鴨川日記

本を紹介していきます。

【コーヒー・ブレイク】ジョン・ダンの詩二編の訳

 

The Complete English Poems (Penguin Classics)

The Complete English Poems (Penguin Classics)

 
対訳 ジョン・ダン詩集―イギリス詩人選〈2〉 (岩波文庫)

対訳 ジョン・ダン詩集―イギリス詩人選〈2〉 (岩波文庫)

 

 

死よ、驕るなかれ(聖なるソネット10番)

 

死よ、驕るなかれ。お前のことを強大で恐ろしいと

言ったものがいるが、そんなことはないのだから。

お前が滅ぼしたと思っている連中も、あわれな死よ、

死ぬことはないし、それにお前に私は殺せないのだから*1

お前の写し絵に過ぎない休息と睡眠からも

多くの喜びが得られる。ならば、お前からはずっと多くの喜びが湧き出るはずだ。

それに、人々の中で最も善き人たちは、今すぐにでも

骨を休め、魂を解放するためにお前とともに行く*2

お前は運命や偶然の、そして王と回復の見込めない人々*3との奴隷で

毒や戦争、疾病とともに住んでいるのだ。

その上、アヘンやまじないもまた私たちを寝かしつけられるし

それらはお前の一撃よりも良いものだ。なら、なぜのぼせ上がるのだ*4

一つの短い眠りが終われば、私たちは永遠に目を覚ますのさ。

そして死はもはやなくなる。死よ、お前が死なねばならないのだ*5

 

 

愛の錬金術*6

 

愛の鉱脈を私より深く掘った者たちは

いずこに核となる歓びがあるかを口にする。

私は愛し、手に入れ、語らった。

だが、老いてしまうまで愛し、手に入れ、語らおうとも

私はその隠れた神秘を見出すことは無いだろう。

ああ、これは全て詐欺ではないか。

未だ錬金術師の誰もエクシリルを手に入れていないのだから、

実験のついでに、もしそのうちの誰かが

芳香性の物質や薬効のあるものを手にすれば

それで妊婦のように丸い蒸留器*7は栄誉に輝くだろう。

同様に、愛する者たちも豊かで長い歓びを夢想するが

手にするのはまるで冬のように寒い、短い夏の夜*8なのだ。

 

私たちの安楽、私たちの繁栄、私たちの名誉、それに私たちの一日を

どうしてこんな価値のない泡の影に費やそうか?

愛というのは、私の召使の者であれ

新郎役という侮辱を短い間耐え忍べば*9

私が手にできる幸福をすべて手に入にできる、そういうだけのものなのか*10

「結婚するのは体じゃない、心なんだ。

夫が妻の内面を天使のように美しいと気づくんだ」

なんて事を誓う、愛で満たされ一杯の野郎は

無作法で耳障りな楽人たちの演奏にも

まさに天球の調べ*11を聞いたと誓うだろう。

女に心を期待するな。せいぜい頑張って

愛らしさと機知があるくらいさ。彼女たちはミイラ*12なんだ、それも憑りつかれている。

 

原文

 

www.poetryfoundation.org

 

www.poetryfoundation.org

 

<註と鑑賞>

*1:この四行連句で詩人は死に向かって、「お前などは恐ろしくなどない。驕るな」と言っているわけだが、原文ではこの四行連句(特に3行目)にthの音が非常に多くみられる。「恐くない」と言いつつも打ち消しきれない、死に対する恐れがthという摩擦音のつっかえるような音によく表れているように思う。

*2:この四行連句も脚韻形式は最初の四行連句と同じabba型で関連が示唆されている。死に対する恐怖を克服するため、詩人は休息と睡眠のアナロジーを持ち出している。そうすると、6行目の「ずっと多くの喜びが湧き出るはずだ」という(原文でmuch more mustとリズムよく頭韻を踏んでいる)部分では、詩人は確信を表現しているというよりも自分を納得させようとしているとも思えてくる。

*3:死が我が世の春を謳歌している王族にも病人にも誰にでも訪れえるというのは、中世以降様々な芸術で扱われてきた「死の舞踏」というテーマである。

*4:回復の見込みのない患者にとって、苦しみから逃れるためには死の他にも麻薬やまじないという方法もある、ということを言っている。実際、それらは死よりも良いものと思われているからこそ死の床にある人々が手を出すのだろう。

*5:「死よ、お前が死なねばならない」というのはコリント人への手紙15章26節「最後の敵として、死が滅ぼされます」(新共同訳)より。最後の審判の際に死者が復活し永遠に生きるというのはキリスト教の終末観である。この二行連句で死は、不能なものとされただけでなく、それ自身が滅びる運命にあるものとされた。詩人はこのソネットを通して、死の不安を信仰による勝利で克服した(たぶん)。

*6:錬金術は不老長寿の秘薬にして、卑金属を金に変えるというエクシリルを製造する事を目指した学問。ダンが生きたルネサンス期にあってはすでに、似非学問として疑われていた。この詩においてダンは、愛の神秘も錬金術も詐欺だといった口調だが、つまりは愛を極めたかのような口振りでプラトニックな愛ばかりを語る、ペトラルカ以降のマンネリ化した文学的伝統を皮肉っている。

*7:妊娠した(原文でpregnant)という語は、当然人間の生殖を連想させる。

*8:oxymoronといわれる技法。

*9:つまり、教会で結婚式を挙げる時の話。

*10:ここの一文では、宮廷風恋愛(courtly love)のような文学的伝統、つまりは上流階級のよりプラトニックな恋愛がより優れた愛だという伝統を踏まえている。

*11:古代ギリシアでは、月や惑星は天球に貼り付けられており、天体の運行とは天球の回転によるものとされた。そして天球が回転する際、天体は数学的比率に従って動くので全体で至上のハーモニーを奏でるとされた。残念なことに、人間の耳には聞こえないそうである。

*12:心がない人形に過ぎない、といいたいのだろう。ただ、ミイラは洋の東西を問わず不老長寿の妙薬とされたことに留意。

TVアニメ『絶園のテンペスト』の考察

 

                                All the world’s a stage,
And all the men and women merely players;
Shakespeare, As You Like It, II. vii. 139-40

       すべて世界は舞台であって、
男も女のみな、役者にすぎぬのだ。
シェイクスピア『おきに召すまま』拙訳

  

 

1.シェイクスピアと世界劇場

 

絶園のテンペスト』にはシェイクスピアからの引用、へのアリュージョンが多い。作中のセリフには『ハムレット』のほか、タイトルにもある『テンペスト』からしばしば引用されるし、また直接の引用でなくとも、孤島の魔法使いをはじめ、作中の様々なモチーフも上記の二冊に負うているものが数多くある。いわゆる「御柱」が消失した際、空に舞う多くのアゲハ蝶を見た吉野の真広への言葉—―「胡蝶の夢とも言うね。この世は夢かうつつかわからない。これまで俺たちがみてきた世界は都合のいい偽物だって言っているのかもしれない」―—このとても東洋的な趣のするセリフさえ、シェイクスピアの『テンペスト』の有名なセリフに通じるところがある。

 

                                    These our actors,
As I foretold you, were all spirits and
Are melted into air, into air;
And like the baseless fabric of this vision,
The solemn temples, the great globe itself,
Yea, all which it inherit, shall dissolve
And, like this insubstantial pageant faded,
Leave not a rack behind. We are such stuff
As dreams are made on, and our little life
Is rounded with a sleep.
Shakespeare, Tempest, IV. i. 150-9

              あの役者たちは、
前にも言っておいたようにみんな妖精なのだ、
それで大気の中に溶けてしまった、大気の中に、みんな。
だがなあ、なんの土台もないままの幻想の世界と同じに、
雲を戴く尖塔も、豪奢な王宮も
荘厳な寺院も、そうとも、巨大な地球そのもの、
この地球上にあるすべてのもの、それはみんな消え失せてしまう。
実体のない余興が消え失せたように、
あとには雲の一筋も残りはしない。私たちは
夢と同じものでできている、ほんの束の間の一生は
眠りで閉じられる。
シェイクスピア『あらし』大場健治訳(研究社)

 

真広と吉野が、彼らのいた「始まりの木」に支配されていた世界を造られたニセモノかもしれないと言っていたその言葉ように(彼ら二人がそれを本気で信じていないところにアイロニーがあるのは言うまでもないが)、『テンペスト』における上のプロスペローのセリフも、劇中劇や彼のいる世界が劇というニセモノである事を『テンペスト』という舞台の観客に意識させる。(『テンペスト』においてはプロスペローのセリフは劇中劇(劇の中で演じられる劇)の直後のものとなっていて、プロスペローの言う「役者たち」や「なんの土台もないままの幻影の世界」がすなわち劇中劇のことを意味している。)さて、この劇中劇の効果とは観客に「劇中劇というニセモノを見ている劇の世界もニセモノなら、劇というニセモノを見ている自分たちもニセモノなのかもしれない」と思わせるところにもあるだろう。つまり、私たちが生きている世界は劇場で、私たち自身役者であるかもしれないのだ。この考えはラテン語でtheatrum mundi(世界劇場)というもので、シェイクスピアが生きたエリザベス朝における一つの世界のとらえ方であった。

 

そしてこの作品『絶園のテンペスト』は、その意味で劇中劇の手法を効果的に用いたシェイクスピアの末裔であるといえる。「始まりの木」に支配されていた世界は、二人が「都合のいい偽物」かもしれないという通り、一種の劇中劇的世界となっているからだ。このこと詳しく見てみよう。絶園の魔法使いであった愛花は、「倒されるために存在する神」である「始まりの木」の司る「理(ことわり)」のためにーー真広と吉野を葉風に会わせ、「始まりの木」を倒すように行動させるためにーー死を選んだ。彼女は言う、「私は始まりの木を倒すのが使命の絶園の魔法使い。倒す道を選ぶために私の死が必要なら、自ら死を選ぶことは理屈に合っている」と。彼女の行動原理はまさに、「始まりの木」を倒すための「理」という台本の通りに絶園の魔法使いを生きて(そして死んで)いくことであった。だからこそ最期に残したビデオレターで「舞台上の役者は、シナリオを無視して勝手に動くわけにはいきません。美しく退場してこそ、役目を果たせたといえます」と言うのである。それに対して「始まりの木」が無くなった後、劇中劇の台本を生きた愛花の墓を前に真広は語りかける。「お前にとって人生は誰かに決められたシナリオ通り演じ、その通り終わらせるもの。だから、シェイクスピアのセリフをやたら口にしてたんだな。. . . 誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ」と。しかし、かく言う真広のあり方もアニメーターが絵を描き、そして台本の通り声優が演じている劇にすぎないのは明白である。視聴者の私たちは、劇中劇構造をもつアニメの視聴者なのだ。分かりやすいように括弧を用いて包摂関係を表すと、【≪[劇中劇]を観ているアニメ≫を観る視聴者】という立場にいるのである。そしてもちろんこの構造は、劇中劇というニセモノを見ているアニメの世界もニセモノなら、アニメというニセモノの世界を見ている自分たちの世界もニセモノなのかもしれない、と思わせる。つまり、シェイクスピア同様、私たち視聴者に対し、あなたたちの人生も演劇なのではないか、と問いかける構造になっているのだ。

 

2.運命、そして愛とは?

 

絶園のテンペスト』ではこの世界劇場の構造を用いて、運命(とその対極にある自由意志)というテーマを論じているが、この観点からキーとなるのは愛花である。それは彼女が単に劇中劇にきれいに収まる人物ではなく、むしろ『絶園のテンペスト』において最もメタな視点を持ち合わせた、世界劇場における運命を最も意識していた人物であるからだ。彼女は葉風に向かって、自分たちをプロスペローに言葉や知識を教わった奴隷のキャリバンに例えて言う。「わたしたちも同じです。二つの木を送り込んだ連中に、少しばかり特別な知識や力を与えられはしても、結局はその奴隷にすぎません。. . . 彼らの望むようにすれば、とりあえず幸せに終わるんですから」と。すなわち彼女は、彼女ら登場人物の「始まりの木」を倒すための行為は、アニメ制作者という「二つの木を送り込んだ連中」が作り上げた「理が働いている、導かれた運命」に支配された物語のなかの自由意志を持たない「奴隷」の行為であると仄めかしているのである。そして突き詰めれば、物語の中の登場人物が作者の意思/シナリオという運命に縛られ、その意味で自由意志を持たないという事実は、救いようもなく正しい。ゆえに真広が愛花に「誰かのシナリオをなぞることしかできなかったからお前は間違ったんだ。俺は誰かの舞台劇をなぞるみたいな結末はつけねえ」というとき、彼はアニメ登場人物としては持っているはずのありえない自分の自由意志を信じていることになる。もちろんそれを視聴者が見ているのであるが、この劇中劇の構造を先ほどのように括弧を用いて示すと【≪[自由意志を持たぬと悟っている愛花]を見ている、実は自由意志を持っていないのに持っていると信じている真広≫を見ている視聴者】という風にあらわされる。そしてもちろん、自由意志を持たないにもかかわらず持つと信じている真広の姿は、視聴者も自らを重ねることになるであろう。私たちは普段自由意志を無根拠に信じているが、果たして私たちはそれを持ちえるのか、と。

 

このように『絶園のテンペスト』では運命(とその対極にある自由意志)が大きなテーマであり、運命と主要な登場人物の恋愛模様とが絡み合って物語は進んでいく。例えば、吉野への恋愛感情に戸惑う葉風が「これは何か? ラブコメか? 世界の命運をかけたラブコメなのか?」と言う場面。このセリフの面白さは、視聴者が究極的に葉風の恋が作者の意思という運命にに縛られたラブコメであることに想いをいたす事にあるのだか、恋だとか愛だとかいうテーマはアニメの世界でだけでなく、私たち自身もしばしば運命とともに語るものであろう。以下の葉風と順一郎の会話は私たちの現実世界でも日々聞かれるものである。

 

葉風「まさか吉野に恋するなど、こんなの予定にないぞ」

順一郎「予定して恋するのもどうかと思うけどね」

 

そう、恋はその当事者が自らの意思に基づいた予定にかかわりなく落ちてしまうものなのだ。恋に落ちる瞬間というものは往々にして自分では説明ができない、運命的な力によると感じられる。(ここで興味深いのは、二人が「予定」と言っている点で、これは神が予め全てを定めていると言うキリスト教プロテスタントの予定説を彷彿とさせる。物語をメタ的に見たとき、神に当たるのは作者であろうが、予定説はこの物語の作者と同じレイアーにいる私たちも神が定めた運命の力を往々にして感じることの例である。)そしてさらに、愛と運命について劇中で印象的に用いられているものにはシェイクスピアの『ハムレット』からの効果的な引用もある。(以下の引用が現れるのが、『ハムレット』の中で、王妃たるハムレットの母と王座を簒奪した叔父との前で上演される劇中劇であることもまた興味深い。)

 

For ‘tis a question left us yet to prove,
Whether love lead fortune, or else fortune love.
Shakespeare, Hamlet, III. ii. 190-1

愛が運命を導くか、それとも運命が愛を導くか、
それはわれらの人生がめいめい試さねばならぬ問題だ。
シェイクスピアハムレット』野島秀勝訳(岩波文庫

 

この格調高いセリフの引用は、視聴者である私たちめいめいに語りかけるもので、このような手法でこの物語は私たちのとある思考に投資している。すなわち愛と運命について考えることに誘っているのだ。あなたたちの人生ではどうだったか、と。『絶園のテンペスト』はかくして、劇中劇的構造や愛という主題を通して、視聴者に運命というテーマから作品を観させるのと同時に、メタプレーヤーたる視聴者自らを支配する運命(もちろんあるとも、ないとも言い切れない)というものについて考えさせるように仕向けてあるのである。

 

3.「ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」

  

そして、この運命という問題に対して『絶園のテンペスト』は終わるということをもって一つの結論を出しているように思われる。物語を描くこと、それが愛花の言うように作者が登場人物を作者の意思/シナリオという運命の「奴隷」として縛ることであるのならば、物語を終えることは彼らを解放することになるのではないだろうか。実際このアニメの下敷きになっているシェイクスピアの『テンペスト』でもプロスペローは拍手でもって劇を終えることで彼を「解放」するように観客に頼んでいる。それと同じように『絶園のテンペスト』の中の彼らは自由な意思を手に入れる。真広、吉野とも愛花に対する、作者の意思/シナリオという運命に導かれた愛に縛られていたが、物語の終末にはそれぞれが新しい愛に向かって歩き出している。物語が終わり、彼らの愛がこれからの白紙の運命を導いていく。いわば「運命が愛を導く」から「愛が運命を導く」への転換がなされているのだ。――たとえ、その愛の始まりこそシナリオという運命に縛られていたとしても。この物語は、シナリオに支配された愛花の避けられない死、という悲劇の通奏低音を響かせながらも、その結末は(シェイクスピアの喜劇しかり結婚で終わる喜劇のコンベンションを受け継いで)、登場人物らが新しい愛とともに歩んで行くことを予感させる。愛花が葉風に、物語は「とりあえず幸せに終わる」と予言した通りに。ところで、先ほども指摘した通り愛花は最もメタな視点を持った登場人物であった。となると、かつて彼女が吉野や葉風に「これもいつかは美しい結末の伏線になる」や「とりあえず幸せに終わる」と言った時の「美しい」、「幸せ」という価値の判断基準は彼女の利害を離れて、『絶園のテンペスト』に出てくる他の登場人物の、というよりその世界を画面越しに眺めているメタプレーヤーである視聴者の視点と一致しているように思われる。さらにアニメの結末に聞こえて来る、「始まりは終わり、終わりは始まり。ではあらためて始めましょう。それぞれが作る、それぞれの物語を」という愛花のナレーションは、他の登場人物が聞いていないところでの、いわば独白である。(役者の観客への独白で終わると言うのも、『テンペスト』しかりエリザベス朝演劇のコンベンションであった。)そのため、確かに愛花のナレーションは、物語が終わった後に登場人物らが新たな愛を手に自ら運命を切り拓いていくことを言っていると解釈しうるだけでなく(そしてこの解釈もおそらく全くもって正しい)、それよりもメタプレーヤーたる私たち視聴者に直接語り掛けているものに思われるのだ。あなたたちは運命に支配されているかもしれない。それでも、これからは物語を観終えたあなたたちが、あなたたち自身の物語を彼らのようにひたむきに描いていきなさい、と。

 

(SPQR) 

クラウド9の研究(改)

 

Cloud 9

Cloud 9

 

 

この『クラウド9』という演劇、なかなかけったいなものなの。男が女を演じ、白人が黒人を演じる。およそ<リアル>とは程遠いわ。みんながリアルよりも<リアル>なリアリティーを追いかけまわしている(とわたしには思われる)今日、ウケル作品かと言えばちょっと違うかもしれない? じゃあどうして、作者は作品のリアリティーを傷ものにするようなことをしたのかしら? そうそう、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)先生はBrecht on Theatre (Eyre Methuen, 1978)でこんなことをおっしゃっていたわ。

too much heightening of the illusion … that gives the spectator the illusion of being present at a … ‘real’ event, create such an impression of naturalness that one can no longer interpose one’s judgement … and must simply conform by sharing in the experience and becoming one of ‘nature’s objects’. The illusion created by the theatre must be a partial one, in order that it may always be recognised as an illusion.(p.219)

言い換えると、あまりにも<リアル>な演劇をしてしまうと、観客はリアルに居合わせているつもりになって何も考えずに満足しちゃうから、観客に何かを問いかけたいときには<リアル>にするのもほどほどにね、ということよね。つまり、リアリティーがほつれているところに、観客は解釈と価値判断の手がかりを見出すということ。逆に、観客にとっての当たり前を、その通りに描いても、彼らが当たり前だと思っている制度を相対化することはできない。では実際、どのように作者のチャーチルさんがこの作品のリアリティーをズタズタにしているのかを、冒頭の場面で見てみましょう・・・。舞台はヴィクトリア朝南アフリカ。ここではClive(夫)とBetty(妻)が夫婦で、両人とも男性俳優が演じているわ。

CLIVE This is my family. Though far from home
We serve the Queen wherever we may roam.
I am a father to the natives here,
And father to my family so dear.

He presents BETTY. She is played by a man.

My wife is all I dreamt a wife should be,
And everything she is she owes to me.
BETTY  I live for Clive. The whole aim of my life
Is to be what he looks for in a wife.
I am a man’s creation as you see,
And what men want is what I want to be. (p.1)

クライブ  これが私の家族だ。故郷からは遠けれど、
    どこを征こうと我らは女王に仕えん。
    私はここの現地人どもの父であり、
    いとしい家族の父である。

    彼はベティ―を示す。彼女は男が演じる。

    妻は私が望んだすべてをそなえ、
    妻はすべてを私に負うている。

ベッティー 私はクライブのために生き、私の人生は
    彼が妻に求めるものになること。
    私はご覧の通り男が作ったもの、
    男が欲するものにこそ私はなりたいの。(拙訳)

なんとなくこの演劇の雰囲気がつかめたかな? ここではすべてセリフが英雄詩体二行連句(heroic couplet)というたいそう仰々しい詩形で書かれていて、弱強×5のリズムに加え、二行一組できれいに韻を踏んでいるの。日本で言うなら五七五のリズムに加え、掛詞・縁語なりを駆使しながらお話ししているようなもの。現実でこんなしゃべり方をする人たちがいる確率は、たぶんタイプライターをサルに与えたらハムレットを書く確率並みに低いでしょうから、セリフを聞いている観客は、「あ、<リアル>じゃないな」と思うわけ。その文脈の中で男が演じる妻Bettyとか、(上の引用部にはないけれど)白人が演じる黒人奴隷のJoshuaとかが紹介されているの。こうした俳優の身体性と役の<ズレ>というのは、英雄詩体二行連句通奏低音の上で強調され、否が応でも観客は意識させられてしまう。これは<リアル>が欲しい観客にとってたいそうおさまりが悪いから、彼らはその<ズレ>に意味づけを与えようと考えることが必要になってくるわね。だからあえて作者がリアリティーを損ねていたのは、観客が欲しがっている<リアル>について、<ズレ>に立ち止まって考えることで、もう一度その本当の価値を判断させよう、っていう意図あってのことなのね。そうしてみると、Bettyが父権的な価値観を内在化させている様子が透けて見えてこないかな? そうBettyは言うの。「私はご覧の通り男が作ったもの」。この戯曲を読み解くカギは、こうして提示されているわけ。

多くの人がフェミニズムを思い浮かべただろうけど、実はこの戯曲はフェミニズムのワークショップから誕生したもので、観客に父権的な社会や価値観について考え直してもらいましょう、というのを目的にしているのよね。だからこの戯曲がわざと”下手に”描こうとしている<リアル>は父権制社会。「<リアル>じゃないから、くだらない」って頭ごなしに否定するのは、女性蔑視と散々たたかれても反省しないドナルド・トランプ大統領くらいじゃないかしら? それにそう読んでしまうと、この戯曲は何も面白くなくなっちゃうのよね。だって、始めっから<リアル>じゃない方向を志向しているのだから。彼みたいに金儲けにばっかり精を出していると、たぶん物語は読めなくなるんでしょうね。<リアル>でない世界の意味を考えるのが楽しい戯曲なのに・・・。

さあ無駄話は切り上げて、<リアル>でない世界を志向するわたしたちは、先ほどの<ズレ>とやらに与える意味づけを一つ考えましょうか。それはつまり、男が女を演じることは、女が<女>を演じてきたことのメタファーだという事。ピンと来た人もいるんじゃないかな。長ーーーい名前のシモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908-1986)の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉もあるけど、つまりこの<ズレ>は、女性が<女性らしさ>を演ずることで<女性>になってきた、という命題を提出していると思わない? 具体例を示しましょう。

CLIVE Don’t squeamish, Betty, let me have my joke.
And what has my little dove done today?
BETTY  I’ve read a little.
CLIVE Good. Is it good?
BETTY  It’s poetry.
CLIVE You are so delicate and sensitive.
BETTY  And I played the piano. Shall I send for the children? (p.3)

クライブ   ショックを受けないでベティー。ジョークさ。
    いとしい君は今日何をしたのかい?
ベッティー  読書を少し。
クライブ   よろしい。よかったかい?
ベティー   詩を読みましたの。
クライブ   君は本当に優美で繊細だ。
ベティー   それにピアノを弾きましたわ。
   子供たちをお呼びしましょうか? (拙訳)

さっきのp.1の引用と合わせてみてみると、このBettyという人が夫Cliveのために「詩を読む」とか「ピアノを弾く」とか、<女性らしい>繊細さを一生懸命手にしようとしているけなげな姿が見て取れるよね。(実は彼女には他の個所で大胆さを求める葛藤があったりもするけど、それを押し殺してもいるんだ。)そうした行為を通して、彼女は一人の<女性>を作りあげていっているの。そしてこの<女>というジェンダーが<女らしい>行為のもとになるのではなく、逆である、つまり行為を通してジェンダーが形成される、という主張はジュディス・バトラー(Judith P. Butler, 1956-)の理論そのものでもあるの。Gender Troubleという本からの長い引用になるけど、根気のある人は読んでみてね。

Gender ought not to be construed as a stable identity or locus of agency from which various acts follow; rather, gender is an identity tenuously constituted in time, instituted in an exterior space through a stylized repetition of acts. The effect of gender is produced through the stylization of the body and, hence, must be understood as the mundane way in which bodily gestures, movements, and styles of various kinds constitute the illusion of an abiding gendered self. (The Norton Anthology of Theory and Criticism版, p.2552)

ここでは<ズレ>が、女が<女>を演じることのメタファーになっているという見方を紹介したけれど、これは今の流行り(?)の「女子力」にも通じるところがあるのよね。その意味で1981年に初演されたこの演劇は四半世紀と半分くらい過ぎた今も全然古びていない。それはともかく、この戯曲には不倫もあるし、ゲイ・レズビアンの問題も含まれているし、それに植民地支配の問題もあるし、まだまだ突っ込みどころがたくさん。それに男性の皆さん、<リアル>な世界では決して意識化されない、あなたたちの”いやらしい”視線さえも意識化される仕掛けがあるのよ(疲れたから書かないけど)。ただ残念なのは、翻訳書が絶版になっていること。それに日本での上演はそうそうないでしょうね。まあ、英語自体は簡単なので暇でもあれば。それではまた、ご機嫌よう。

 

参考(女装した男の演じるBettyに注目)

 

A Study of Shakespeare's Sonnet 85 (以前の記事の英訳)

 

The Sonnets and a Lover's Complaint (New Penguin Shakespeare)

The Sonnets and a Lover's Complaint (New Penguin Shakespeare)

 

 

Sonnet 85’: ‘My tongue-tied muse in manners holds her still’

William Shakespeare

 

My tongue-tied muse in manners holds her still,
While comments of your praise, richly compiled,
Reserve their character with golden quill
And precious phrase by all the muses filed.
I think good thoughts, whilst other write good words,
And like unlettered clerk still cry “Amen”
To every hymn that able spirit affords,
In polished form of well-refinèd pen.
Hearing you praised, I say “'Tis so, ’tis true,”
And to the most of praise add something more;
But that is in my thought, whose love to you,
Though words come hindmost, holds his rank before.
  Then others for the breath of words respect,
  Me for my dumb thoughts, speaking in effect.

 

   Shakespeare’s ‘Sonnet 85’ is inconsistent. This sonnet apparently advocates the superiority of ‘thoughts’ to ‘words’, saying, ‘Then others for the breath of words respect, / Me for my dumb thoughts, speaking in effect.’ (13-14). Here the couplet indicates clearly the binary opposition between ‘words’ and ‘thoughts’. Therefore, the fact that ‘thoughts [are] speaking in effect’ suggests that ‘words’ are not ‘speaking in effect’. The truth is, however, that the poet himself speaks ‘the breath of words’, which is crystallised as this poem. Moreover, though he says, ‘I think good thoughts whilst other write good words’ (5), his poem is undeniably written on paper before us readers. This self-contradiction makes the reader doubt the poet, from which ensues the reader’s scepticism on his superficial meaning. Indeed, the poet’s self-inconsistency seems to generate another: the superiority of ‘words’ to ‘thoughts’. In this paper, the relationship between ‘words’ and ‘thoughts’ is studied, paying attention to the inconsistency between form and content of the poem.
   Before further exploring doubleness of its meaning, it should be pointed out that ‘words’ and ‘thoughts’ in this poem correspond to form and technique, and sentiment respectively. As such expressions like ‘precious phrase by all the muses filed’ (4) and ‘with golden quill’ (3) imply, ‘words’ of other poets referred to in this poem are written in so polished language, which means it is different from our everyday speech. According to Russian Formalist Shklovsky, ‘[t]he technique of art is to make objects “unfamiliar”’ (18). Polished language, then, is what makes objects “unfamiliar” to the reader, and therefore it makes poems poetic. Hence ‘words’ represent form and technique of poetry, or poetic language. On the other hand, ‘thoughts’ represent sentiment of the poet, such as ‘love’ (11). The binary opposition between ‘words’ and ‘thoughts’ is, accordingly, that between technique and sentiment.
   In superficial meaning, the poet is maintaining that sentiment is more profound than form and technique of poetry. He is criticising other poets the poems of whom are empty with lesser sentiment than his, as he alleges ‘[his] love … holds his rank before [all others]’ (11-12). He suggests, in the very expression ‘the breath of words’, the hollowness of their ‘words’, or poetic language. The reader can, indeed, find the poet’s insinuations against poetic language in distortion of rhythm and the metaphors. In lines 2 to 4, he writes,

While comments of your praise, richly compiled,
Reserve thy character with golden quill
And precious phrase by all the muses filed. (2-4)

Here the reader can find iamb twisted in ‘richly compiled’, to be dactyl. When read aloud, the phrase will be pronounced quickly, and the very word ‘richly’ will not be pronounced richly, or magnificently. The phrase sounds, therefore, ironical, implying that thought the ‘comments of your praise’ are luxurious, as words like ‘golden quill’ and ‘muses’ suggest, they are nothing but hollowflattery which do not reflect ‘thy character’. He in lines 6-8 uses ecclesiastical metaphors, likening himself to an ‘unlettered clerk’ and poems of other poets, ‘hymn’:

And like unlettered clerk still cry “Amen”
To every hymn that able spirit affords
In polished form of well-refined pen. (6-8)

   Since hymn is a religious song to praise the God, by analogy, poems of other poets are to praise the poet’s love. The metaphor, however, intimates that even the divinest poems cannot over-praise his lover, just as no hymn can hail the God enough. The poet, who is well aware of such a limit of poetic language, cannot but keep silent—of course, ironically it is the poet who tells the reader this. And by saying, ‘And to the most of praise add something more; / But that is in my thought’ (10-11), he is asserting that his ‘something more’, or sentiment, or love, is not translatable into ‘words’ intact. Therefore, to be true to his sentiment, ‘[his] tongue-tied muse in manners holds her still’ (1). All the same, no sentiment is transmittable without words. Hence, the poet’s dilemma. His agony is such that it is overflowing from the last line, in which the rhythm of sonnet (iambic pentameter) is twisted: ‘Me for my dumb thoughts, speaking in effect’ (14). He is as if praying aloud that his sentiment would transcend words. For him, a poet should not necessarily be eloquent, or skilled in form and technique of poetry, for poetic language is, after all, empty. The rhyming of ‘still’ and ‘quill’ seems to suggest that ostentatious praises are actually quiet and will not reach their lover. Rather, what matters is the sentiment, which may be lost when translated into poetic form and technique. The world of poets’ sentiment is, therefore, richer than that of form and technique of poetry. He, thus, seems to advocate the superiority of sentiment to form and technique.
   The poet, however, is lying. Although he writes, ‘My tongue-tied muse in manners holds her still’, he is undoubtedly writing a sonnet, —and in words ‘richly compiled’. Indeed, he employed, as discussed above, several techniques to criticise other poets, who, according to him, have greater technique and lesser sentiment. His technique can also be seen in very the first line: My tongue-tied muse in manners holds her still. Here the alliteration of m, t and h sounds have high musicality. He is, then, not trustworthy, and it is unclear whether the poet is really thinking he is worse in technique than other poets. Anyway one thing is true. The poet himself is speaking in ‘the breath of words’, that is, form and technique. Then does this mean that the poet’s sentiment expressed in the form of poem is also empty?
   This discrepancy between form and the (superficial) meaning is, again, a key to another meaning. But the superiority of sentiment to form and technique is now deconstructed. That is because although the poet insists upon the emptiness of the form and technique of poetry, he, in point of fact, wants his love and the reader to believe that his ‘words’, or his sentiments expressed in the form of sonnet are, at least, not empty. If he does not want that, he does not, in the first place, need to compose such a poem. The form and technique of poetry, therefore, is, albeit written negatively, what brings ‘Sonnet 85’ into existence. This suggests that the form and technique of poetry is, after all, what poetry is all about. All the sentimentalists are not poets. Then, does he mean substantially that form and technique of poetry is superior to sentiment of the poet? Or is he being deliberately obtuse in implying that they can be separated?
   This very idea which sustains that technique and form are the essence of poetry is, the idea dismissed by the poet himself in the superficial meaning. In this poem two completely contradictory opinions are expressed at the same time, and therefore both opinions on poetry cannot be adopted by the reader. ‘Sonnet 85’ puts, in this way, the reader into the labyrinth of form and technique vs. sentiment, and makes the reader think of a question: what is poetry?

 


Works Cited

Shakespeare, William. ‘Sonnet 85’: ‘My tongue-tied muse in manners hold her still’. The NortonAnthology of English Literature, 9 th edn, Vol.B. Ed. Stephen Greenblatt et al. New York and London: W. W. Norton & Company, 2012.
Shklovsky, Viktor. ‘Art as Technique’. Literary Theory, An Anthology. Ed. Julie Rivkin and Michael Ryan. Oxford: Blackwell Publishers , 1998. pp.17-23

 

(SPQR)

なぜ『それ町』は<廻っている>のか?

  漫画『それでも町は廻っている』を読み終わった者は、誰しもあの最終話に違和感を持つだろう。129話「少女A」は主人公・嵐山歩鳥が「よいオチが思いつかない」と叫ぶシーンで終わっている。このセリフをメタ言及、つまり作者が『それ町』のオチが思いつかなかったことを主人公の口を借りて告白しているのだと解釈すると、綿密に積み重ねられてきた本編を締めくくるのには少し物足りない気がする。一体どのように受け止めればよいのだろうか。

 単行本の読者ならすぐに気が付くことだが、この作品にはきちんとオチがついている。単行本に収録されているエピローグ「それから…」を読む限り、作者はこの作品のオチを思いついている。従来通りの関係性が変わらず続いていくことを強く望んでいた歩鳥だが、エピローグでは亀井堂静との関係を積極的に変えていく。歩鳥の言葉に対する亀井堂の反応にも胸が熱くなる素敵なオチだ。このことから、最終話の歩鳥のセリフをメタ言及と捉える解釈は妥当だと言い難い。
 それではなぜ、「少女A」が最終話なのだろう。勿論あのセリフがメタ言及でないからといって最終話として全く機能していないわけではない。128話「嵐とともに去りぬ」とこれ以上繋がりのよい話は他に見当たらない。しかし、この大作を締めくくるのによりふさわしいエピソードが他にあったのではないか……この想いに駆られた者は誰しも、この作品では時系列がシャッフルされていることに思い至る。129話「少女A」はたまたま時系列シャッフルで一番最後に来ているだけであり、本当の<最終回>はどこか別の場所に配置されてしまったというわけだ。それでは、どのエピソードが本当の<最終回>なのか。
 真っ先に確認したくなるのは、時系列を整理したときに最後に来るエピソードである。丁寧に読み返せば、111話「夢幻小説」がそれにあたることが分かる。歩鳥が自分が生まれなかった世界を訪れた<夢>を思い出そうとするエピソードで、タッツンこと辰野トシ子が冷え性で受験勉強を中断していることとシーサイドがメイド喫茶ではないことから高校3年生の冬が舞台だと判断できるからだ。このエピソードが<最終回>でもおかしくないと私は思う。歩鳥の話から回想パートが128話「嵐とともに去りぬ」の後日談であることが示唆されており、歩鳥の3年間の物語は少なくともバッドエンドではなかったことが分かるからだ。また、回想パートで亀井堂と歩鳥の関係性が重要な役割を果たしており、エピローグとの繋がりも良い。
 しかし、111話が<最終回>だとここで決めるのは聊か短絡的ではないか。それは次の二つの理由からである。一点目は先ほど129話を<最終回>にふさわしくないとしたのと同じ理由だ。例えば127話「至福の店フォーエバー」こそ<最終回>にふさわしいのではないか。『それ町』は歩鳥とタッツンがメイド喫茶シーサイドで働き始めることで幕を開ける。タッツンがバイトを辞める「至福の店フォーエバー」ならば、1話と対応することができる。また、127話は『それ町』屈指の名エピソードである。『それ町』全編通して唯一の見開きページには二人の思い出が散りばめられている。「楽しかったね」と手を取りあう二人。誰もが認める感動回であろう。この127話と比べた時、111話にどれだけ分があるだろうか。しかし、一点目に勝って重要なのは、二点目である。つまり、ここで111話を<最終回>としてしまっては、時系列シャッフルに関して疑問が残るのだ。時系列順にエピソードを並び替えた時に最も後にくるものが自動的に<最終回>なのであれば、時系列シャッフルは111話を読者に探すように促すために存在していたことになる。勿論時系列シャッフルがこれ以上何か別の意味を持たなければならないということはない。また、歩鳥が推理小説を愛読し探偵を目指していることを踏まえれば、このようなパズルが仕掛けられていたとしても驚くに値しない。しかし、本当にそれだけのために、10年間以上時系列シャッフルという足枷を自らはめてきたのだろうか。本当に時系列シャッフルについてこれ以上の解釈ができないものか。
 作品をどのような形で読めばよいかという問題を読者の裁量にゆだねる目的があったのではないか。これがこの問題に対する私の仮説だ。本作をどのように読み進めればよいかという問いに対して、我々は時系列や作者の決めた順番という正解を持たない。本作を読み進める際に時系列に沿って読む必要はない。何しろ作者がそう強いてくるのだ。作者が行った作品の並べ方もあくまで一例に過ぎない。たまたま129話が最終話だったように、時系列順で最も後にくるエピソードがたまたま111番目に描かれたように、目の前に並んでいる『それ町』のエピソードはたまたまその場所に収まっているにすぎない。つまり、我々は本作をどのように読み進めても、あるいはどのように読み返してもよいことになる。裏返せば、我々は本作をどのように読み進め、あるいはどのように読み返すか自分で考えなければならない。『それ町』は読者ひとりひとりのその時々の読み方によってシャッフルされ続ける不思議な構造を持った作品なのだ。
 この構造を踏まえれば、読者が<最終回>を自由に選んでよいことは明らかだろう。読者が自分なりの読み方を大事にしながら<最終回>を選び、それを<最終回>にふさわしいと思う位置に置きながら自分だけの『それ町』を作っていくことができる。編集作業を行うにあたって、111話や127話を<最終回>にしたいのであればそれを最終話にすればいい。紺先輩との関係を主軸に読むなら、11話「猫少年」を冒頭に125話「紺先輩スペシャル」を最終話に持ってきていい。同じく紺先輩との関係を主軸に置いていても、<最終回>は76話「歩く鳥」という人もいよう。さらに言えば、<最終回>が最終話である必要はない。<最終回>である76話の後ろに後日談として125話をつけても構わない。
 ここで足を止めても構わない。しかし、私はせっかくここまで来たのだから、もう一歩踏み出してみたい誘惑にかられる。読者がそう思うならそれが<最終回>であるのであれば、どのエピソードが<最終回>でも構わないだろう。1話から129話まで全て<最終回>といえない回はなくなる(これまで散々けなしてきた129話がどうして<最終回>でないといえようか。本稿の冒頭で129話が最終回であることをどう受け止めればよいのかと問いを立てたがこれがその答えである)。本当の<最終回>はどれかという問いに対して、すべてのエピソードが等しく正解ということだ。ここに至れば、このような疑問が頭を過るはずだ。果たして本当にその問いに取り組まなければならないのか。
 驚いたことに、この問いに否と答えることは作品と向き合う上で消極的な意味を持つわけではない。むしろそう答えたくなることこそがこの作品の肝だと私は考える。ここまで歩いてきた我々はもう<最終回>など選ばなくてよいのだ。全てのエピソードが<最終回>になり得る。もっといえば、1コマ1コマが<最終回>に等しい輝きをもって作品の中に組み込まれている。時系列シャッフルは、このような読み方を読者に提案する仕掛けなのではないか。
 この読み方は、すべての瞬間が平等に尊いという人生観を想起させる。感動に胸をいっぱいにさせている時も、トラブルに巻き込まれて葛藤している時も、親しい人と一緒に過ごす大切な時間も、一人で漫然と過ごしている時でさえ、<最終回>と呼ぶにふさわしい重さを持っている。我々は日常的に時間に重みづけを行い、人生を解釈している(だからこそあの場所で足を止めても構わない)が、その作業の果てで、すべてが光って見える瞬間がやってくるというわけだ。本作の描こうとしているものに辿り着くためには、この人生観まで考慮に入れるのが適当だろう。『それ町』は単なる日常系ギャグ漫画ではない。嵐山歩鳥が歩んだ3年間なのである。(HRK)

哲学・哲学史にこれから入門する人向けのごく私的な文献案内

 大学入学当初、いままで足を踏み入れたことがなかった新書コーナーで、私はあたふたしてしまっていた。哲学入門と称する本があまりに多すぎる!大学生協の小さなフロアに「最良の哲学入門」が何冊もある!!いったいどいつが本物なんだ!!!……本稿は、あの時の私と同じ思いをしている人(私の妄想の中にしかいないかもしれないが)に向けて、哲学入門書のブックリストを提供するものである。
 もっとも私が読む本には当然偏りがある。全ての哲学入門書を読んだわけでもない。以下で具体的に挙げる本は、一例に過ぎないし、最良のものでもないだろう。多少詳しい人の目から見れば、あの本もない!この本にも触れていない!けしからん!ということになるのは書き始める前から目に見えている。しかし、本稿が目指すのは、既刊書の総覧ではない。概ね入門者にはこうした作業が求められる、そのためにこういうものが用意されていて、それらはこのように使えばよい、という大枠は示すことこそが目指される。類書と目の前の本との異同を把握し、自分に必要な本を選び取れるようになるためにも、現在に至るまで作られてきた哲学入門書(および哲学を学び始めるために役立つ一般書)の全体像について一定のイメージをもっておくことは有意義なことだ。これから旅に出る方々のアトラスを示せれば、本稿の役目は果たされたことになる。
 
0.概観を始めるために
 私は哲学の入門書は、それが答えようとする問いの違いによって、2タイプに大別できると考えている。すなわち「なぜ哲学的な問題が問題なのか」と「哲学的な問題はいかに問題とされてきたのか」の2つである。前者では、哲学がいかなる問いに対してどのように取り組んできたかが示される。その結果、読者はそれらの本を読み確かに哲学的な問いが解決されるべき問題だと実感することができるはずだ。後者は、端的に言えば哲学史の知識を与えてくれるものだ。
 残念ながら、実際には綺麗に2タイプに分かれるわけではない。自分にあった哲学入門書を見つける際に類書との異同を把握する手助けをする目安として、この分類が意味を持つと考えている。以下ではこの分類に従って整理を進めていきたい。
 
1.なぜ哲学的な問題が問題なのか
①哲学とは何か
 哲学とは何かという問いに直接答えようとする入門書がある。哲学とは何かという問うことは、哲学に何ができて何ができないのかを考えることだ。哲学が何をもたらすのかを把握することで、哲学の営みとはどのようなもので、どのような意味があるのか理解できるようになるはずだ。
 このタイプの典型例として、永井均『<子ども>のための哲学』講談社(現代新書, 1996)が挙げられる。この本では、著者が実際に子供のころから哲学をしてきた経験を振り返ることで、実践の中に哲学的思考とは何かが示される。実際に哲学的な問いを感じたことがある人に、その問いと真剣に向き合う勇気を与えてくれるはずだ。永井の哲学観そのものだが、哲学は哲学的問題を抱いてしまった人のためのものであることが作品全体を通じて伝わってくる。
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

 

 一方、鷲田清一『哲学の使い方』岩波書店(新書, 2014)も、同じく哲学に何ができるかについての考察だ。困難な問題に対して結論を留保し、二項対立を前に考えを深めやがてその対立の外にでることこそ知性の役割であり、そうした態度を身に付けることが哲学の役割だとしている。

哲学の使い方 (岩波新書)

哲学の使い方 (岩波新書)

 

 この2冊を見るだけでも、哲学に何ができるかについて様々な見解があることは予想がつくだろうと思う。最初は自分なりの入り口を見つければいいと思う。学習が進んだ後でそれを相対化する機会をもてばいい。

②哲学の問題群
 哲学的な問題のカタログと、それに対する回答群を提示する本がある。これらの本では往々にして日常生活では取り立てて疑問を挟むことがない事柄が取り上げられる。当たり前だと思っていることを一度立ち止まって考えてみることが、哲学を始める第一歩となる。
 このタイプの典型例は、野矢茂樹『哲学の謎』講談社(現代新書, 1996)だ。哲学の根本的な問題を対話形式で紹介していく。雑談から哲学的な対話へ発展していくスタイルは、初学者にも親しみやすい。結局明確な答えにたどり着くわけでは無いが、読者自身で問いに取り組んでみることを誘ってくれる。

 一方で、野矢の本は、読者に対する親切さという点でいくつかの弱点を抱えている。まず、何章か読まないと二人のキャラクタがうまく掴みにくく対話に入り込みにくいこと、論点同士の関連性が端的に言って分かりにくいことだ(これについては著者自身も最後のほうで課題として言及している)。また、記述に際してどのような哲学者を参考にしたか一切言及がないのも、勉強を次に繋げる際に弱点となるかもしれない。

哲学の謎 (講談社現代新書)

哲学の謎 (講談社現代新書)

 

 こうした弱点を見事に克服しているのが、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』筑摩書房ちくま学芸文庫, 2007)だ。中学生の翔太と、猫のインサイトが、哲学的な問いについて会話をするというスタイルの入門書。読み始めればすぐにわかるが、この本では猫のインサイトが案内役になるという構成が明確で読み進めやすい。また、各章の最後では哲学者に言及がなされ、彼らの思想の一端が今までの議論を踏まえて自然に解説されている。さらに、前の章で扱われた内容が後の章で繰り返し参照されるように構成されており、著者の中で前の問題と後の問題に如何なる関係があることが明確になっている。これは問いの立て方にも反映されていて、たった4つの問いで多くの論点を扱うことに成功しているのも魅力的だ。

 一方で、断定ととることもできる部分も多く、読者によっては説明が不十分だと感じると思う。また、傍論としていかにも永井らしい哲学観がちりばめられているが、説明が具体的なレベルでなされておらず、読者によっては困るポイントだろう。それに、この本は入門書としては内容のレベルが高いと思う。ある程度、哲学(史)に馴染みがないと理解が難しいのではないかと思わされる記述も多い。

 ここまでの2冊は対話形式の入門書だった。実は、対話篇を読みづらいと感じる人が意外と多いようだ。論理関係を追いにくいし、時に議論の流れが錯綜することもある。

 対話篇だと読みにくいから散文になっている方がいいという人には Th.ネーゲル『哲学ってどんなこと?』昭和堂(1993)や加藤尚武『現代倫理学入門』講談社講談社学術文庫,1997)が薦められると思う。Th.ネーゲルのものは、野矢の本と似通った論点について、やさしく読者をリードしてくれるはずだ。加藤のものは倫理学の入門書になるが、哲学的な議論についても参考になる。
哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

 

 

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

 

 麻生博之・城戸淳(編)『哲学の問題群』ナカニシヤ出版(2006)は若手の研究者を中心に、26の論点を設定して論じている。哲学者の議論を紹介・検討していくスタイルで、先に挙げたものとは雰囲気が多少違うと思う。哲学者の議論に関心のある方には入門書として重宝するだろうが、逆に哲学者の名前を持ち出されることに抵抗を感じる人には苦しいかもしれない。各章の終わりに簡単な文献案内があり、参考になる。

哲学の問題群―もういちど考えてみること

哲学の問題群―もういちど考えてみること

 

 西脇与作『現代哲学入門』慶應義塾大学出版会(2002)も教科書としては独特の雰囲気を持っている。科学史の知識を盛り込んで議論を展開しているのが特徴的だ。また、演習問題やまとめ、充実したコラムなど学習に役立つ工夫も随所に見られ、教科書として完成度が高いと思う。一方で、科学や数学の議論、それから論理記号にアレルギーがある人には難のある一冊だろう。この本も哲学者を適宜紹介していくスタイルで、先に紹介したネーゲルも簡潔に扱われている。

現代哲学入門

現代哲学入門

 

 ちなみに、哲学的問題のカタログという形式をもつ入門書は品揃えがよい。それぞれ工夫を凝らしたものが毎年出版されている。それらの工夫だけをもって斬新で今までにない入門書だと調子づかれても正直困るのだが、何とかして間口を広げようという姿勢には頭が下がる。古典的には、野矢茂樹『哲学・航海日誌』(全2巻)中央公論新社(中公文庫,2010)が有名だし、最近のものでは、八木沢敬『「不思議の国のアリス」の分析哲学講談社(2016)が目についた。

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)

 

 

哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

 

 

『不思議の国のアリス』の分析哲学

『不思議の国のアリス』の分析哲学

 

 哲学的な問題を1つ2つに絞り、じっくり議論を試みるものもある。興味を持ったテーマがある人には、まずこうした著作に取り組んでみることをおすすめする。例えば時間論には、滝浦静雄『時間』岩波書店(新書, 1976)や 加地大介『なぜ私たちは過去へ行けないのか』哲学書房(2003)がある。

時間―その哲学的考察 (岩波新書 青版)

時間―その哲学的考察 (岩波新書 青版)

 

 

なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)

なぜ私たちは過去へ行けないのか―ほんとうの哲学入門 (魂の本性)

 

 金杉武司『心の哲学入門』勁草書房(2007)のように、あるテーマについて考える上で触れておいた方がいい主要な論点を網羅的に概説していく教科書もある。特定の関心分野が既に決まっている場合は、こうしたものにあたることが勉強をさらに前に進める上で有効だと思う。

心の哲学入門

心の哲学入門

 

 ここまで紹介した著作にあたってみた後で、是非手に取ってほしいのが、永井均ほか編『事典 哲学の木』講談社(2002)だ。読む事典として構想されており、関連項目に従って枝から枝に飛び移るように読んでいくことができる。哲学の問いの広がりと、壮大さを感じられる一冊だと思う。

事典・哲学の木

事典・哲学の木

 

 

③考えていくために

 哲学において自分で考えることはとても大切なことだ。今まで挙げてきた多くの本も読者にそうすることを薦めて終わっている。
 ソクラテス以来思考は対話と重ねられ、内的対話として語られてきた。思考が対話である以上、決して対話者を失くすことがないようにしなければならない(もっと直接的な言い方をすれば、自分の思い込みに振り回されて、何も考えていないのにも関わらず考えたつもりになることがないようにしなければならない)。自分勝手な結論ではなく、自分なりの魅力的な結論を提出するためにも、考えるためのツールを磨くことは決して遠回りではない。
 
 伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』筑摩書房ちくま新書, 2005)の目指す「健全な懐疑主義」は、目指すべき姿の一例を示してくれていると思う。哲学的な問題を考える際に必ず付きまとう懐疑主義を直接的に扱い、懐疑主義を飼いならす著者なりの仕方を紹介してくれる。ちなみに、この本は通読した限りクリティカル・シンキングのための本だが、組み替えると懐疑主義の概説書としても読め、懐疑主義それ自体に関心を持つ人にも嬉しい洒落た仕掛けが施されている。
哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

 

 ちょっと変わった倫理学入門書として界隈では有名な一冊だが、A.ウェストン『ここから始める倫理』春秋社(2004) も参考になる。倫理について自分で考えるにはどうすればいいか、に力点を置いており、倫理学に向き合う態度から、設定した問題を創造的に問題を解決していく時の心構えまでコンパクトにうまくまとめあげている。

ここからはじまる倫理

ここからはじまる倫理

 

 思考を対話だと考えた時、論理的であることは非常に重要になってくる。野矢茂樹『論理トレーニング101題』産業図書(2001)に代表されるように論理的に考えられるようになるための本は多く出ているので、それらを活用されたい。

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

 

 戸田山和久『新版 論文の教室』NHK出版(NHKブックス, 2012)など論文の書き方を解説した本や、苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社講談社+α文庫,2002)のように思考法一般について解説した本に目を通してみる事も大切だと思う。ここに挙げた2冊はいずれも読みやすいだけでなく、類書の基本的な内容がコンパクトに詰め込まれており、手に取って損はない一冊だ。少なくともこうした類の本を一冊でも二冊でも携えておくことは大学で勉強をしていく最低限の準備だと思う。学問的な問いをどのように発展させていけばいいかについて重要な示唆を与えてくれるからだ。

新版 論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス No.1194)

新版 論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス No.1194)

 

 

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

 

 問いを前にした時に、単にロジカルなだけでは少し心もとない。すでに挙げたものの中では、永井『翔太と猫のインサイトの夏休み』に見られるように、哲学には哲学特有の道具があり、時に絶大な効力を発揮することになる。それらについて解説したものとして、J.バッジ-ニ, P.フォスル『哲学の道具箱』共立出版(2007)と同『倫理学の道具箱』共立出版(2007)が役に立つだろう。また、通読には前提知識や慣れが必要かと思われるが、現代哲学の知識を総覧した 田辺秋守『ビフォア・セオリー』慶應義塾大学出版会(2006)も役立つだろう。

哲学の道具箱

哲学の道具箱

 

 

倫理学の道具箱

倫理学の道具箱

 

 

ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”

ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”

 

 思考の際に使われるのは、学術的な道具立てや論理だけではない。分類や系統づけも大きな役割を果たしている。こうした向きに関心のある方には、三中信宏系統樹思考の世界』講談社講談社現代新書, 2006)を優れた入門書として紹介しておきたい。

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

 

 思考は対話だと先に書いたが、コミュニケーションに関する実用書も手に取るといいと思う。実際に他者と対話する際にも役に立つはずだ。D.ストーンほか『話す技術・聞く技術 ー 交渉で最高の成果を引き出す』日本経済新聞出版社(2012) をここでは挙げておきたい。この類の本は、実際のコミュニケーションの場に出てみて「どうしてうまく議論ができないのだろう」と自問しながら読むと、もやもやした印象が言語化されて実りが多いだろうと思う。

話す技術・聞く技術―交渉で最高の成果を引き出す「3つの会話」

話す技術・聞く技術―交渉で最高の成果を引き出す「3つの会話」

 

 

2.哲学的な問題はいかに問題とされてきたか
哲学史に馴染む
 哲学史の教科書を開いてみると、まずソクラテスがどんなことを考えたかが解説されるわけである。ソクラテスのソの字どころか、古代ギリシャって何ぞやという感じだった大学入学当時の私は、「ソクラテス?なんでこんなやつのことを勉強しなくちゃならないんだ?」と、哲学史の本を数ページで放り出してしまった記憶がある。私のように軟弱な方は少ないかもしれないが、哲学者に親しむ、なぜ哲学者について勉強するといいのかを知る、そこから始めてみたい。
 個人的な経験からすると、鷲田清一永江朗『哲学個人授業』筑摩書房ちくま文庫, 2011)が役に立った。その哲学者について学んだことのある人が楽しく感想を喋っているのがやはり一番関心をそそられるものだと思う。この本は、印象論も多く、親しみやすい。 
哲学個人授業 (ちくま文庫)

哲学個人授業 (ちくま文庫)

 

 佐伯啓思『西欧近代を問い直す』PHP出版(PHP文庫, 2014), 『20世紀とは何だったのか』PHP出版(PHP文庫, 2015)のように、哲学をつかって現代政治を分析するものも親しみやすいと思う。古典を読むことが、現代社会を生き、現代社会の問題について語る上でもつ威力を実感させてくれる。時事評論に慣れ親しんだ人や現代社会の問題について考えたい人が哲学に慣れ親しむきっかけになるだろうし、哲学を「使う」際の一つの例を提供してくれる意味でも好ましい。ただし、特定の政治哲学を背景にしているように読める箇所もあるので、特に結論に関しては人を選ぶ本だと思う。

西欧近代を問い直す (PHP文庫)

西欧近代を問い直す (PHP文庫)

 

 

20世紀とは何だったのか (PHP文庫)

20世紀とは何だったのか (PHP文庫)

 

 J.ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』筑摩書房ちくま学芸文庫, 2016)も読みやすい。不正や腐敗がいかにして生じるかを道徳命題についての独自の整理を行いながら論じていく。哲学にも関心のあるインテリが政治や経済について談笑している現場に臨席している雰囲気が味わえる。

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

市場の倫理 統治の倫理 (ちくま学芸文庫)

 

 文化評論に哲学を使っている本もある。政治や経済の動向に関心がない向きにはこちらの方が親しみやすいかもしれない。東浩紀『弱いつながり』幻冬舎幻冬舎文庫, 2016)はその好例だ。現代人に親しみやすい題材について哲学の知識を応用して論じていく。東氏の著作はいずれも議論を巻き起こしており、内容については賛否両論があると思うが、ここでは親しみやすく入手しやすいという点をもって肯定的に評価したい。ちなみに、現在「哲学カフェ」が広まってきているが、東氏も積極的にそのような活動に取り組んできた。そうした場に足を運んでみることが、哲学に親しむ最新のスタイルになりつつあるのかもしれない。

  哲学に造詣の深い著者による文芸評論として、柄谷行人日本近代文学の起源講談社講談社文芸文庫, 1988)を挙げておきたい。また、岩波書店刊行の『思考のフロンティア』シリーズ として刊行された小森陽一レイシズム』(2006)は、思想にも関心をもつ文学者による論考で、文学の可能性を感じさせてくれていてとても面白い。

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)

 

 

レイシズム (思考のフロンティア)

レイシズム (思考のフロンティア)

 

 所謂人生相談・人生哲学ものの中から、ここでは那須恵理子『フレンチ ラヴ・ポトフ』アンドリュー・プレス(2004)を挙げる。精神分析家が臨床の経験をもとに、恋愛相談を行っている。読みやすい。

フレンチ ラヴ・ポトフ

フレンチ ラヴ・ポトフ

 

 先に、哲学的問題を概観する著作を見た。それとの関係で、ここでは一つの問題に絞り、哲学者の議論を時代順に追ってみていく問題史とよばれるスタイルの本を紹介したい。品川哲彦『倫理学の話』ナカニシヤ出版(2015)や 松枝啓至『懐疑主義京都大学学術出版会(2016)などが比較的新しい。問題に関心を寄せるものにとっては、いろいろなアプローチの違いとしてみることができ、理解が深まる。自分の意見と似通った哲学者が見つかるかもしれない。

倫理学の話

倫理学の話

 

 

懐疑主義 (学術選書)

懐疑主義 (学術選書)

 

 この節は本稿の中で最も不十分なものである。個人個人に合わせて、より多様な入り口があり得るからだ。例えばここで取り立てて触れなかったが、歴史に関心があれば、歴史哲学に関する本が入り口となってくれる。旅が好きな人には、異国の哲学者がどのような街で思索をしていたのか調べてみるのもいい。気長に探していただくのが、自分だけの入り口への最短ルートだと思う。この節ではその取り組みの一例を示したに過ぎない。哲学者に関心が持てないという悩みを共有する方に、この節が参考になれば幸いである。

 
哲学史を概観する
 哲学史を概観するのに適した教科書的な著作を見ていきたい。ここで哲学史というとき、私が念頭に置いているのは、哲学を語る上で重要な哲学者たちについての解説をコンパクトにまとめたものである。そのため、歴史研究の水準にはばらつきがある。また、上で紹介したものの中には政治哲学や経済思想に関連するものもあり、そうしたものに特化した政治思想史や経済思想史関連の著作もあるが、ここでは直接扱わない。
 と言っておいてなんだが、実は私自身は哲学史を学び始めるにあたって哲学史の教科書を必要としなかった。そうした本よりも先に、哲学史の講義を受ける機会に恵まれたからだ。そのため、入門者の立場になって紹介できるか怪しい。そのことを一応断ったうえで、自分なりにとっつきやすそうなものを紹介してみたい。
 
 高校倫理の参考書は哲学史を勉強する上で参考になる。中川雅博『センター試験のツボ倫理』桐原書店(2009)は、信頼のおける研究者による高校倫理の解説である。
センター試験のツボ倫理

センター試験のツボ倫理

 

 高校倫理はちょっと…という方には、貫成人『図説・標準 哲学史新書館(2008)は取っつきやすいと思う。要点を簡潔にまとめてある上、図も多用されているのでわかりやすい。

図説・標準 哲学史

図説・標準 哲学史

 

 思想史の大家によって書かれた、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書も概観として優れている。中高生向けに書かれたものだが、ヘレニズムとヘブライズムを軸に構成されており、哲学史をこれから見ていきたい人にとっては誰でも非常に参考になると思う。

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)

 

 現代の哲学者まで目配りがきいているものとして柘植尚則(編)『入門・倫理学の歴史』梓出版社(2016)は信頼がおける。重要な哲学者についての概説がなされており、コラムも含めれば現代英米哲学に至るまで哲学史の主要な論点について一通り触れることができると思う。

入門・倫理学の歴史 24人の思想家

入門・倫理学の歴史 24人の思想家

  • 作者: 柘植尚則,西村洋平,武富香織,菅原領二,秋保亘,吉田修馬,石田京子,水野俊誠,西川耕平,西山晃生,金成祐人,長門裕介,村上暁子,五味竜彦,花形恵梨子,圓増文
  • 出版社/メーカー: 梓出版社
  • 発売日: 2016/03/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 熊野純彦『西洋哲学史』(全2冊)岩波書店岩波新書, 2006)も挙げておきたい。初学者にいきなりこれは読みにくいと思うのだが、テキストの引用を軸に哲学者の思考を追っており、実際に自分の頭の中で哲学史を作っていく際に非常に参考になるはずだ。 

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

 

 

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

 

 現在、最もスタンダードな教科書は、中央公論新社刊行の『哲学の歴史』(全12巻+別冊1巻)である。古代から現代まで、ビッグネームからマイナーな哲学者に至るまで、信頼できる執筆陣による紹介に触れることができる。文献案内も充実しており、勉強を本格的に始める際には是非手に取っておきたい。また、個別の思想家についてはNHK出版刊行の『思想のエッセンス』シリーズや、講談社刊行の『現代思想の冒険者たち』シリーズは、読み応えがある入門書として定評がある。

 残念ながら、現在の出版状況では「この1冊」といえる定番の入門書は存在していない。複数冊にあたりながら、自分なりに哲学史を構築していくしかないのが現状だと思う。
 なお、個人的には、小野紀明『西洋政治思想史講義』岩波書店(2015)に付された学部学生のための文献案内が大いに役に立ったので、一度手に取ってみてもらいたい。 
西洋政治思想史講義――精神史的考察

西洋政治思想史講義――精神史的考察

 

③古典に挑戦する

 哲学史を学ぶには何といっても哲学者自身の著作に触れるのが一番だ。自分で哲学書と向き合ってみることで、自分の中で哲学史を再構築していくことが求められる。
 しかし、である。自分らしく哲学書を読むことと、自分勝手に読むことはやはり違う。最後に、古典を如何に読めばよいかを考えるための著作を紹介して、この記事を終えたい。
 
 本を読むこと自体を考察した本は、P.バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房ちくま学芸文庫, 2016),P.メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』フィルムアート社(2015)など多く出版されている。
 余談だが、私は最初なぜ古典を読まなければならないのか理解できなかった(今も正直しっくり来ていない)。P.バイヤールのものはそうした問題を考えていく上でも参考になると思う。
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

 

 本を実際にどう読むかについては、多くのハウツー本が出回っている。私はこの手のものをあまり読んでおらず、研究者が本をどのように読んでいるかを参考にしている。芦名定道氏(キリスト教学・京都大学文学部教授)のHPでは「書評のすすめ」(http://tillich.web.fc2.com/sub9e.htm)として、読書の方法について言及がある。小田川大典氏(政治思想史・岡山大学法学部教授)も「本の読み方を教えてください」という質問に回答したことがある(本の読み方を教えて下さい。 | ask.fm/odg700)。

 古典に特化したものとしては、小野紀明『古典を読む』岩波書店(ヒューマニティーズ, 2010)がある。自分の中でしっくりくるものにはいまだ出会っておらず、十分な紹介はできない。私が見た限り、類書が乏しいことも原因としてあると思う。

古典を読む (ヒューマニティーズ)

古典を読む (ヒューマニティーズ)

 

  ちなみに、有名な哲学者に関する限りでは、個別に解説があることもある。例えば加藤信朗『初期プラトン哲学』東京大学出版会(1988)の中では、プラトンの読み方が考察の対象となっており、学生としては非常にうれしい。

初期プラトン哲学

初期プラトン哲学

 

 歴史哲学について学ぶことは過去のテクストと向き合う上で参考になる。歴史哲学の入門書としては、小田中直樹歴史学って何だ?』PHP研究所PHP新書, 2004)が優れている。また、文学理論に触れておくことも参考になるかもしれない。取り敢えず丹治愛『知の教科書 批評理論』講談社講談社選書メチエ,2003)を挙げておく。

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

 

 

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

 

  哲学者のテクストに添って思想を解説している参考書や、注釈書があればそれらは多く参考になる。そうしたものとして、以前別稿で紹介した B.フィンク『「エクリ」を読む』人文書院(2015)を挙げておきたい( 文字に添って - 鴨川日記 )。哲学者個人個人の入門書・研究書などについては稿を改めて紹介する機会をもつかもしれない。

 古典といえどむやみやたらに全部読まなければならないというわけではない。選書をすることも大切だ。鷲田・永江『哲学個人授業』では各章で鷲田による原典の文献案内が簡単になされているほか、『哲学の歴史』シリーズの別巻には哲学研究者たちへのインタビューも収録されている。これも参考になるはずだ。
哲学の歴史〈別巻〉哲学と哲学史

哲学の歴史〈別巻〉哲学と哲学史

 

 問いに取り組む上での必要に応じて本を読むためには、戸田山『論文の教室』の他、佐藤文香氏(ジェンダー論・一橋大学社会学部教授)のHP(hitotsubashi)が有用だと思う。学術的に問いに取り組む心構えと技術について学ぶことができる本が紹介されている。

 西洋哲学史の古典を読むうえで、西洋史の知識は必須だ。『大学で学ぶ西洋史』(全2冊)ミネルヴァ書房(2006, 2011)が概説書として、一つの目安になる。この2冊が難しいと思う人のために、巻末に優れた初学者向けの文献案内を付したものとして、『人文学への接近法』京都大学学術出版会(2010)をお勧めする。

大学で学ぶ西洋史―古代・中世

大学で学ぶ西洋史―古代・中世

 

 

大学で学ぶ西洋史 近現代

大学で学ぶ西洋史 近現代

 

 

人文学への接近法 ―西洋史を学ぶ

人文学への接近法 ―西洋史を学ぶ

 

 

3.おわりに
 ここで提出する大枠を提出する際、こだわったことは2つある。一つは、「これはさすがに分かるでしょ」は禁句にすること。もう一つは自由に勉強することと自分勝手に勉強することをはき違えないでもらうようにすること。そうした想いがどこまで反映できたかは、この記事の読者の判断に委ねることにする。
 今後、ここで提出した枠組み自体の変更を含む改善を行っていきたい。誰かが自由な読書を通じて自分なりの入り口が見つけていく際のお手伝いができたならば、それは私にとって望外の喜びである。
追記:2月8日に内容を更新しました。(HRK)

ソクラテスとホメロスのあいだで

藤澤令夫「プラトン的対話形式の意味とその必然性 - 文学と哲学」『藤澤令夫著作集Ⅱ イデアと世界』(岩波書店)所収
藤澤令夫著作集〈2〉イデアと世界

藤澤令夫著作集〈2〉イデアと世界

 

 言葉のもつ危うさを批判しながら、それでもなお言葉で綴る。プラトンはそうした形であの膨大な著作群を書き残した。誰の頭にも当然のことのように、なぜプラトンがそれらを書いたのかという問いが浮かぶ。その正確なところを探ることは私の力量を超えるので、ひとまずプラトンが書くことに対して何らかの意味を見出していたと回答しておくとしよう。むしろ本稿が問題にしたいのは、なぜプラトンは自身の著作に対話篇という形式が採用されたかということだ。この問いに答えることは、なぜ一方で書き言葉を批判したプラトンが自身文章を書いたのか考えるうえでも非常に参考になる。この問いに正面から取り組んだ論文を簡単に紹介しながら、 詩論する詩・試論~シェイクスピア・ソネット85番~ - 鴨川日記 に対するささやかな応答を試みたい。なお、本稿では都合上、孫引きなど本来避けられるべき行為を行うことがある。その都度指摘するようにするが、ご容赦願いたい。

 この論文は初め『岩波講座 文学 4 表現の方法1 - 世界の文学 上』(岩波書店)に寄せられた(以下、この岩波講座版を参照しながら書き進める。先に『藤澤令夫著作集』を挙げたのは新しさを考慮してのことである)。

  哲学者をめぐる論考がどうしてと違和感を抱くかもしれないが、プラトンの書いたものに触れたことがあれば、これはそれほど驚くことでもないはずだ。プラトンの対話篇では、個性豊かな登場人物たちが、具体的な「とき」と「ところ」において、生き生きと議論を交わしており、十分に文学的と呼べる。アリストテレスも『詩学』の中で、プラトンによる「ソクラテス対話篇」をミーメーシス(言葉による描写)による創作、つまり叙事詩などと同様に文学であると考えていたと藤澤は指摘する。しかし、一方で『詩学』以外のテクストにおいてアリストテレスプラトンを哲学者として扱っている。ホワイトヘッドの言を俟つまでもなく、我々はプラトン著作を哲学書として読み、彼の哲学をこそその中に見ようとしてきた。ここにプラトンのテクストが二重性を持つものとして現れる。すなわち、「文学」のテクストであると同時に、「哲学」のテクストでもあるのだ。この点について藤澤は次のように問いを立てる。

 こうしてわれわれは、通常、プラトンの対話篇は哲学書であると同時に文学書であるとか、文学的要素の加味された(あるいは「芸術的香気に包まれた」)哲学書であるとか言って事をすませている。しかしこれは多くの場合、怠惰な答というべきであろう。いったい、いうところの「文学的要素」とは、正確には何を指すのか。プラトンの対話篇のもっている性格の、どこまでがどのような意味で「文学」であり、どこまでがどのような意味で「哲学」であるのか。(p280)
 藤澤は、プラトンの対話篇の本質的性格を見定めるための作業を行うとして、ホメロスからギリシア悲劇に至る文学の歴史を辿り直している。この作業が、プラトンの文学性を歴史の中に位置づけることを可能にすると同時に、哲学のはじまりを文学との関連の中で考える素材を我々に提供してくれるのである。この視角から、古代ギリシャにおける文学の歴史は「ディアロゴス性ともいうべきものが、しだいに現実化されて行く過程」(p302) と特徴づけられている(ディアロゴスとは対話のことである)。このように歴史を眺めたとき、ソクラテスは「叙事詩から悲劇に至る動きと、それを受け継ぐ「ロゴスが主役になる」という悲劇そのものにおける動きの先に、その最後の段階を - 純粋対話ともいうべきものによって - 完成させるべく登場した人物」(p301) と評される。彼が対話による哲学を実践したのも、思考が同時に自分自身との対話であるからに他ならない。
 その先にプラトンの対話篇が現れる。プラトンにとって、ソクラテスの「純粋対話」の精髄は「ディアレクティケー」に見出される。それはすなわち、「前提と帰結の積み重ねによる推論が、対話者どうしの相互確認を通じて一歩一歩厳密に進められていく過程」(p302) である。プラトンにおいて、ディアレクティケーに基づいて行われるソクラテスの思考実践はイデア的な真実在へ近づこうとする努力、すなわち「哲学」だと考えられた。以下の引用に見られるように、このようにして成立したプラトンの「哲学」は必然的に「文学」と区別されると藤澤は指摘する。
 しかしながら、すべてこうしたモチーフは、それが文学のたどってきた動きの家庭の行き着く窮極に成立したものでありながら、いっさいの感覚的継承を振り捨てるという点において、それ自身は文学と本誌的にそのあり方をことにするものであり、それゆえに、それら「文学」の総体に対する対決と否定を必然とするような性格のものである。 (p303)
 このことを踏まえて、ソクラテスに立ち返ろう。ここで理由を問うことは控えたいが、「哲学」を体現していたソクラテスは何も書き残さなかった。「「物を書く」ことには、不可避的に「慰戯」的な要素が伴わざるをえない」(p305, 『パイドロス』274C以下参照として、藤澤が訳出している部分を孫引きした) のではないかという考えがそこにあったのかもしれない。この立場からすれば、プラトン自身のテクストもまた、ミメーシスに過ぎないのではないだろうか。このことを彼自身も肯定するだろう、と藤澤はいう。それは他ならぬ彼の立場なのだから(上の引用が『パイドロス』によっていることを確認してほしい)。むしろその問いの先に、いかなる態度で書くかを問題としなければならないだろう。藤澤は『パイドロス』の同じ箇所を参照しながら、書く人自身が哲人的な人間とそうでない人間とに区別されることに注意を促していると指摘する。
 書く当人が書かれたもの以上のものをもち、真実そのものがいかにあるかを知っていて、書かれた言葉の限界とその慰戯性を自覚している場合には、彼が書くものが何であっても、その人は「哲学者」と呼ばれるべきであり、これに対して、「書かれた作品以上に価値のあるものを自己の中心にもっていない人」、ひいては書かれた言葉の中に「何か高度の確実性と明瞭性が存する」と思い込んでいる人は、それぞれ書きものの性格に応じて「作家(詩人)」とか、「作文家」とか、「法律起草家」と呼ばれるべきである。(p306)
 ここから、プラトンがどうして対話篇という形式を選択したのかが見えてくる。藤澤は一人称による論文形式を「多くの場合それと意識されないミーメーシス」(p307)とし、それではなく、「ミーメーシスであることの明確な自覚のもとに置かれた対話篇という形式」(p307) をプラトンが選んだとするのである。ここに対話篇が「ホメロスからソクラテスに至る「ロゴス」の営みがたどった動きの先において、「考えること」自体がすでに対話であることの見定めと、「書くこと」自体がすでにミーメーシスであることの自覚とが相まって生み出された、それ自身必然的な表現形態」(p307-p308) として立ち現れてくるのである。
 廣川洋一『プラトンの学園 アカデメイア』(岩波書店 のちに講談社学術文庫)は、藤沢の論文も参照しながら、この問題について彼なりの整理を行っている。 
プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)

プラトンの学園 アカデメイア (講談社学術文庫)

 

 廣川は藤澤がプラトンの対話篇の特徴として描き出したディアレクティケーとミネーシスの結婚関係を見事に捉え返している。

  生命を持ち、魂のうちに響きあう言葉〔…〕は、事柄をまともに知ることを意図して、ディアレクティケーの技術を用いながら〔…〕ふさわしい魂を相手に得て、たがいの精神の内部にかわし合うものであった。これこそ真の情熱に値する原物に他ならない。書かれた言葉がいかなるものであれ、原理上すべて模像、影にすぎないものではあっても、プラトンがその影像性を十分に自覚したうえで、詩や劇や弁論や論文の形式をふまず、あえて対話という形式を採ったのは、やはり積極的な意図からであったと思われる。対話・問答形式による書き物こそは、プラトンにとってあの「真の情熱に値する原物」 - 知性の領域においてかわされるディアレクティケー - におそらく最もよく似た模像であった。(岩波書店版 p187)

  最後に、本稿が先日SPQRが投稿してくれた詩論に触発されて書かれているものだということを思い出しておこう。シェイクスピアのあのソネットもまた、プラトンと同じく言葉を非難しつつ言葉に自らの内面を託すものであった。SPQRも藤澤もこの点に着目し、この自己言及をどのようにとらえるべきなのかと問いをたてている。ここで面白いのは、言葉を用いて自分の想いを綴っていること、すなわち内容が言葉に縛られていることが、単純に内容に対する言葉の優位を示さないという点である。言葉を使う以上、我々は言葉のもつ限界から逃れることはできないだろうが、プラトンにおいては内容に対する姿勢こそが彼の言葉を救っている。SPQRが文章の最終段落を「そうではない」と始めたのは、プラトンとその希望を共有するが故だ。しかし、内容に対する姿勢は万能な免罪符なのだろうか。言葉の限界は、ロゴスの批判者である彼ら自身に一番痛切に自覚されてしまう。こうしてSPQRの論考と同じように、ここでも問題ははじめに戻ってしまうことになる。

 ソクラテスの内的対話とホメロスのミネーシスの間でもがくこと。それが言葉に対する懐疑を持ちながらなお書き続ける者の宿命なのだろう。そのことを描き出したところに、SPQRの論考の特筆すべき美点がある。 (HRK)