原文(左)
Hungarians in Babel :: Hughes, Ted: Macaw and Little Miss
1.性的トラウマ
この詩に登場する少女は明朗闊達な印象を与える女の子として登場する。
The old lady who feeds him seeds
Has a grand-daughter. The girl calls him ‘Poor Polly’, pokes fun.
‘Jolly Mop.’ (3. 1-3)
しかしこの少女がただならぬ内面を抱えている存在であることは、次のセンテンスの冒頭の逆接 ‘but’ 以降によって鮮やかに示される。
But lies under every full moon,
The spun glass of her body bared and so gleam-still
Her brimming eyes do not tremble or spill
The dream where the warrior comes, lightning and iron,
Smashing and burning and rending towards her loin: (3. 3-7)
ここでは、夢を少女が見ている場面が展開されている。その夢の中で少女は、粗暴な戦士に襲われており、いかにもフロイト的なファリック=シンボルである尖ったもの、つまり ‘lightning and iron’ でもって暴行され、強姦されそうになっている。ここの描写では、稲光や戦士が持っている武器が男根の象徴として描かれているとするならば、それに対応するように、少女の側には、円のイメージがついて回る。彼女が夢を見るのは’full moon’ の夜であり、彼女の身体は ‘spun glass’ に例えられており、また、「彼女の目は、まばたきすることなく見開いて」 ‘Her brimming eyes do not tremble’ 涙を溢れんばかりにためているようだ。こうした円のイメージは、フロイト的には当然女性器のイメージに重なる。
さて、彼女は昼間こそ陽気な少女である。しかしながら、夢は無意識への王道であって、強姦される夢は、彼女を苛んで放さない何かしらの性的トラウマの表出のように思われる。現時点においてこれは想像に過ぎないが、この詩において少女の両親、殊に父親が存在しないこと、そして少女が祖母の家に女二人で住んでいるように思われることから、少女がかつて父親、あるいは本来保護者たるべき大人たちから性的な虐待を受け、祖母の家に身を寄せた可能性があるのではないかと疑っても良いだろう。その問題を検討するために、まずは少女とオウムとは如何なる関係があるのか、このことを検討していく。
2.ファルスとしてのオウム、籠の鳥としてのオウム
ここでオウムはファルスを象徴するものとして描かれているということを指摘したい。まず、オウムを照応する指示代名詞には he が使われており、オウムは雄として描かれている。また、オウムは尻尾が長い鳥であるので、細長いく尖ったフォルムがフロイト的にはファルスと言えよう。その上で、彼女の夢の中の強姦シーンとオウムの描写の間の、幾らかの対応する点(すなわち、オウムが火と関連づけられていること (1. 2-3; 1. 5; 2. 1-3) と、鉄の拷問具に似ていると言われていること (1. 6) 、さらには ‘thunderous’ (2. 5) なものと関連づけられていること、これらは ‘lightning and iron,/Smashing and burning and rending towards her loin’ に対応する)から、オウムと少女の夢の世界の強姦者との間には強い関連性があると言えそうだ。少女がかつて性的暴行を受けた経験があるのであるならば、彼女の兵士に襲われると言う夢は、いわゆる夢の検閲を受けて思い出された過去になるだろう。
ここで、 ‘The old lady who feed him seeds/Has a grand-daughter’ (3. 1-2) という記述を思い出してみたい。そうすると、オウムが一体全体どういう存在なのか、有効な解釈を提示し得るのではなかろうか。つまり、もしも ‘feed him seeds’ するのが少女の祖母であるのなら、これをもってオウムが祖母の息子、すなわち少女の父親、あるいは少なくとも少女の父親世代の男性権力の象徴であると解釈する根拠にすることも可能なのではなかろうか。そうであるならば、この詩の無意識的根底には父/父親世代による娘への性的虐待に類するがあったのではなかろうか。
ところで、この詩におけるオウムと少女の権力関係とは、夢のシーンが示すように、常にオウム>少女というわけではない。ある時には、オウムは逆に少女から性的被害にあっているとも言える。オウムは ‘a cage of wire-ribs/The size of a man’s head’ (1.1-2) に囚われた籠の鳥であり、その籠の中で少女の性的な響きのある言動の対象になっているのだ。
‘Polly. Pretty Poll’, she cajoles, and rocks him gently.
She caresses, whispers kisses. The blue lids stay shut.
She strikes the cage in a tantrum and swirls out: (4. 3-5)
ここには声かけから、愛撫、キス、そして無視されると、暴力に至るといった、いかにも現実世界にありそうな性的搾取の一連の流れを見て取ることができる。つまり、少女の一連の行為は、オウムという存在を、性的に収奪しようとしているものである。ところで、そもそもオウムが籠に囚われるのは「観賞用」だからであるが、「観賞用」の籠の鳥として囲われ、男性権力にその存在を性的に収奪されてきたのは歴史的に見て女性という存在であった。そうであるのならば、ここにはオウムと少女との類似点を見出しうる。すなわち、少女がいじめるオウムとは、父親からの性的虐待を受けた少女その人をも象徴するものとなりうる。したがって、オウムは男性性の象徴であるだけでなく、むしろここでは女性性の象徴である。かつて少女は、今オウムが ‘wire-rib’ という肉の牢獄に囚われているように、男性権力(父親であることが強く示唆される)に女性として肉体的に囚われていた。また、‘an aspidistra succumbs/To the musk of faded velvet’ (1. 4-5) というオウム/少女が住まう環境についての描写も、植物的ではなく動物的であること、言い換えると性的であることを望まなくとも、女性が否応なく性的な存在に還元されてしまうような、父権性社会的におけるミソジニーの因習を象徴するかのようだ。そうすると、オウムが怒り狂うということは、少女の内面あるいは言動が、性的虐待の経験のために興奮していることを反映していると言えるだろう。
3.ヒステリー
さて、性暴力を受けた少女が興奮状態を示すと周囲の関心をいやが応にも集めてしまうだろうが、オウムは「人目を引く」 ‘staring’ 様子で羽を逆立てメラメラと怒っている (1.2-3)。そして、その怒りを焚きつける存在、すなわち ‘stolking devils of his eyes’ (1. 3) とは、オウムにとってはオウム自身を「観賞用」として囲っている人間の鏡像、またオウムが少女を象徴するとみなすならば、彼女を性的に虐待した男性権力(父親はそのうちの一人)の鏡像と捉えることもできよう。しかしオウム/少女の怒りは、初めこそ今にも復讐しようと決意した拷問具のように激しい (1.6-8) ものであると語り手に思われても、徐々に弱まってゆき、じきに休火山のようにくすぶり続ける (2.1-4) もの、そしてやがては、ほうほうの体で逃げ出してきた亡命貴族に例えられているとおり、簡単に飼いならし得るもの (2. 4-8) に例えられている。これはオウムの怒りが落ち着いていく様子、あるいは少女が性的に虐待された体験を抑圧し、意識の下に沈めていく様子を徐々にたどっているかのようだ。そう読めば、第三スタンザの少女の夢は、彼女がトラウマ的体験の抑圧に成功し、無意識の領域に押しやることに成功したことを反映しているように思われる。
しかしながら、無意識の領域に押しやられた体験は、精神分析によると、さまざまな症状をもたらすものとして理解される。実際、この少女は性格がコロコロと変わるヒステリーのような症状が見られる。これは先の2での議論でも見たとおり、彼女が初めは可愛がっているオウムを、些細なことで癇癪を起こして暴行する事実に見て取れる。
さて、女性がヒステリーを起こすということ、こう言った表象はある意味ではステレオティピカルな偏見を再生産しているということになるだろう。しかし、別の見方をすれば、ヒステリーを起こすこととは、男性権力に対する女性の叛逆と見ることができるかもしれない。この詩の最後に、「籠の鳥」であるオウムは、「飼い主」たる立場の孫娘から性的に搾取、暴行されるがままになっているかのように見えた直後、
Instantly beak, wings, talons crash
The bars in conflagration and frenzy,
And his shriek shakes the house. (4. 6-8)
と、大変怒り狂っているが、オウムが少女を象徴するものであるのだから、同じく「籠の鳥」として収奪されてきた女性性を象徴しうるものであるのは明白だ。そしてオウム/女性のヒステリーは、普段は従属している相手である「飼い主」たる立場の存在に対し、全く無力だということは決してない。なぜならば、オウムの怒りのヒステリカルな絶叫は「家」を、すなわち家父長制的な社会を構成する単位を、揺るがしているのだから。
4.結論
以上の論点を整理すると、この詩においては男性権力による少女の女性性の収奪とそれに対する反抗が描かれていると言える。その中で、オウムは時に男性権力の象徴、時に籠の鳥たる女性性の象徴となっている。女性性の収奪は暴力を伴う非常に性的なやり方で行われているが、搾取された少女の側は、そのトラウマ的性体験に対する怒りや混乱を沈め、その経験を抑圧し無意識の領域、夢の領域に追いやった。しかし、トラウマ的性体験は完全に抑圧されて消えるようなものではなく、むしろヒステリーという症状として少女の性格のうちに出現してきているように思われる。このヒステリーには、女性の男性権力に対する叛逆としての積極的評価を下すことができ、実際に、女性性を象徴するオウムは、表向きにはされるがまま従っているように見えても、その実、ひとたび歯向かえば、家を単位にした家父長制を揺るがす力をもっているように描かれている。
(SPQR)