬間を精一杯楽しめ、ということ。これはホラティウス『歌集』第1巻第11歌に見られる。

*2:9〜11行目にかけて、シェイクスピアハムレット』五幕一場の有名な句 'I loved Ophelia. Fourty thousand brothers / Could not with all their quantity of love / Make up my sum.' を下敷きにしている。